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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #80〜フランツ・シャルク/ウィーン・フィルハーモニー ベートーヴェン『交響曲第5番 ハ短調 作品67』(1929)

5月29日の「note」に「今日はフランツ・シャルクの誕生日」と言いながらも、同じ日が命日であったピアニスト、エゴン・ペトリのべートーヴェン『ピアノ・ソナタ第14番≪月光≫の78rpmを紹介した。

何故、シャルクではなくペトリの方にしたかと言えば、前日が皆既月食であったから・・・。同じベートーヴェンでもシャルクの『運命』ではなく、ペトリの『月光』と相成ったわけである。

しかし、やはりシャルクの『運命』そして『田園』は、音盤史上初めて電気的録音された一連のウィーン・フィルの演奏という点、そしてウィーンのオペラ界にその足跡を確実に残しながらも、同時期の指揮者と比較して録音が少なかったり、師ブルックナーの交響曲を兄でピアニストのヨーゼフと共に「改竄」したという悪評だけが残ってしまった感のあるフランツ・シャルクの音楽性の高さを聴くことができる音盤である。

シャルクの師 ブルックナー

ブルックナーの件について話し始めると、長くなりそうだが掻い摘まんで・・・。
シャルク兄弟がブルックナーの楽譜に勝手に手を入れ、ブルックナーの音楽様式を歪めた、というが、それは現代の視点から見た知見であって、その視点だけで2人を悪者扱いすることは、バランスが大きく傾いた考え方であり、賢明、適正な判断ではない。
ブラームスと彼を表看板として音楽美学、評論を披瀝した学者兼評論のハンスリックが席巻していた当時の音楽首都ウィーン。
そんな町で彼らとは全く異なった音楽美学を信条として、活動していたのがブルックナーである。
彼の音楽家としての活動、それは単に作曲するだけでダメで、作品をコンサートに上げる、つまり演奏されることが絶対的に必要である、ということをシャルク兄弟が重んじたが故に、気弱で臆病なブルックナーに代わって「演奏されやすく」するために楽譜を書き換えた、という言い方でなければ真実として伝わらない。
ブルックー自身にとっても「自分の交響曲がとにかく演奏されること」という欲望を払拭することなどできなかったのだ。
誤解を恐れず言うならば、「音楽は再生芸術」という観点から、演奏されなければその音楽の意味、価値はない。ましてや、作曲者自らが自作を指揮できるほど、彼らの作品(オーケストレーション)は単純なものではなくりつつあった時代が到来、いわゆる「職業指揮者」の存在なくしては、「良く演奏されない」時代となったのだ。
ハンス・フォン・ビューローハンス・リヒター、そしてアルトゥール・ニキシュ。彼らの手により取り上げられた作品は輝きは放つようになった。それはブラームスであっても同じことだ。
敢えて言うなら例外は2人だけ。グスタフ・マーラーリヒャルト・シュトラウスのみだ。
そんなことは以前こんな文章で皆様とシェアしている。

さて、そういう意味ではフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863年5月27日 - 1931年9月3日)は、先に挙げた3人の指揮者の系統に連なるウィーンの歴史的指揮者だ。

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G.マーラー〜F.ワインガルトナー〜F.シャルク〜C.クラウス

1918年から29年まで、途中(19年〜24年)、R.シュトラウスとの双頭体制時代も含めウィーン国立歌劇場(途中まではウィーン宮廷歌劇場)総監督の地位にあったシャルク。
彼の先代はフェリックス・ワインガルトナーであり、さらにその前はマーラーがその任にあったのだ。
マーラーがこのオペラハウスで徹底的に行ったオペラ上演改革(改善)は、劇場関係者、オーケストラ、歌手たちにあまりに厳しかったこともあり、彼が総監督を辞任したのを受けその地位に就いたワインガルトナーは、マーラーの改革から逆行し、復古主義的体制、「事勿れ主義」に徹した。
ワインガルトナーの指揮を「エレガント」とか「古典的」などと言い、「ベートーヴェン交響曲全集を完成させた史上初の指揮者」などと持ち上げる人がいるが、個人的には無個性な音楽を作る人で、音楽的充実の観点からは、決して歴史に名を連ねる存在ではない、と思っている。
更にブルックナー・オタの立場で物申せば、ブルックナーの『交響曲第8番』を初演することを作曲者に約束したにもかかわらず、のらりくらりとした態度で、結果的にはそこから降りたワインガルトナーには、時代の変わり目、潮目で大きく変わろうとしている音楽の姿を認識する力がなかった、と断じていいように思うが、いかがだろうか?
まぁ、彼が断わったことで、ブルックナーの最大最高傑作はH.リヒターの手によりウィーン・フィルにより初演されたので、結果オーライと言えばそうなのだが・・・。

閑話休題。
その点ではシャルクはマーラーの時代へとまた舞い戻るかのように、歌手や若手のオーケストラ団員の育成に力を注ぎ、熱血指導したと言われているし、証言も多い。
その音楽性は同僚でもあった(反りが合わなかったという専らの話)シュトラウスの新古典主義的なものとは異なり、19世紀のロマン的解釈を色濃く残したものであるが、今聴いてもそれが古めかしいというイメージはあまりない。
むしろその面よりも品格の高さ、香りの豊かさに耳がくぎ付けになる。
その文脈で語るならば、シャルクが総監督を辞任して、代わりにそこに座った若き天才、この「note」でもおなじみのクレメンス・クラウスや、そのクラウスの影響をもろに受けたヘルベルト・フォン・カラヤンには、シャルクの遺産が確実にに受け継がれている。

【ターンテーブル動画】

さて、そんなフランツ・シャルクが1929年にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの『交響曲第5番 ハ短調 作品67』の78rpmをクレデンザ蓄音機で。
この音盤の話題が出る時、必ずと言っていいほど添えられるのが、最初の♪ダダダダーン♪の3連符が4連符に聴こえる、ということ。
実際、オーケストラのアインザッツが不揃いで4つの音に聴こえる。当時はそれを録音し直すなどという発想はなかったのであろう。
微妙なテンポの動きはあるものの、作為的でもうねりを伴ったものではなく、先ほども言ったように気品があり、美しい大理石の彫刻を眺めている時に感じるような風情がある。

なお、私が最初に手にしたこの78rpmは、英オリジナルHMV盤であったが、ある時高さ10センチ未満のところから、このセットの2枚目(第2楽章)に誤ってコップを落としてしまい、塩ビではなくシェラックから出来ていて、柔軟性など全くない78rpmは見事に真っ二つに割れた。
皆さんが想像するほどのお値段ではなく、至って常識的でむしろ「こんなんでいいんですか?」と尋ねたくなるような値段で購入した盤なので、経済的損失は思ったほどではなかったが、全曲通して聴くことは叶わなくなった。市場にもなかなか姿を見せないシロモノになっていた。
それからだいぶたって、オークションで日本ビクター盤でありながら、しかも2枚目と3枚目のみの「半端もの」状態でこのシャルクの『運命』を見つけ、難なく落札した。

名称未設定のデザイン (51)

もちろん厳密に言えば、イギリス盤と日本盤では音質が異なるが、鑑賞には十分耐えられるし、思ったほど日本盤」のコンディションも悪くなかった。
というわけで、今回は第2楽章のみ日本ビクター、あとの3枚はHMV盤でお届けする。

因みに1931年9月3日にシャルクは帰らぬ人となったが、最後の言葉は「私のウィーン・フィルハーモニーの人たちをよろしく」だったという。

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