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1980年代終盤から1990年代初頭の女性アイドル・ポップスの完成度 #3~Lip's

「note」では、主にニッチなクラシック音楽や古い音盤について綴っているが、8月、9月と「1980年代終盤から1990年代初頭の女性アイドル・ポップス」という、私のアナザー・サイドのテリトリーについて記事を綴った。
工藤静香に名を借りた「後藤次利論」、そしてこの時期のアイドル・ポップスでは、音楽性、コンセプト性、志が最も高く、ヒットには至らなかったものの最強のアイドル・ユニットだ、と信じて疑わないQlairについて・・・。

前者にある程度の反響があることは何となく想像していたが、後者についても、それこそクラシックの記事と較べられないほどの「いいね」をいただき少々驚いている。
ニッチとは言いながらも多少の需要があることが分かったのは存外の喜びである。

ただ、このシリーズを書き始めようと思った直接のきっかけは、その最強のアイドルであるQlairにあったわけではなく、Qlairより少し早くデビューし、そしてちょうど3年という短い期間で活動を終えた、やはり3人組のユニット、Lip'sにあった。
加藤貴子吉村夏枝山本京子、という、明らかに不揃いなこの3人組ユニットについて、解散から28年ほどが経過した今、その存在意義と私のクリエイティヴィティに与えたその大きさについて綴ることが必要だと思った。
さらにニッチな世界に皆さんを誘うことになるが、ご興味があれば引き続き・・・。

Lip's

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これはLip'sがデビューした1990年夏に届いた、彼女たち(所属事務所)からの暑中見舞いはがきだ。
この画像も含め、今回は彼女たちから届いたポストカードを要所要所に挿入していこうと思う。
こうやって彼女たちから折々に時節のご挨拶が届くということからしても、Lisp'sと私の間柄を何となくイメージしていただければありがたく・・・。

この暑中見舞いから、Lip'sのLip'sたる部分の情報提供が既になされている。
3名の顔の横に書かれたテキストをご覧いただきたい。
ここから読み解けるのは、
◎ 加藤貴子はもうすぐ20歳になる
◎ 吉村夏枝は高校2年生である
◎ 山本京子は中学3年生である

ということ。
加藤貴子と山本京子の間には5歳という随分な年齢差があり、明らかにこの手のユニットのセオリー=年齢の近いメンバーで構成される、からは大きく外れている。
そして、中学3年生である山本が、3人の中では一番大人びて見える気がする、ということも・・・。

元々Lip'sは1989年に開催されたUCC缶コーヒーのCMキャラクターを選出するためのミス・コンテスト・グランプリの入賞者で結成された。
UCC缶コーヒーの3タイプのテイスト、オリジナル、ハーフビター、ビターのキャラクターに、順に吉村、加藤、山本が選ばれ、1990年3月21日、そのCMソング『愛の魔力』でLip’sとしてデビュー。ハワイで撮影されたCFが大量露出された。

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それを「個性溢れる3人」と言うべきか、この結成の由来からもわかるように「つくられたユニット」ならではの「統一感のなさ」と言うべきか、議論が分かれる、いや、明らかに歴史が証明したのは後者だったわけだが、しかし、私が彼女たちに感じた最大の魅力はその「個性」、特に解散後全く違った形でそれが表れ、世間に評価され現在に至っている加藤貴子の個性、人柄であった。

それについては後に記すとして、まずは類まれだった、そして時代の先を少し行き過ぎたが故に理解されにくかったLip'sの音楽性について語りたい。

フィラデルフィア・サウンド → 角松敏生的シティポップス

デビューシングル『愛の魔力』のサウンド・コンセプトが、洋楽の心得がある方が聴けば「フィラデルフィア・サウンド(ソウル)」にあることはすぐにわかる。
ストリングスとホーンセクションを贅沢に使って厚い音の壁を作り、その上にタイプの異なる声質の3人の歌でコントラストをつけていき、サビはユニゾンで通す。
ボーイッシュな清々しさを持った吉村夏枝と、年齢不相応と思われる舌足らずなアニメ声の加藤貴子にAメロ前半を歌い分けさせ、後半を3人の中では明らかに歌唱力の勝る山本京子が歌い、Ⅾメロも彼女が歌う。
ラブソングではあるが、どちらかと言えばメッセージありきのラブソングだ。
また、デビューアルバムにして唯一のアルバムとなった『これ、うまいぢゃん』(1990年9月21日リリース)に収録された時、『愛の魔力』はまさに「フィラデルフィア・バージョン」と銘打ったリミックス・バージョンとなっていた。

『愛の魔力』のライター、参加ミュージシャンのクレジットを見たら、それは壮観である。
作曲は上田知華、キーボードは新川博、そしてベースとドラムのリズム隊は、山下達郎サウンドを支える伊藤広規と青山純だ。

