見出し画像

クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #62〜パウル・クレツキ ワーグナー『ジークフリート牧歌』(1958)

リヒャルト・ワーグナー生誕208年

今日5月22日はリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner, 1813年5月22日 - 1883年2月13日)の誕生日。

画像1

音楽史と美学史におけるワーグナーの功績「音楽と言葉と演技(ドラマ)を不可分なものとした総合舞台芸術の創造」に、まずは正当な敬意を払うべきだろう。
しかし一方で、政治やイデオロギーにおける過激性、借金を踏み倒すことに罪悪感を感じない、そして弟子ハンス・フォン・ビューローの妻を寝とる、といった人間としての品性、正しさに欠けることもよく知られている。
私個人としても「まぁ、芸術家ってそういうところあるよね」と言って、片付けられるような問題ではないようにも思える。
「音楽に罪はない」という考え方には大賛成だが、ワーグナーのことになると、少しその勢いも衰えそうである。

ジークフリート牧歌

そんなワーグナーの作品の中で、唯一と言っていい、実に人間的正しさ、心を素直に表現した器楽の名曲がある。
『ジークフリート牧歌』
この作品は1870年12月25日の朝、その年、正式に結婚した妻コジマの誕生日を祝うため、ワーグナー(実質的には弟子でその後、高名な指揮者となるハンス・リヒター )が集めた少編成のオーケストラが、ワーグナーの自宅の階段に陣取って、起きてくるコジマに向けて演奏した穏やかで優しさに満ちた名曲である。
まぁ、「サプライズの元祖」のようなものか・・・。

『ジークフリート牧歌』はその曲調の相性の良さ、LPやCDの収録時間の具合などにより、ブルックナー の『交響曲第7番』と併せて収録されることが多い。

その先達はH.v.カラヤンベルリン・フィルハーモニーのLP2枚組だろうか?あれがリリースされた時、「流石、カラヤン!」と唸ったものだ。

画像2

また、実際のオーケストラのコンサートでも、1曲目に『ジークフリート牧歌』が演奏され、メインに『ブル7』が演奏される、というプログラムも時々ある。
ここ2、3年に限っても、飯森範親と日本センチュリー交響楽団、小泉和裕と東京都交響楽団(マエストロ70歳の誕生日当日のアニヴァーサリー)の2回を、私自身も会場で聴いた。

【ターンテーブル動画】

さて、今日ご紹介する78rpmは、パウル・クレツキフィルハーモニア管弦楽団を指揮して、1958年8月終わりから9月初頭に録音した『ジークフリート牧歌』。

画像3

録音時期を見ていただければお分かりの通り、LP販売はおろか、既にSTEREO録音が始まっている時期の演奏だ。
1948年にLPが発売され始め、78rpmは次第に生産されなくなり、日本では1962年をもって生産終了となった。
このクレツキの音源も1959年に、ブラームス『ハイドンの主題による変奏曲』らとカップリングングされ、LPでリリースされている。

画像4

78rpmがLPに駆逐される、来るべき時が来た時の78rpm。

パウル・クレツキ

パウル・クレツキ(Paul Kletzki, 1900年3月21日 - 1973年3月5日)は、ポーランド出身の指揮者、作曲家。

画像5

その作品は1920年代、A.トスカニーニやW.フルトヴェングラーも取り上げ、認めていたという。

ナチス政権が樹立されるとユダヤ系であったクレツキは、まずイタリアに向かう。しかし、ムッソリーニ政権の反ユダヤ主義政策の煽りを受け、社会主義国ソビエト連邦に逃れる。
更に今度は1936年にスターリンの大粛清を逃れ、スイスへの亡命。
ここにもまたイデオロギーに翻弄された漂流の音楽家がいる。

クレツキの代表作『交響曲第3番“イン・メモリアム”』は、スイス時代にナチスの犠牲者のために作曲された。クレツキの家族もホロコーストの犠牲となり、クレツキ自身も精神を病み、作曲の筆を折ったという。

戦後はE.アンセルメの後任として、1966年から亡くなる1973年までスイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督を務めた。マーラーの名解釈でも知られていた。

ひたすら実直に、嘘のないクレツキのワーグナー。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?