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シレナ1912×78rpmの邂逅 Vol.15~クレア・デュックス R.シュトラウス『明日』(1922)
Richard Strauss
"Morgen" Op.27-4
Claire Dux,soprano
Frederic Fredkin, violin obbligato
Frederic Persson, pianoforte
Brunswick 10130-A
Shellac 10" 78rpm
Recorded New York on Oct.1922
クレア・デュックス(Claire Dux, 1885年8月2日–1967年10月8日)は、プロイセン王国のポーゼン州、現在はポーランド領であるグニェズノで生まれた。
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デュックスの両親はいずれも音楽的素養があり、母親はクララ・シューマンと親交があったとも言う。
12歳の時、デュックスは通っていた学校内で制作されたフンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』でグレーテルを歌った。
彼女はブロムベルク(現在のビドゴシュチュ)で声楽を学び始め、その後ベルリン、ミラノでも学んだ。
1906年、ケルンのオペラ・ハウスでモーツァルト『魔笛』のパミーナ役でプロ・デビュー。ここで度々演じたプッチーニ『ラ・ボエーム』のミミ役により、デュックスは大きな成功を収めたという。
1909年にはいよいよベルリン宮廷歌劇場(現 国立歌劇場)に客演、24歳のデュックスは『ラ・ボエーム』の公演で、ロドルフォ役のエンリコ・カルーソに全く引けを取らずミミを歌った。その成功により 1911年からはベルリン宮廷歌劇場の正メンバーとなった。
当時の宮廷歌劇場の音楽総監督はリヒャルト・シュトラウス。彼の代表作である『ばらの騎士』は、1911年にドレスデン宮廷歌劇場で初演されたが、その後のベルリン初演でデュックスはゾフィー役に抜擢された。
また1913年、彼女はコヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウスでの『ばらの騎士』イギリス初演でもゾフィーを歌う。これはトーマス・ビーチャムたっての希望だっとという。
その後、オペラのみならず、リサイタル活動も行い、ストックホルム王立歌劇場にも数多く出演した。
そして、1921年にはシカゴ・オペラのメンバーとなり、アメリカ・デビュー。役柄はレオンカヴァッロ『道化師』のネダだった。
彼女はシカゴを自らのキャリア集大成の場所として、引退までここで歌い、1967年10月8日、シカゴで亡くなった。82歳だった。
R.シュトラウスの『明日』は彼の数多い歌曲の中でも特に人気が高い1曲。ジャン・マッケイの超ロマンティックな歌詞に、負けずとも劣らない甘い旋律をシュトラウスがつけている。
また長いピアノ伴奏に加え、オーケストラ編曲版ではヴァイオリンのオブリカートがつくが、このデュックスのレコ―ドではフレデリック・パーソンのピアノに加え、フレデリック・フラドキンがヴァイオリンをつけている。
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フラドキンは1918年から20年まで、名門ボストン交響楽団のコンサートマスターを務めた人。
彼は米国の主要オーケストラにおける、初の米国生まれのコンサートマスターであるとみなされている。
しかし1920年、オーケストラ・メンバーの賃金交渉に端を発した運営サイドとのギクシャクした関係の中、1920年3月5日、ベルリオーズの「幻想交響曲」の演奏に対する聴衆の拍手に対し、このコンサートを指揮した音楽監督のピエール・モントゥーが、オーケストラに起立するよう身振りで指示した時、フラドキンが楽団に抗議の意思を表すため、席に留まったという事件があった。
これをきっかけにフラドキンはコンサートマスターを解任され、退団することになった。
録音は1922年10月にニューヨークで行われている。
レコ―ディング・データで確認できる限り、デュックスの録音キャリアは1928年、43歳の時に終わっている。引退がこの前後だったかどうかは残念ながら不明だが、3歳年下のロッテ・レーマンが1951年、63歳までリート歌手としてのキャリアを保ったのと比較すれば、彼女のキャリアはおそらく長くはなかったのであろう。
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