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10minutes diaries/311

令和4年8月25日(木)

なんか、サマソニに行ってから、このことばかり考えている気もするが、やっぱり「アーティストの役割とは一体何なのか」いうのが、頭から離れない。
思い出されるのは、コロナ禍においての各国のアーティストへの支援というか、保護のこと。
もちろん、詳しくはないので適当なことは言えないけれども、ヨーロッパでは当初から積極的に保護をしていたニュースを見ていたし、日本においては、それに押されるようにして、支援を始めた感はあった。
これが何を意味しているかは、いろんな解釈が出来るのかもしれないけど、そこには、当然に、その国のアートに対する考え方が反映されていたんだと思う。
積極的に守るということは、それだけの価値が、そんな逼迫した状況においても守るべき理由があったということ。
それが何なのかを考えていくと、僕が思うに、アートは、僕たちの思想を構成するための哲学であり、批評としての、問題提起としてのマスコミ、ジャーナリズムであり、未来を考えるための大切な示唆を含んでいるものであって、それは社会において絶対的に必要だった。
だからこそ、これからの国のために守った。
大袈裟かもしれないが、そんなふうに捉えることもできる。
一方で、日本においては、アートはどこか生活には必要不可欠ではない、アートではごはんは食べていけないという、ある種の合理的な判断から、こういったものへの支援は後回しにされていく傾向があるように思う。
つまり、アートというのは享楽的なものであり、あくまでもエンターテイメントを超えないものとして捉えているとも言えるような気がする。
僕はアートが好きだから、特にこうして偏った考え方をしてしまうのかもしれないが、それは、あまりにもアートに対して失礼だし、その力を見くびり過ぎているし、いつか、そのツケは回ってくるような気はする。
過激なことを言っているようだが、合理性、コスパばかりを追求している限り、未来は先細りしていくし、何の哲学も信念もないまま、権力者の思うがままに、我々は振り回されていくことになる。
人間が人間としてあるためには、やはり無駄が必要で、ただ生きるために必要最低限なことをしていては、他の動物と何も変わらなくなる。
これは、下に見ているということではなく、もし我々が人間として、これからも生きていくとするなら、きちんと人間としてのあり方を考えていく必要があるということ。

これに対して、僕は一体何が出来るのかは全くわからないけれども、恐らくしばらくは、このことを考えてしまうんだろうなぁとは思う。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!