クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #45~ヨハンナ・ガドスキ「メトロポリタンのディーヴァ、ワーグナーを歌う」
ニューヨーク時代のマーラーに欠かせないソプラノ・ドラマティコ
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860-1911)が1907年12月、47歳の時、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン・オペラから招かれ新大陸に渡ったことはよく知られている。
そしてこの年、彼は心臓病であるという診断も受けた。
残された人生は3年半だった(写真は1907年当時のマーラー)。
既にウィーン国立歌劇場総監督時代 (1897-1907)、大胆なオペラ上演改革を断行し、現在、我々が接するオペラの上演スキーム(原語上演、カットなし、劇場内の照明を落とす・・・etc)を完成させたマーラーは、ニューヨークでもその手腕を発揮した。
更に1909年には、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。
一方で『交響曲第9番』の作曲に着手し、これを2ヶ月で完成させた。
自ら死を予感していたマーラーは指揮者、作曲家として最後の炎を燃やしていた。
ここにマーラーがメトロポリタンで上演した記録がある。
例えば1908年1月23日と27日は、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』(マーラーが特に好んだモーツァルトのオペラ)を取り上げている。
2月3日にはワーグナーの『トリスタントとイゾルデ』、同月7日は同じくワーグナーの『ヴァルキューレ』・・・。
このいずれにも出演しているソプラノ・ドラマティコがいる。
ヨハンナ・ガドスキ(Johanna Gadski, 1872年6月15日-1932年2月22日)だ。もちろん、ドンナ・エルヴィーラ、イゾルデ、ブリュンヒルデとして・・・。
2月7日の『ヴァルキューレ』について、当時のアメリカを代表する音楽評論家で、特にワーグナーの権威であったヘンリー・エドワード・クレービールは、ガドスキのブリュンヒルデを「誠実で勤勉、非英雄的なブリュンヒルデ」と評している(マーラーの指揮についてクレービールは、メトロポリタンがウィーンほどワーグナーの舞台には慣れていないことにより、不完全燃焼だった、と同情している)。
また1911年の1月には、マーラーが指揮するニューヨーク・フィルハーモニックのオール・ワーグナー・プログラムにも、ガドスキはソリストとして登場している。
ヨハンナ・ガドスキ
ヨハンナ・ガドスキは、1872年にプロイセン州(現メクレンブルク・フォアポンメルン州)アンクラムで生まれた。地図をご覧いただければお分かりいただけるが、アンクラムはドイツの最北東部にある小さな町。
ガドスキは先ずドイツで頭角を現し、最初の頂点を1899年のバイロイト祝祭で迎え、1905年と翌06年にミュンヘン・オペラ・フェスティバルでのワーグナー作品への出演がそれに続いた。
しかし、ガドスキが国際的な名声を築いたのは、ドイツではなくイギリス、そしてアメリカだった。
彼女は1899年、1900年、1901年、1906年にロンドン・コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラハウスに登場、そして、1898年から1904年、1907年から1917年まで、黄金時代を迎えていたメトロポリタン・オペラで活躍した。
ガドスキのメトロポリタン・オペラ出演回数は496回を数える(因みにアルトゥーロ・トスカニーニは480回、ガドスキと出演時期が一部重なるネリー・メルバは238回)。
第一次世界大戦が勃発すると敵国ドイツ出身のガドスキはメトロポリタンを去らざるを得なかった。
ガドスキは1932年2月22日に交通事故で亡くなった。59歳であった。
【ターンテーブル動画】
ガドスキの歌声は1903年から1917年、つまり彼女の全盛期にビクター・トーキング・マシン・カンパニーによって数多く録音された。アコースティック録音時代の心許ない音ではあるが、この1900年代初めのメトロポリタン・オペラのディーヴァ、特にワーグナーのソプラノ・ドラマティコとしての気品と力強さが同居した歌声は一聴に値する。
今回は『ローエングリン』より『エルザの夢』(米ビクトローラ盤)
そして『トリスタンとイゾルデ』より『イゾルデ 愛の死』(英HMV盤)を、ビクトローラ・クレデンザ蓄音機で。
マーラーもこの78rpmを聴いただろうか・・・?
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