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Midnight To Stevens (1)

はじめまして。

MOJO マガジン1994 年の8月号に掲載された、鬼才ガイ・スティーヴンスの記事を、翻訳してみました。いざ翻訳してみると、もうワクワクが止まらず、いろいろ調べ始めてしまいました。

ですので、この記事の翻訳をしながら、私なりに調べ、見つけた他の記事の翻訳も併せてご紹介できたら…と考えています。彼に対する思い入れから、つい私的なコメントや考察なんぞも挟んでしまうかもしれません(笑)。

ただ、残念なことに私は翻訳・および音楽ライターが本職ではありませんので、多々お見苦しい点等あるかとは思いますが、そのあたりはご容赦ください。

< Midnight To Stevens > (1)

 1963年に居るべき場所は何処だ?
それは SOHOのHAM YARDの暗く湿った地下にあるThe Sceneだ。
この場での主人公は、たったの1人。ガイ・スティーヴンスに他ならない。
彼は自身の世界から離れることなく、当時最もクールな R&Bをスピンし、若者たちの感受性を大いに刺激した、音楽的なシャーマンだった。
「世界の2人しかいないフィル・スペクターのうちの1人は、オレだ」と言った彼は1981年、38歳の若さでこの世を去る。
ガイ・スティーヴンスは、そんなに有名ではなかったかもしれないが、広く、多くの人々に影響を与えた過去の遺産のような存在であった。
それはあたかも、湖に落とされた小石のように、人の目に触れることが無くとも、そのさざ波がどこまでも広がっていくかのように。

 The Sceneでの活躍から、クリス・ブラックウェルに出会い、SUE Recordsを任され、当時のブルーズのブームを育てる立役者となり、ボビー・ブランド、アイク&ティナ・ターナー、エルモア・ジェイムスの英国での初リリースに携わった。
Island Records が誕生すると、ガイは最もヒップなA&Rとして名を馳せ、Free、Spooky Tooth、Procol Harum、そして Mott The Hoopleをこの世に誕生させた。ガイが手掛けたこのバンドは、一世を風靡することになる。
そしてPUNK ROCKが現れた時、彼は The ClashのLONDON CALLINGのアルバム制作に深く関わり、The Clashの名を世界に知らしめた。

 Mot The Hoople のヴォーカリスト、イアン・ハンターは「彼は “ 偉大さ “ にしか興味のない男だったと思うよ。The Oval で The Who や The Faces と共演した時にAtomic Roosterを一緒に観ていた。10分後位にガイは俺を振り返って、『なんで?』って言ったんだ。」と、回想する。
Island Recordsでマネージングディレクターだったティム・クラークにとって、最も古いガイの思い出は、「両腕を風車のように派手に動かしながら、夢中で新しいシングルレコードについて話す」というものだ。
 そしてジョー・ストラマーは、彼から譲り受けたケルアックの『路上』を今でも大切に持っている。若かりし頃のジョーにとって、ガイの名前は神話のようなものだった。ジョーは「チャック・ベリーのPYE レーベルのシングルを入手したら、ガイがそのスリーブノートを手掛けていたんだ。ほら、レコードを聴く時ってさ、どんな些細な情報も漏らさないように、注意深くスリーブを見るだろ?特にこのシングルは気に入っていて、よく聴いていたからスリーブも繰り返し見ていた。だから、ガイの名前はずっと昔から知っていたよ。」と語った。

 ガイは10代の頃から、昼間はオフィス街で働くサラリーマン、夜はR&Bのレコードを求めて町をさまよう、という生活を送っていた。この時期、将来の妻となる女性、ダイアンと知り合うが、この頃にはガイの将来が予見できるような出来事が既に起こっていた。
ダイアンは「私たちが出会ったのは、多分1959年か60年だったと思うわ。ガイはその頃、ロックンロールに夢中でね、ジェリー・リー・ルイスのコンサートは欠かさずに一緒に行ったわ。この時期からガイは、もう憑りつかれたみたいにバレット・ストロングのマネーのような曲を求めてロンドン中の店に通いつめていたわ。不思議と彼には、何処にお目当てのレコードがあるのか直感的にわかっていたみたいなの。ほら、すごく欲しいものがある時に
人はそういう能力が発揮されるってことあるじゃない?それが彼の生き方になっていったの。」と説明する。事実、この執念ともいえるレコードへの傾倒がガイをThe Scene へと導いていく。

