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1980年代終盤から1990年代初頭の女性アイドル・ポップスの完成度 #1~工藤静香の名を借りた後藤次利論

この「note」ではほぼすべてクラシック音楽、それもおよそ1920年代~1950年代の古い音盤について記してきた。
ただし、トップのクリエーター・ページには

クラシックを中心に全ジャンルの音楽、レコード、CD、映像メディア、コンサートやライブについてのトピック、そして「食」「旅」「メディア」などについても発信してまいります。 「皆様と私自身の心豊かな生活のために」がコンセプトです。

と明記している。
有言不実行甚だしい。

音楽ジャンルに貴賤なし

言い訳がましいが、私の音楽に対する変わらぬ姿勢は「音楽ジャンルに貴賤なし」
「クラシックやジャズが高尚で、歌謡曲やヒップホップが低俗」などというのは、これら2つのジャンルを「高尚だ」「そんな高尚な音楽を聴いている自分はセンスがいい上級国民だ」と思っている輩のみが思っていればいいこと。
そして、音楽ジャンルに上下をつけることほど、馬鹿馬鹿しく、意味がなく、音楽の本質をわきまえていない人間の所業はない、と嘲笑っておけばよろしい。
強いて(それも強いてだ)言えば、「同じ音楽ジャンルの中には貴賤はある、本物と偽物はある」というケースがないわけではない。
しかしそれの判断ですら個人の主観によるところが大きく、客観的な事実、評価など、どこまで歴史的評価として定められるかは難しい
だから音楽は多様で奥が深く、誰でもが楽しめるエンタテインメント、そしてカルチャーなのだ、と断言したい。

そんな考え方でここまで生きてきた私が、クラシック音楽と同じくらい、自らの感性を研ぎ澄ませて聴き続け、そしてある定説を自分なりに持ち得た音楽ジャンル、それがアイドル・ポップス、特に1980年代終盤から1990年代初頭にかけての女性アイドル・ポップスだ。

私はこの時代に生み出された女性アイドル・ポップスは、ある意味、日本の音楽・ポップス・シーンにおいて音楽そのもの、そしてその制作スキームにおいて目を見張る成果を上げたジャンルで、これは日本の音楽史の中で実は特筆すべきトピックだったと考えている。

そう思う理由をいくつかの具体例も交えてご紹介したい。

「バブル」の恩恵

まず、1980年代の終盤から1990年代初頭という時代を表現すればそれはもう「バブル」の一言に尽きる。バブルの絶頂、そしてそれに気が付かずバカ騒ぎをしていたら、バブルはいつのまにか弾けていた、という・・・。

この時代のアイドル・ポップスはそのバブルの恩恵をとても大きく受けていた音楽、と言ってよい。

その典型がこの2点。

1.  著名作詞家、作曲家、シンガーソングライターが、自分のクリエイティヴィティの確認・検証・発表の場として、アイドル・ポップスの制作に関わっていた。

2.  超有名・凄腕スタジオ・ミュージシャンを贅沢に起用してバックトラックを作っていた。

今回はまず1. を実例を交えて。

実はこの当時(1988年春~1993年春)私は、あるエフエム局でアイドル・ポップス専門のラジオ番組(週1回・120分番組)の制作に携わっていた。
手前味噌だが、アイドル・ポップスをいち早く、丁寧に、アイドルの声も交えて毎週2時間もリスナーに届ける番組など、当時は全く存在していなかった。
ましてや、「radiko」なる便利なツールもなかったので、放送エリア以外に住んでいるアイドル・ポップス好きは、エリア内に住んでいる友達(同じ穴の狢)にカセットテープに録音した番組を送ってもらい、ダビングして楽しむという行為を厭わず毎週行っていた。

また、私は120分、60分、55分という各種クラシック音楽番組の制作も同時並行で行っていた。
これは嘘のような本当の話だが、クラシック番組の録音中(何せ1曲が長いので、手持無沙汰になる・・・)、アイドル番組のスクリプトや選曲をやっていたりもした。

