鮎川誠さんのお話。


鮎川さんには人生で2度、お会いする機会があった。

2度とも、僕にとって一生忘れられない時間だ。


1度目は高校生の時。
地元松阪でロケッツのコンサートがあった。シーナさんはいなかったのでロケッツ名義だった。
そして何故かスターリンとの対バン、というか「ロケッツVSスターリン」的な単発のコンサートだった。

僕らはロックバンドを組んでいて主催の楽器店と仲良くさせて頂いてた関係で、バンドメンバー全員、鮎川さんと会わせて頂ける、という話になった。

コンサートはお世辞にも盛り上がったとは言えず、客席は半分も埋まっていなかった記憶がある。

三重県の田舎の会館で、当時でもそれはちょっと難しいブッキングである。

観客もはけて終演後、関係者に促されるままがらんとした客席に行くと。
そこに鮎川さんは1人座ってらした。


そこからは風景しか覚えていない。
地元松阪の、見慣れた会館の客席に鮎川さんと生意気な田舎の高校生3〜4人。


どうして会ってくれる事になったのだろう。
終演後、ましてや盛り上がったライブの後でもない。
もう早く帰ってホテルで休みたかったのではないだろうか。
会館の人も、早く閉めて帰りたかったのではないだろうか。

記憶は定かではないがおそらく、鮎川さんは30分以上田舎の高校生バンドマンと終演後の客席で話をしてくれたのだ。

僕が確かに憶えているのは
「演り続けるこっちゃね」という一言だけ。


一生忘れない、と言っておきながら、それ以外のことは全く憶えていない。
でも確かに、クソ生意気な田舎の高校生に、鮎川さんはものすごい優しく、静かに話をしてくれた。


メンバー皆んなで、自転車で散りじり家に帰った風景。
これもやけに覚えている。

「やったな」「俺たちイケるんちゃう」みたいな感情と共に。


2度目は10年ほど経った後だろうか。

下北沢に、いろいろと良くして下さっていたギターショップがあった。
今でいうヴィンテージギター専門店だったが、時代的に今ほどデタラメな価格でもなく僕ら駆け出しのバンドマンでも頑張れば手に入れることの出来るヴィンテージギターがずらり並んでいた。

そのお店に入り浸るようになっていた僕はある日、1台のアコースティックギターを見つけた。

忘れもしない、GibsonのB-25というモデル。年代までは覚えていないがおそらく60〜70年代のものだったのではないかと思う。

今となっては50万円以上、状態によっては3桁超えも余裕であるこの楽器。
信じられない事に一桁台の値段で売られていた。

まだスガシカオさん(彼が愛用している事で脚光を浴びるようになった)なども全然デビュー前で、相当人気の無い楽器だったのだ。

それでもバイト人生だった僕にはかなりの高額である。

購入する事は約束して、いわゆる「商談中」という事で次のバイト代が入るまで取り置きさせて頂く手筈を組んだ。


そんなある日、そのギターショップから電話が鳴った。
(信じられないかもしれませんが、まだ携帯なんて無い時代。
家電ですよw)

「実はあのアコギ、欲しいという人がいるんだけど…」

という申し訳無さそうな店長の声。

え、いやそりゃ困る。
何と答えたかは記憶にないが、まあ渋ったのだろう。

「実はそれが鮎川さんで…」


・・・かくかくしかじかあって、おそらく申し訳ない
(けど買わせてもらうよ笑)という事でご本人が買いにいらっしゃる時に(まあ譲るしかない事はほぼ決定していたのだ🤣)
連絡を頂くことになった。


鮎川さんにお会い出来る、という喜び半分、10万円以下の格安ヴィンテージB-25を諦めねばならぬ、という思い半分を微妙に抱えながら。
ある日連絡を頂いて下北沢に出掛けていった。


・・・いらっしゃいました、しかもご夫婦で💕


当の鮎川さんはもう、そのB-25に夢中で僕のことなどあまり見えていないようだった笑笑笑


側にいたシーナさんが、
「本当にすいませんねえ(ウチの旦那が)💕」

と言って下さったことをとても覚えている。


…!!!


僕は、値段のことはさて置いても、
「これは良い、欲しい!」と思った楽器に鮎川さんが夢中になっている、その事と。シーナさんのあまりにも優しいその口調。


20代後半になる直前くらいだったろうか、僕は
「あ、もういい😊 全部良い。
この想い出で僕はミュージシャンをやっていける」と思った。


あの鮎川誠に貸しを作った(そうじゃないけどw)みたいな変な思いもあって。

世にも幸せな気分で当時の江古田のアパートに帰ったのを覚えている。


一生忘れません。
鮎川さん、シーナさん。

本当にありがとうございました。大好きです💕




馬場"BABI"一嘉








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