見出し画像

クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #83〜デジ・ハルバン(ソプラノ)& ブルーノ・ワルター(ピアノ)『マーラー歌曲集』(1948)

ヴァルター×マーラー

ブルーノ・ヴァルター(ワルター)(Bruno Walter, 1876年9月15日 - 1962年2月17日)の78rpmをこれまでこの「note」で数多く紹介してきた。その視点は「音楽の漂流者」

画像1

ドイツ・オーストリア圏で名実ともに最高の指揮者であったにもかかわらず、ユダヤ人であるが故、ナチスが政権を樹立するとそこから逃れるためまずはベルリンを、そしてオーストリアが併合されるとウィーンを離れ、約1年間フランスやスイスに逃れ、最終的にアメリカへ渡ったヴァルター。
様々な困難、悲劇に見舞われたヴァルターだったが、彼が創る音楽はその影を全く感じさせない、健康的で幸福感に満ち溢れたものだった。

人格者、コスモポリタン、性善説論者であったワルターが音楽の道を志し、最初に大きな影響を受け、その弟子となったのがグスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)だった。
晩年のマーラーの最も近いところにいて、彼の死後、『大地の歌』や『交響曲第9番』を初演したヴァルター。
ヴァルターのコスモポリタン的、そしてその逆説としての漂流者の資質は、師マーラーからの影響が大きかったと言えよう。
同じくユダヤ人であり、ボヘミアで生まれ育ったマーラーは「私は3つの意味で異邦人だ。オーストリア人からはボヘミア人、ドイツ人からはオーストリア人と呼ばれ、世界からはユダヤ人と呼ばれるから」とその出自を自虐的に語っていた。
ヴァルターはそんな師マーラーを反面教師としてコスモポリタン、性善説論者になったのではないだろうか?

全曲ではないがワルターが残したマーラーの交響曲録音は、単に「作曲者直伝の」というからではなく、マーラーの異端的側面をそこに寄りかかり過ぎず、普遍的な音楽として成立させるための創意工夫に満ち溢れている。
それを「毒がない」「綺麗すぎる」と揶揄する声もあるが、師の音楽を広く伝えようとしたワルターの存在がなければ、マーラーの音楽史的受容は違ったものになっていたかもしれない。

マーラーを慕って指揮者になる道が開けたワルターだが、それ以前はピアニストとしてデビューしていたし、指揮者として知られるようになった後にも、モーツァルトのコンチェルトを弾き振りして録音もしている。アメリカに渡った後は、ワルターをリスペクトしていたロッテ・レーマンがレコーディングしたのシューマン『詩人の恋』や『女の愛と生涯』ではピアノ伴奏を務めている。

ハルバン×ワルター

そんなピアニストとしてのワルター、そしてマーラーの十字軍であったワルターを象徴する78rpmが、オーストリア出身のソプラノ、デジ・ハルバン(Dési Halban, 1912年4月10日-1996年2月12日)の伴奏を務めたマーラー歌曲集、10inch3枚組全8曲だ。1948年にコロンビア・マスターワークスからリリースされている。

画像2

画像6

デジ・ハルバンはモーツァルト・ソプラノとして一世を風靡したセルマ・クルツ(Selma Kurz, 1874年-1933年)と婦人科医ヨーゼフ・フォン・ハルバンの娘として生まれた。

画像5

私生活ではナチスから逃れるためにオランダ、そしてニューヨークに渡っており、その点ではワルターに通じるものがある。
美術商の一人目の夫が事故で亡くなった後、彼が残した絵画のコレクションはナチスが奪略し、ハルバンが亡くなった後、2006年までの長い法廷闘争の末、202の絵画は彼女の親族に返還された。

残念ながら録音は多く残されていない。
しかし、ワルターはハルバンを高く評価し、ニューヨーク・フィルハーモニックと録音したマーラーの『交響曲第4番』のソプラノ・ソロを彼女に託している。

画像3

そんな中、マーラーの歌曲8曲がこの二人によって録音されたことの意義は大きい。
収録されたのは順番に以下の8曲。

思い出(『若き日の歌 第1集』より)
別れて会えない(『若き日の歌 第3集』より)
二度と会えない(『若き日の歌 第3集』より)
私は喜びに満ちて緑の森を歩いた(『若き日の歌 第2集』より)
夏に交代(『若き日の歌 第3集』より)
ハンスとグレーテ(『若き日の歌 第1集』より)
春の朝(『若き日の歌 第1集』より)
強烈な想像力 (『若き日の歌 第2集』より)

画像7

デジ・ハルバンの翳りを持った声が、マーラーの若き苦悩と一時の喜びを描き出す。

画像4

本日7月7日は、マーラー、161回目の誕生日だ。

画像8


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?