サウンド・プロダクツとしては極めて完成度の高い作品だったはずで、大型タイアップもついていたにもかかわらず、セールスは芳しくなかった。

この『愛の魔力』の方向性は、同年6月1日にリリースされた2ndシングル『Splendid Love』でさらに推し進められ、より洗練されていった。

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ストリングスとホーンを絶妙にアレンジし、ギター・カッティングを施し、『愛の魔力』に多少感じられたオーバー・プロデュース感は減退し、より洗練されたサウンドとなった。
歌詞もメッセージ・ラブソングから、失恋ソングに塗り替えられ、大人度をグッと増していた。
その出だしのAメロを加藤が歌う。相変わらず舌足らずな甘い歌声だが、却ってそこに仄かな哀愁が漂う。
その他の部分の歌詞割りも絶妙で、相当手の込んだ構成になっている。
そしてそれはCDでもライブでもそうだったのだが、サビをユニゾンではなく、3声でハモる部分もあり、アイドル・ポップスと呼ばれるカテゴリーの曲では、相当高いハードルを設定し、それを乗り越えようとした作品となった。
Lip'sのレコードメーカー、CBS SONY(現SONY MUSIC)の担当ディレクターだった佃淳三氏(のちにFUN HOUSEに移籍し、王様の直訳ロック・シリーズの制作担当となり、ヒット・ディレクターとなった)とは面識があり、実際彼やLip'sのマネージメント・スタッフから聞いた話なので間違いないが、Lip'sが狙っていたのは角松敏生、あるいは山下達郎的な、ブラックミュージックのテイストを隠し味にし、洗練させたシティポップス路線だった。

バックトラックに参加しているミュージシャンも豪華だった。
ホーンセクションの中心、トランペットの数原晋は前作『愛の魔力』に続いての参加、サウンド・プロデュース、アレンジ、シンセサイザー、ギターは、EPOや大江千里のアレンジャーとして知られる清水信之、コーラスには安部恭弘の名前も見える。そして間奏の印象的なアルトサックス・ソロは、当時”和製ケニー・G”と呼ばれ大注目されていた三四郎だった。

実はLip'sが解散する少し前に、三四郎氏にお会いする機会があった。そこで試しにこの『Splendid Love』のソロについて聞いてみた。
彼は一言こういった。
「全然覚えていない。」
これはまさしくバブル期の「スタジオ・ミュージシャンあるある」だ。

アイドル・ポップスのバックトラック・レコーディングにお声がかかった優秀なスタジオ(セッション)・ミュージシャンは、それが何というアーティストの何という曲など知らされず(知らされたとしても、それはどうでもいいことだと思っていた)、スタジオに入り、与えられた譜面に書かれたメロディを、あるいはキーや小節数を知らされて、あとはアドリブで弾いたり吹いたりして、一丁上がり!
テイクの確認もほどほどに、スタジオを後にする、
そして後日フィーが銀行口座に振り込まれる、といった具合だった。

三四郎氏はこうもつけ加えた。
「自分が言うのもなんだけど、いいソロだね。でも、やっぱり覚えてないなぁ。」

これは余談だが、ポール・マッカートニーの映画『ヤァ!ブロードストリート』に、ポールがラジオ番組(おそらくBBCの体)に生出演し、ギターで『Revolver』に収録された『For No One』を弾き語るシーンがある。

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演奏が始まりしばらくすると、雨合羽を着た男がスタジオに現れ、それを脱ぎ、やおらケースからホルンを取り出し、スタジオ・イン。『For No One』の間奏で見事なソロを聴かせ、自分の出番が終わるとそのままスタジオ・アウトしてしまう。
さもそれが日常茶飯事かのように、ポールも番組スタッフも驚く様子は全くなく、淡々と演奏を終える。
カッコいいじゃないか!

閑話休題。
単に曲1曲で語れば、前回Qlairの回で述べた彼女たちを代表をする楽曲『約束』と並ぶ、いやそれを凌駕する80年代末から90年代初頭のアイドル・ポップスの最高傑作、それが『Splendid Love』だ。

しかし、『愛の魔力』同様、この曲もヒットには恵まれなかった。
直後にリリースされた先述したアルバム『これ、うまいぢゃん』も同様だった。

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こうなるとメンバー本人たちはともかく、Lip'sのスタッフ周りは焦りを感じ始める。
かわいさやキャラクターだけではなく、戦略的に音楽性でもアイドル・ポップスのマーケットを切り拓いて行こうとしているのだから、それはなおさらだった。