 The Scene は、Shaftesbury Avenueを左折したGreat Windmill Street の41番地にあった。向かいは有名な Windmill シアターだ。このあたりは、63年頃からジャズクラブが存在し、ロニー・スコッツやジョニー・ダンクワースがオープンした Club 11 や、イギリスで最初のオールナイターだった CyLaurie’s Jazz Club があった。
The Scene の前は、The Picadillyという名のブルーズクラブで ジョルジオ・ゴメルスキーがオーナーであった。ここは、The Rolling Stones や The Yardbirds が後にレジデントなバンドとして出演するRichmond のThe Crawdaddy Clubの布石となった場所でもあった。
 The Picadilly は62年の終わりにクローズし、後を引き継ぎ The Scene Clubをオープンさせたのが Radio Caroline の創始者、ローナン・オライリーである。
オライリーは、「この頃、ロンドンでR&Bに詳しい人は、ごくごくわずかしかいなかった。」と The Sceneの初期を語る。「ガイが、とんでもない数のレコードをコレクションしているのを知っていたから、The Scene をオープンした時に彼に月曜の夜を任せたんだ。そしてこのアイデアは、間違いなかったね!ガイは全部のレコードに対し、アーティスト名や出所を語るんだよ。コレクションのレコードを大きなトランクに入れて大事に持ち歩いていて、大切なレコードが盗まれないように、DJ中もレコードの上に座っていたよ。レコードの上で寝ているガイを見たこともあるよ。彼にとって、レコードは宗教のようなもんだったんだよ。本当にね。」

  The Scene は、急速に当時進化しつつあった MODSムーブメントの重要な核となっていった。最近では、RED LIGHTNING という名のレーベルを運営するピーター・シェサーは1963年当時、イーストロンドンのMODSギャング “ The Firm “ の主要メンバーだった。
「The Scene は四角い造りをしていて、隅の一角にDJ ブースがあって、その反対側にソフトドリンクやエスプレッソなんかが飲めるバーがあった。狭い場所だったから、踊るくらいしか出来なかったよ。でも、ガイの選曲が目当てで行くんだからそれでいいんだけど。彼は人が聴きたがる曲、そして他の場所では絶対聴けないような曲を回していたんだ。」

すぐに、ガイのDJはMODS以外にも伝わり、たくさんの人々が群がるようになった。
オーナーのオライリーは「みんながガイのDJ目当てに The Sceneに来るようになった。ストーンズやエリック・クラプトン、ビートルズなんかのメジャーなアーティスト達でさえも。世界各国から飛行機に乗って、フランスやオランダなんかから月曜の夜、ガイのDJを聴きにわざわざやって来たよ。ガイのDJにはそれほどの価値があったんだ。」

 MODSのムーブメントの中から The Small Faces のようなバンドが誕生し始めた時、彼らはおのずとガイのドアを叩いた。その中の1人が、年若きマネージャーのピーター・ミードン。
彼は自身の秘蔵っ子で、自らが “ The High Numbers “ と名付けたShepherds Bush(ロンドン西部)出身のグループに対して、使えそうなネタを探していた。
彼が歌詞にちょっとしたアレンジを加えて仕上げた、スリム・ハーポの “ Got Love If You Want It “ のカバーを “ I’m The Face “ としてリリースした The Who のブレイクは、すぐそこまで来ていた。
  このピーターが新しいジェネレーションのミュージシャン達に影響を与えていた頃、ガイは彼のヒーロー、チャック・ベリーにコンタクトを取っていた。ガイはチャック・ベリーのファンクラブの代表を務めるだけでなく、1964年に本人に会いに渡米する。
(※このあたりに関する文献は複数あり、ガイ自身も1964年の4月 4日に発行されたRecord Miller誌に「チャック・ベリーが語る、彼の曲の作り方」というタイトルでエッセイを寄稿している。このエッセイによると、ガイがチャック・ベリーと初めて会ったのは、シカゴのChess Records のオフィスだった。チャックは、ガイに対してとても親切に接してくれ、Chess Recordsの重役たちにも紹介してくれた。また、Chess はオフィスもスタジオもSouth Michigan Avenue という通りにあり、そのすべてをツアーよろしく案内してもらった、と書いている。)

 Island Records の共同創設者、ディビッド・ベタリッチは、ガイのこうした図太さというか大胆さに驚いた、と当時を思い出して語っている。
「ガイはチャック・ベリーに会いに行って、彼と何日も一緒に過ごしてきたんだ!チャック・ベリーは、扱いにくさでは、世界で5本の指に入ると言われていたアーティストだったんだよ。おそらくチャックは、ガイが本物のファンであることをすぐに感じ取って、心を許したんだろう。」

 前述のイアン・ハンターは、ガイがこの頃の話をしていたのを、よく覚えている。
イアンから聞いた話によると、ガイは「チャック・ベリーが刑務所から出てきた直後に、オレは彼に会ったんだ。その時チャックの出所を待っていたのは、オレだけじゃなくもう1人いた。プロモーターのドン・アーデンというヤツだ。ドンはチャックに、ツアーを10,000ポンドでオファーしたんだ。だからオレは 20,000ポンド出す!って言ったんだ。さすがにドンは途方に暮れていたよ。」
 ただ、この件に関してガイの妻ダイアンは、かなり眉唾な話であると証言している。
「だって実現しなかったもの!私にはこの話、ガイ自身が作りあげた神話のように感じるわ。」

しかし、真実がどうであろうとガイが音楽に対して、溢れんばかりのエネルギーを注いでいたことは明らかである。

つづく



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