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10minutes diaries/342

令和4年9月25日(日)

最近、自分の口から「誤読」と言う言葉がよく出てきているような気はする。

誤読。
誤って読むと言うこと。
ちょっと難しい文章とかを読んでいると、全く理解ができなかったりするのだけど、時折出てくる若干理解できるワンフレーズから、その前後の文章を勝手に推測したり、自分なりの解釈を加えながら、その後の文章を読んだりする。
だから、おそらく、というか、絶対的に、筆者の意図とは違った形でその文章を理解し、自分に落とし込んでいるのだと思う。
以前は、まぁ、真面目な性格もあるのだろうけど、理解できない自分が嫌で、日本語で書かれているにもかかわらず、理解ができないということに対して、悔しい思いを持っていた。
でも、いつの日からか、別に、本なんて、一言、自分に残るようなものがあればラッキーぐらいに思うようになって、だったら、なんでそんなものにお金と時間をかけているのかと問われてしまうと、非常に困ってしまうのだが、そんなふうに、肩肘張らずに読めるようになった。
そんな中で、当然、誤読というものも生じるのだろうし、むしろ筆者の全てを理解できない以上、誤読しかできず、その誤読の中から、何を得られるかみたいなことにフォーカスするようになった。

考えれみれば、これは読書に限らず、映画でもそうだろうし、絵画でもそうだろうし、作者が意図しない部分で、鑑賞者が考察をするということもあるだろうし、読書と同様に、必ずそこには、誤読というものが生じてしまう。
もっと、言えば、僕らが普段行う会話とかもそうだろうし、不完全な、言語というものを主としてコミュニケーションを行なっている以上、相手のことは分かり得ないし、でも、わからないことを前提に、わかろうとすること、表情や、身動き、言葉の抑揚そういった、ありとあらゆる情報を元にわかろうとすること、その誤読を乗り越えていこうとすること、きっと無意識のうちに、僕たちはそんなようなことをしているのだと思う。

だから、誤読を恐れてはいけないし、それをデフォルトとして、むしろ、その誤読が広げてくれる意図しなかった世界を、僕らは楽しんでいくことができる生き物だと思うし、そういう愛おしい無駄を愛せるだけの、寛容な世界であってほしいとは思う。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!