私はLip'sの間近でそれを見つめ、肌身で感じていた。

これまでのこのシリーズでもお伝えしているように、私は当時静岡県のあるラジオ局で、当時としては稀有なアイドル・ポップス専門の週1回2時間番組を制作していた。
Lip'sと初対面したのは、この番組のゲストとして局にキャンペーンに来た時だった。
さらに加藤貴子は私と同じく静岡県清水市(現静岡市清水区)出身で、当時はまだ地元の短大に通っている学生だった。
だから彼女はLip'sとして活動する時だけ上京する、という二重生活をしていたのだ。
そこに目を付けたLip'sのマネージャーと私は、このアイドル・ポップス番組に彼女が一人しゃべりするミニ・コーナーを設定して、Lip's初のラジオ・レギュラーをスタートさせたのだった。
せっかく地元にいる時間があるのだから、勿体ないじゃないか!と。1990年10月のことだ。

何度もお伝えしているように加藤貴子の最大の武器はその声だった。一度聞けば忘れることはないであろう甘ったるいアニメ声。しかし、聴いていて嫌な感じは全くしない。むしろ聴く者の心にスルっと入り込んで、くすぐる絶妙な声だ。
そしてそのキャラクター。人懐っこさとちょっとおバカな、しかし決してバカではない芯のある性格。自分のことを「私」ではなく「貴子はね・・・」という彼女。
現在でも活動している方で言えば、小倉優子のような立ち位置のタレントだ。
そんな彼女が始めたコーナー番組はすぐに人気となった。彼女はみんなから「貴ちゃん」と呼ばれていたが、にわかにその貴ちゃんのアイドル歌手だけに収まらないキャラクターが発揮され始めた瞬間だった。

そして、翌年1991年の4月からはそれまでこのアイドル・ポップス番組のメイン・パーソナリティを務めていたアナウンサーからバトンタッチする形で、番組全体のメイン・パーソナリティに抜擢された。
そこにほかのメンバー二人が時々出演したり、ほかのアイドルが出演したりと、単なるアイドル・ポップス番組ではなく、加藤貴子を中心とするトーク・バラエティに番組は変貌していった。

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苦心

ラジオ・パーソナリティ、そしてタレントとして頭角を現した加藤貴子、そしてそのあとを追うように個々のキャラクターをより鮮明にしていった吉村夏枝、山本京子だったが、アイドル・ユニットLip'sとしては苦戦を強いられた。

前作『Splendid Love』から1年2か月の間隔が空いてリリースされた3rdシングルでLip'sは奇策に打って出る。

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1991年8月1日にリリースされたシングルCDは『青い珊瑚礁〜ブルーラグーン・ダンス・ミックス/すきすきソング〜FUNKY“アッコちゃん”DANCE MIX』の両A面シングル。松田聖子の代表曲、そして懐かし名アニメのエンディングで、水森亜土という強いキャラクターの持ち主が歌った名曲の2曲を、当時の最先端を行っていたであろうダンス・スタイルにアレンジした楽曲だった。
「カバー曲」というカルチャーが現在のように定着、評価されていなかった当時、カバー曲をリリースするというのはアイドルに限らず、すべてのアーティストにとって「ALL or NOTHING」な選択のように思えた。
「オリジナルを超えた楽曲」か「オリジナルを汚す真似事」か・・・。そして、その評価の確率は明らかに後者の方が高かった。
今なら確実にある「オリジナルはオリジナルの良さがあり、カバーにはカバーの良さがある」「新鮮だ」「新しい光が当てられた」といった好意的な評価を得るような寛大な土壌、音楽の多様性を許容する文化は醸成されていなかった。

楽曲に合わせてファッション、ヴィジュアルも大きく変わった。
1960年代後半のサイケデリック・レトロ・フューチャーなコンセプトだ。

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正直に告白すれば、この方向転換を知った時、私にはこの戦略は「失敗するんじゃないか?」と思えた。
簡単に言えば「尖りすぎている」「半歩どころか、二歩も三歩も先を行ってしまっている」と思ったからだ。
多くの人は歌い手、作り手の思いとは関係なく、「有名曲に縋ったちょっとしたお遊び」程度にしか見えなかった、聞こえなかったはずだ。
実際、結果もその通りに終わった。

しかし、これは後日談だが21世紀に入り、ディスコに代わってクラブ・カルチャーが台頭すると、何と若いDJたちがLip'sの『すきすきソング〜FUNKY“アッコちゃん”DANCE MIX』をこぞってネタとして使うようになった。
「クールだ」という言葉とともに。
やはりLip'sは、時代の5年先、いや10年先を歩んでいたのかもしれない。

因みに『すきすきソング〜FUNKY“アッコちゃん”DANCE MIX』のMVは当時の映像新フォーマットであったVIDEO SINGLE DISCでリリースされている。

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この作品も明らかに先を行き過ぎていた。
それを証拠に、今観ても古さを全く感じさせない。

