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10minutes diaries/316

令和4年8月30日(火)

こうやって文を書いていて思うのは、悲しいほどに才能がないなぁということであって、それは音楽をやってても、絵を描いていても、そう思う。
もう、これは、どうしようもないことであって、自分の意図してできる範疇のものではない。
だから、受け入れるしかないし、それはいやいやではなくて、どちらかと言えば積極的に受け入れているつもりではあるのだが、かといって、才能がないからと言って、やめようとは全く思わない。
というのも、才能がなかろうと、ここにしか、自分の価値というか、生きる意味みたいのを見出すことができないからであって、オーバーに言えば、僕にとっては、生きることと同義だからである。

才能との距離感というか、当然、自らの才能に準じた生き方の方が、豊かになるのだろうし、誰かの役に立つのだろうけど、それとは別に、やっぱり想いみたいのはあって、それもまた無碍にはできない、大事にせざるを得ないものだとは思う。
もしかしたら、ほとんどの人は、才能と想いに乖離があって、本当に想いが強い人は、「努力」というものを使って、その距離を縮めようとするのだろうけど、やっぱり才能ある人には敵わなくて、才能がある人に努力された日には、もうどうしようもできなくて、同じ定規でそれを図ることを拒み、勝手に違う定規を持ち出したりするんだと思う。

そういう意味で言えば、たぶん僕には、色々なことをしてしまう、色んなことを知りたくなってしまうという、才能とも呼べない才能みたいのがあって、それによって、一つのことができず、特別何かを極めることもできず、この才能らしきものに振り回されてきた人生だった。
「じゃあ、この才能を最大限に活かそう!」なんて思ったところで、中途半端がまた一つ増えるだけで、わかりやすい恩恵は齎されない。
だから、こんなものは才能だとも思わないし、思いたくもないのだけど、それでも、やっぱり、たまに人からは「いろんなことをやってて羨ましい」なんて言われることもあって、「ありがとう」なんて言ってはみるけど、何も思うことはできなかったりする。

僕が思うのは、誰もが才能みたいのを持っていて、それがわかりやすい人もいれば、わかりにくい人もいて、また、何かに役に立つものもあれば、全く役に立たないものもあって、こればっかりはたぶんガチャなんだろうなとは思う。

だから、たぶん、才能の正体というのは、そんな、かっこいいものでも、きれいなものでもなくて、ただその人を、翻弄するものだったりするんだろうなぁと思う。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!