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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #13~ヴォルフガンク・シュナイダーハン ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』(1942)

ブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』

ベートーヴェン、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ブルッフ、シベリウスのそれとともに、ヴァイオリン協奏曲の人気作品、ヨハネス・ブラームスの『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77』
作品の成り立ち、特にブラームスの友人であり最大の理解者、当時最高のヴァイオリニストであった初演者ヨーゼフ・ヨアヒムとのことについては、既に多くの機会に語り尽くされているので、そこは割愛させていただく。

とにかく、一丁のヴァイオリンで重厚なオーケストラに立ち向かっていく様、演奏者に高度なテクニックを要求し、「作品自体とヴィルトォーゾの高次元での融合」という点で、音楽史的には最も重要なヴァイオリン協奏曲、と個人的には思っている。

ジネット・ヌヴー

このコンチェルトの作品としての凄さ、そして演奏自体の燃焼度のようなものを身をもって知ったのは、1946年に録音されたジネット・ヌヴーによる演奏だった。

中学3年の時、10歳ほど年上だった知り合いに聴かされ、おったまげた。
燃焼は燃焼でも赤い焔ではなく、青白い、つまりもっと温度が高い、しかしその温度を上手く言葉で表現できないようなヴァイオリンだった。
ヌヴ―は録音当時27歳になったばかり。
3年後の1949年10月28日、アメリカ・ツアーのために雲上の人となったヌヴーは、航空機墜落事故により亡くなった。享年30歳。
遺体が発見された時、彼女は愛器ストラディヴァリウスを両腕で抱え込むようにしていたという。

これはブラームスのヴァイオリン協奏曲、そしてヌヴーの演奏だけに言えることではないと思うが、演奏の燃焼度が究極まで高まったり、演奏が研ぎ澄まされたりすればするほど、そこに聴かれる音は「誰がしの作品、誰がしの演奏」などということはどうでもよくなって、「ただそこに音が、音楽がある」という感覚になりはしないだろうか?

ヴォルフガンク・シュナイダーハン

ただ、日常的にそうした類の音楽と向き合うのは、つらい。
バッハの『フーガの技法』を毎日正座して聴くことで、何かの功徳を得られる、と言われても、ちょっとご勘弁を・・・、というのと同じだ。

私にとって、ヌヴ―とは違ったヴァイオリン協奏曲の演奏、気持ちを楽にして(身を投げ出して)、そのメロディーとハーモニ―に、ただ心が赴くままに自らを放っておく演奏、音盤、それがヴォルフガンク・シュナイダーハンが、カール・ベームの指揮するドレスデン・シュターツカペレ1942年に録音したブラームスだ。

ウィーン生まれのヴォルフガンク・シュナイダーハン(Wolfgang Schneiderhan, 1915年5月28日 - 2002年5月18日)は、何より若くしてウィーン・フィルハーモニーコンサートマスターに就任し、まさに「ウィーンのヴァイオリニスト」として多くの人の記憶に残っている演奏家である。
1937年、当時22歳ウィーン交響楽団のコンサートマスターであったシュナイダーハン。
そんな彼をウィーン・フィルのコンサートマスターとしてヘッド・ハンティングしたのは、クレメンス・クラウスだった。

既にウィーン国立歌劇場総監督としては失脚していたが、そのメンバーで自主運営されるウィーン・フィルに、多大な影響力を持っていたクレメンス・クラウスの鶴の一声でこの移籍は決まった。クラウスはさぞかしシュナイダーハンのことを高く評価していたのだろう。

そもそもシュナイダーハンに白羽の矢が立ったのは、ウィーン・フィル伝説のコンサートマスター、1881年から 1938年までの57年もの間、その座にあったアルノルト・ロゼーが、オーケストラを退団せざるを得なかったからだ。

ユダヤ人であるが故、ナチスの難から去るために・・・(よく知られているようにロゼーの妻はマーラーの妹、ユスティーネで、今はマーラーと同じウィーン・グリツィングの墓地で妻、そしてアウシュビッツで悲惨な最期を迎えた娘のアルマとともに眠っている)。

シュナイダーハンは1945年には首席コンサートマスターになり、49年にソリストに転向するためウィーン・フィルを退団した。
また彼は1938年3月、ウィーン・フィルの首席奏者らとシュナイダーハン四重奏団を結成、ウィーン・フィルを退団した後の1951年まで活動を続けた。

そして、シュナイダーハンがクァルテットを抜けた後、自ら結成したクァルテットを解消して、代わりに第一ヴァイオリンの座に収まったのが、今年6月で100歳となるヴァルター・バリリだ。

シュナイダーハン四重奏団はバリリ四重奏団と名前を変えた。
その後の躍進はWESTMINSTERへの数々の録音でご存知の通り。

以前、ウィーン・フィルという伝統を大切にしながらも、革新をも自ら取り入れていったオーケストラの特異性をこの「note」でも綴ったが、コンサートマスターの変遷を見ていくだけでも、それがわかるというものだ。

青年ヴォルフィー

さて、話を元に戻そう。
シュナイダーハンのブラームスの協奏曲と言えば、1953年に発売されたパウル・ファン・ケンペンベルリン・フィルと共演したドイツ・グラモフォンのモノラル盤がよく知られている(残念ながら、ベートーヴェンのそれのように、シュナイダーハンはセッション・ステレオ録音を残していない)。

このケンペン盤も、しなやかさと堅固さのバランスの取れた聴くに値する名盤である。
しかし、である。
1942年の78rpmはそれ以上に、シュナイダーハンのシュナイダーハンたる演奏のように感じる。
その瑞々しさ、春風がさらっと体を撫でて吹き抜けるような感覚。
当時まだ27歳のウィーン・フィルの若きコンサートマスターが、カール・ベームの下、絶好調にあったドレスデン・シュターツカペレの引き締まった、薫り高い音と協調しながら、この曲の持つ歌心と覇気を見事に表現している。
青年ヴォルフィーの快演である。

【ターンテーブル動画】

この78rpm、録音も大変すばらしい。復刻CDでもリリースされたことがあるが、オリジナルの音を是非。

なお、シュナイダーハンと言えば、ソプラノ歌手のイルムガート・ゼーフリートとのおしどり夫婦ぶりも知られていた。
二人の思い出に、数少ない共演盤、バッハの世俗カンタータ『しりぞけ、もの悲しき影 BWV202(結婚カンタータ)』を。

そしてもうひとつ。
シュナイダーハンには14歳年上の兄で、同じくウィーン交響楽団のコンサートマスターも務めていたヴァルターがいる。
そして、ヴァルターもブラームスのコンチェルトの録音を残している。
弟と比較するともっと懐かしい、朴訥とした印象で、これもまた染み入る演奏だ。


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