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10minutes diaries/101

令和4年1月27日(木)

仕事ハックみたいな記事の中で、
「人にやらせる。事務仕事はしない」
と意気揚々と語っている経営者のインタビューがあったりする。
当然、経営者としての仕事がある中で、多くは人に任せなければならないということは理解はできるのだが、「そうやるのが良い仕事の進め方だ」みたいな感じの、言ったらドヤ顔を語っているのが、僕は少し気になってしまう。
じゃあ、誰もがそんな働き方が出来るかと言えば、言葉が適切かはわからないが、その押し付けられた仕事を、同様に、他の人に押し付けたとしても、いずれどこかの誰かがやらなければならないし、みんながみんな経営者的な能力をもって、その視点でもって仕事が出来るわけではない。
だとすれば、やっぱり、経営者的な思考ができる人が偉いのか。
僕は、それに疑問を持つ。
他の人が出来ないことができるというのは、それは言うまでもなくすごいことであるし、きっと代替えが効かないものなのだろう。
でも、どんなに人に仕事を任せたとて、その仕事をやってくれる人がいなければ、その仕事は成立しない。
つまりやってくれる人がいてはじめて、任せられることができて、そのドヤ顔ができるのだ。

どうも、事務仕事とか、清掃業とか、言葉の選び方に迷うが、誰もができるみたいな仕事について、驚くほど過小評価されている気がしてならない。
誰もやりたくないことをやってくれているということについての、敬意や配慮というものはないのだろうか。
なぜ、頭を使えて人を動かせる人はたくさんのお金をもらえて、現場で泥臭く働く人の給料は低いのか。
もちろん、そんなことは理解できる。
この資本主義社会においては、そういうゲームのルールだから、致し方ない。
そんなことはわかる。
でも、それだって、遺伝とか、育ってきた環境とか、自分の努力とは違う環境要因で、たまたまそういう力を育むことができたということも多いにあるだろう。
そんなラッキーなプレゼントを、さぞかし自分で全て手に入れたかのように振る舞うことに対して、やっぱりどこか違うように思う。
全ては役割でしかない。
たまたまそういう力をもったのだから、もちろん努力されている部分もあるだろうし、とは言え、その努力できることすらも環境要因の一部であったりすると思うし、その与えられた力を、役割をきちんと遂行すること、それが大事のような気がする。
だから、上も下もない。
ただ、それぞれ、この社会の役割があって、それを果たしている、それだけのこと。
豊かなもお言葉者は、その有り余った豊かさを、回して、世界を循環させること。

こんなことを言うと、また変なやつだと思われたりするのだが、上とか下とか、勝ち組とか負け組とか、そんなクソみたいな話を聞くと、僕はやっぱり違和感を覚える。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!