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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #104~マギー・テイト&アルフレッド・コルトー ドビュッシー『艶なる宴 第1集』(1936)

前回、ニノン・ヴァランの歌うフォーレの歌曲2曲をお届けした。

その際、同時期に活躍し、ヴァランと同様に特にドビュッシーの作品を得意としていた2つ年下のイギリスのソプラノ、マギー・テイト(Maggie Teyte, 1888年4月17日-1976年5月26日)について少し触れた。
ヴァラン同様ドビュッシーの知己を得て活躍、ピアニスト、アルフレッド・コルトーと共にドビュッシーの歌曲のまとまったレコーディングも行ったテイトはイギリス人でありながら、当時最高のフランス歌曲の歌い手と言われていた。

マギー・テイト

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イングランド・ウォルヴァーハンプトンで生まれたテイトは、10歳の頃に家族と共にロンドンに移り住み、後にロイヤル・スクール・オブ・ミュージックで学んだ。
1904年になるとテイトはパリへ向かい、テノール歌手のジャン・ド・レスケの弟子となり勉強を続け、1906年、モーツァルトの『フィガロの結婚』(ケルビーノ役)『ドン・ジョヴァンニ』(ツェルリーナ役)でパリ・デビューを飾った。
その後、モンテカルロでも成功したテイトは、パリ・オペラ=コミックにもデビューし、ここで彼女最大の当たり役、ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』のメリザンド役に起用され、ドビュッシーに直接指導も受けている。
このオペラが1893年に初演された際、ヒロインはテイトと同じくイギリス(スコットランド)出身であった偉大なソプラノ、メアリー・ガーデン(Mary Garden, 1874年2月20日 – 1967年1月3日)であり、テイトは彼女の後継としてメリザンド歌いとなったのである。

また、母国イギリスではトーマス・ビーチャムにも愛され、ケルビーノ、メリサンド,モーツァルト『後宮からの逃走』のブロンデなどを歌った。
1911年、テイトはアメリカへ移り、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークで歌い、1919年に再び母国へ。
1930年代に入るとステージに上がる回数は減ったが、メリザンドや蝶々夫人を歌う機会はあったという。

一方、その1930年代にテイトはレコーディング・アーティストとして一躍注目されることになる。
特に1936年3月12日と13日の2日間で、コルトーのピアノ伴奏でイギリスHMVに録音したドビュッシー歌曲集は、ドビュッシーと親交のあったソプラノ、マギー・テイトの神髄に触れることができる歴史的名盤と言われている。

10inchの78rpm7枚に渡って、以下の14曲が収録されている。

『艶なる宴 第1集』
1. ミュートして
2. 人形
3. 月の光

『艶なる宴 第2集』
1. 罪のない人たち
2. 牧神
3. センチメンタルな会話

『ビリティスの3つの歌』
1. パンの笛
2. 髪
3. ナイアードの墓

『愛し合う二人の散歩道』
1. ほの暗い洞窟のほとり
2. 私たちの忠告を聞いておくれ いとしのクリメーヌよ
3. あなたの顔を見て私はおののく

『フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード』

『抒情的散文』
2. 砂浜

テイトは1956年4月22日にロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールで最後のコンサートを行った。68歳の時のことだ。
その後彼女は後進の指導にあたり、彼女は最後の年を教えて過ごした。
そして、1976年5月26日、ロンドンで88歳の生涯を閉じた。

【ターンテーブル動画】

今回は上に挙げたドビュッシー歌曲集のうち、ヴェルレーヌの詞から成る『艶なる宴 第1集』の3曲『ミュートして』『人形』『月の光』を。
手元にあるのはアメリカ・オリジナルのVICTOR盤。

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テイトの歌は、ドビュッシーだからと言ってことさら耽美的なアプローチ、軟な表現をしているというわけではない。
むしろその方面はピアノのコルトーに任せ、自分は素直に自然にドビュッシーに向き合い、ストレートな表現を心掛けているように感じる。
却ってそれがドビュッシーの曲、ヴェルレーヌの詞を的確に伝えているように思う。


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