迷路、そして解散

3rdシングルからさらに11か月後の1992年7月1日、結果的にラストシングルとなる『いそがばまわれ!』がリリースされた。

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前作の奇抜さは影を潜めたが、最先端の打ち込みクラブ・ミュージックにラップまで取り入れた、とてもカラフルでピースフルな分かり易い名曲。
しかし、それでもこのサウンド、そしてメッセージは時代の先を行き過ぎていたと思う。

そして、やはりメンバーやスタッフが、そして私が望んだような結果を得ることはなかった。

因みに東京パフォーマンスドールのメンバーであった市井由理YURIとして、GAKU-MC率いるEAST ENDとコラボして大ヒットした『DA.YO.NE』がリリースされたのは、『いそがばまわれ!」より約2年2か月後の1994年8月だ。
私には『DA.YO.NE』と『いそがばまわれ!』のサウンド・プロダクツの志向性、リリックのコンセプト、そして完成度は、ほぼ同じように思える。

誰がどう切り出し、それをメンバーがどう聞いて理解したかは詳らかではないが、実質的にはLip'sは1993年3月31日をもって解散した、ということになっている。
解散発表会見もコンサートもなかった。

実は1993年4月1日、Lip'sの生きた言葉、思いを聴き、知ることができたレギュラー番組を放送していたラジオ・ステーションが、その開局10周年に大幅なCIを行い、ステーションネームを変え、番組編成も一新させた。
そこにLip'sの座る席は用意されていなかった。
つまり、楽曲をリリースすることもライブをすることも叶わない状態のLip'sを生き長らえさせていたラジオ・レギュラーの終焉とともに、Lip'sは解散した、というのが私を含めたメンバー、スタッフの共通した認識だったように思う。

3年という活動期間は決して悲観的なものではない。
そんなにもたなかったソロ・アイドルやアイドル・ユニットはごまんといた。だからこの時代は「女性アイドル 冬の時代」と言われているのである。
Lip'sに軸のぶれがあったことは否定できない。
しかし他のアイドルとは一線を画し、クリエイティヴィティを発揮していたLip'sが、結果を出せなかったのは、まさにPOPSがPOPである(大衆化、ヒットする)ことを前提として成り立っていることの皮肉な結果だったように思う。

これはちょっとした知恵袋だが、今では一般的になった光景だが、アイドル・ユニットでハンドマイク、あるいはスタンドマイクではなく、ヘッドセット・マイクを使って最初にパフォーマンスしたのは、安室奈美恵とスーパーモンキーズでも東京パフォーマンスドールでもなく、Lip'sだった。
ダンス・パフォーマンスもLip'sの武器で、ヘッドセットは単なるファッションではなく、Lip'sに欠くべからずツールだった。

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              最後の宣材写真

幸にしてLip’sが発表した全楽曲は、全てSpotifyで聴くことができる。

是非この時代を先に行き過ぎたユニットのPOSを聴いていただきたい(唯一、Lip’sが当時のCBS SONYのアイドルたちとともに参加した七つ星という企画で新録された『Splendid Love in December』は登録されていない。この作品は『Splendid Love』の歌詞をクリスマス仕様に換え、アレンジもSoul To Soul Beatに仕立てた、やはり最先端なサウンド・プロダクツだった)。

加藤貴子

さて、ここまでお話ししてきてLip’sの加藤貴子、貴ちゃんが、その後、TBS系お昼の連続ドラマ『温泉へ行こう』で主役の温泉旅館女将役を演じてブレイク、その後も『新・科捜研の女』で内藤剛志演じる大門刑事の妹で科捜研のメンバーでもある大門美貴役、木村拓哉主演の『GOOD LUCK』で新人をいびる先輩CA役、そして『花より男子』でヒロインのつくしのバイト先の団子屋女将、千石幸子役と、名バイプレイヤーを演じてきた加藤貴子であることにお気づきの方がどれだけいらっしゃるであろうか?

加藤貴子について語ることは、この稿の主旨とは異なるので、別の機会に譲りたいが、昨年、久しぶりに彼女とラジオの仕事をした。
その時に聴いた話だが、Lip's解散後、メンバー3人が顔を合わせたことは1回もない、ということだった。別に3人が反目して解散をしたわけではないく、彼女自身もそのうちいつでも会えると思っていたが、27年間が過ぎ去ってしまった、と言っていた。
「そんなものなんだろう。」と私も思った。

10月14日

Lip'sと同時期に活動し、それを遥かに上回る結果を叩き出した3人組ユニットにribbonがいる。
実はribbonのメンバーで、その後女優として大成するベビーフェイス、永作博美と加藤貴子は生年月日が全く同じである。
1970年10月14日。
これは何かの偶然か?

明々後日、二人は年をひとつ重ねる。


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