そんなわけで当時活躍していた代表的な、それこそA級からC級まで様々なアイドルの曲をたくさん聴き、握手会やコンサートの機を捉えて本人にインタビューしたりする機会にも恵まれていた。

女性アイドル・ポップス 冬の時代

ひとつ大切なことを書き忘れていたが、1988年という年は前年秋に「夕焼けニャンニャン」という番組が終了し、おニャン子クラブが解散した翌年で、後続の「乙女塾」というプロジェクトが同じくフジテレビで進行はしていたものの、一部のソロ・アイドル、つまり南野陽子中山美穂酒井法子浅香唯、そして工藤静香という5名を除けば、女性アイドル・シーンは「冬の時代」に突入したと言ってよい。
特におニャン子クラブが作り上げた「グループ/ユニットもの」というスキームは、1997年、テレビ東京『ASAYAN』のオーディション企画でつんく♂プロデュースでモーニング娘。が結成され、ヒットするまでは、一般社会(世間)的には闇に葬りされてた感さえある(実はアイドル・ポップスの作品はこの時代に豊穣期を迎えていたのであるが・・・)

工藤静香 ー 後藤次利

そんな中、やはりアイドル本人楽曲クリエーターサウンド・プロダクツプロデュースという点で、その時期の頂点にあったのが工藤静香であることに異論をはさむ人はいないであろう。

1987年8月31日、「夕焼けニャンニャン」とおニャン子クラブの終焉とクロスオーバー(仕掛けられた)するように、『禁断のテレパシー』でおニャン子メンバーとして最後にソロ・デビューした工藤静香。
彼女はその後『 Again』『抱いてくれたらいいのに』『FU-JI-TSU』『 MUGO・ん…色っぽい』『恋一夜』『嵐の素顔』『黄砂に吹かれて』『くちびるから媚薬』『千流の雫』『私について』と、 『 Again』『抱いてくれたらいいのに』の3位を除き、オリコン・シングル・チャート第1位を記録、ヒット曲を連発した。

これらの曲の詞は秋元康松井五郎、そして何と言っても中島みゆきらによって書かれたが、作曲、そしてサウンド・プロデュースは一貫して後藤次利が行っている。

私が制作していたアイドル番組が93年3月に終わった直後だったと記憶しているが、とある機会にその後藤次利氏と会話する機会があった。初対面だ。
氏は当時関わっていたプロジェクトのプロモーションのために、メイン・アーティストの補助役として姿を現した。
もちろん、そのプロモーションのための話もたくさん聞いた。
しかし、私が後藤氏から最も聞きたい話は
「あなたにとってアイドル・ポップス、特に工藤静香とのコラボレーションは何だったのか?」
ということであった。
本来の話が終わった後、マイク・オフの場で思い切って彼にこの質問をぶつけてみた。
彼の答えはいたってシンプルだった。

「彼女との一連の仕事は、自分が進化していくためのチャレンジの場であり、実際にこれによって自分は進化していると実感した。自分のキャリアの中でも代表的な仕事だと思っている。」

私は感動を飛び越えて、大きな脱力感に襲われた。
あまりにも私が「氏の口から発して欲しい言葉」と思っていたもの、そのままの言葉だったから・・・。

アイドル・ポップスだからと言って、それを片手間仕事、小遣い稼ぎ、と思って取り組んでいないことはもちろん、自分のキャリアの中でも特質すべき仕事だと考えていた後藤次利という人のミュージシャン、アーティストとしての器の大きさを見せつけられた思いだった。

そんな彼がその直後、おニャン子クラブが生んだもう一つのエポック・メイキングの主人公、河合その子と結婚していた、と知った時も驚き、脱力感に襲われたが・・・。


このテキスト、一回では終わりそうにないので、また機会を見て(あまり間隔を空けず)Part2も展開してみたい。

※ということで、2021年9月3日にアップしたのがこちらです。
一気に「マニア」な世界、しかし当時のアイドル・ポップスを語る時、どうしても語っておかなければいけない「Qlair」についてです。

※そして、第3弾はこちら!
実はこの記事を書きたくてこのシリーズを始めたといっても過言がない「Lip's」について


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