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野川でリンばぁを思う

私はいつの間にか88才と言う歳を越した。雨やゴミ等交えながら流れて行く川の流れに似て、わりに素直な気持ちで年を重ねて来たと思う。
母の実家は私の家から近かった。その近くには母の妹の家も有り、男の子だったが従兄弟も居た。母の弟達も未だ学生だった。母と2人の家より賑やかで楽しいから、小学校に入る前の私は 殆ど母の実家に居た。
私の祖母のリンばぁは、私の母が長女で、その下に女、男、男、男、男と6人の子持ちだった。叔父達は独身で、幼い女の子の私は皆にとして可愛いがられた。2階の部屋が叔父達の部屋。私が居た頃は上の2人は家を出て下の2人の叔父が居た。日中戦争が起こった頃の事だ。
特に私を可愛がってくれた3番目の叔父は、大学で土木工学の勉強をしたとか。私は机の上にに大きな紙を広げて、コンパス・定規などで真剣に取り組んで居る叔父の顔の顔を見て「ねえ!何してるの?」と何度も聞いた。
「黙れ!見て分からないものは 聴いてもわからん!」 返って来る言葉は何時も同じ。それでも何回も同じ質問をしていた気がする。80年以上経って叔父の顔も、写真が無ければ朦朧として定かでは無いのに、叔父の言葉は私の頭の角から消える事は無い。その叔父は兵役に着いた時、自動車隊に居たと聞いたが 世界大戦に成る前に戦死した。
1番下の叔父は大学途中で志願してフイリッピンに渡った。マラリヤに罹り未だ大戦初期に帰還させられた。その後、永く身体の具合は悪く 苦しい思いをしたらしいが命は残った。
その叔父も土木科だった。その後、都庁に就職してオリンピックの為の高速道路建設に携わった。日本橋の事務所に私を呼んで、高速道路の事を色々説明してくれたのを思い出す。オリンピックに関係する仕事ができると言う喜びを分かちたかったのか?
私が生まれてまも無い頃 独立した長男の叔父は魚が好きだったのか、私はトト(サカナ)おじちゃんと呼んで居た。元気の塊りの様な人で、世界大戦開戦後、直ぐに招集されサイパン島で玉砕。大騒ぎだった。
その下の叔父は細かい事は何も分からないがフイリッピンで戦死。飛行機関係だったらしい。
この様に話して来ると穏やか平和なひと時等 無かった生活の様だが、皆の笑い顔の溢れた日も有った。
毎年の暮れ29日か30日は、リンばぁ家で餅つきが有った。
庭に簡単に幌布で囲いを作る。臼や杵を出して朝早くからリンばぁが先頭に立って竈門で餅米を蒸す。板の間には搗き立ての餅を伸ばす台を並べて女達が待つ。小さい私と小さい従兄弟達は、その側でなんとも言い様の無い緊張に包まれて座る。
餅つきが始まる。何処の家庭にも神棚が有り、床の間が有り、台所には台所の神棚が有るから 丸いお供え餅を沢山作る。掛け声と共に餅が来ると、伸ばす前の熱いお餅を叔母が小さく契って大根おろしをまぶし私達の前に置いてくれる。リンばぁは、前日までにあんこ、きな粉等用意して居るが、私の好きなのは大根おろしをまぶした辛味餅。
夜はご苦労さんと言う事で、皆で食事に成る。父はリンばぁのお気に入りの婿さんだったと思う。「何時も賑やかで良いよ」とよく父の事を言って居た。父は少しのお酒が入ると、必ず清元とか都々逸を歌い出した。御神輿担ぎが好きで兵隊検査も甲種合格なのだから、体形も良かったのだろう。
リンばぁは、私をお越し早朝の八幡様に行く。
私は眠いけれど、リンばぁの温かい手にしっかり繋がれていたので、早足でもついて行けた。リンばぁはひたすら息子たちの無事を祈って居たのだろう。私は何も知らず、ただ手を合わせていた。



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