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ずっとありがとう

私はつい瘡蓋をポリポリと掻いてしまう。
メリッと剝けて、血がもくーっと盛り上がる。
それが凝固して乾いてまた瘡蓋になる。

つい剝けるまで掻いてしまうというのを繰り返すうちに
やがてそこに手が行かなくなる。
瘡蓋はいつのまにか乾いてポロっと落ちて、傷はしらじらとなって
何事もなかったようになる。

そんな繰り返しだなと思う。
寂しさも。
恋しさも。

マル太郎がいなくなって、3週間。
名前を呼ぶ夜があるし、後悔を掘り起こしては泣く時がある。
傷をメリメリと剥がして、涙が流れるまで剥がして、
体中が充血したように熱くなるまで。

一緒になんかいないじゃないか!
どこにもいないじゃないか!
骨は骨以上でもなく以下でもない。
自分についた嘘を責める。

やがては納得して、涙が冷えて乾いて、何事もなく時がすぎていく。

そうしてしらじらと、記憶のなかに納められる。


あるドラマで「内側前頭前野にいる」と言っていた。
大切な人を失っていつまでも忘れられないのは、自分と他人を区別する部位である、脳の「内側前頭前野」に、その大切な存在を入れてしまうからだと。
すると自分と一緒にいつも存在しているようになる。
いつもそこにいる。

そこにいると思っていいのかな。
いや、そこにいるんだな。
私が生きている以上は、いつも一緒に内側前頭前野にいるんだな。


私の母が、私の妹を喪った時、しばらくの間は同じように子どもを失くした人の新聞記事や手記を読み漁ったそうだ。
遠くなっていく記憶や手触りをまた近くに引き寄せようと、きっと爪を立てるようにガリガリと。かき集めたのだろうな。
瘡蓋をなんどもなんども掻きむしって、涙を流して。
乾くまで。

ドラマのほんの一瞬のセリフにも手がかりをみつけようとする自分も、似たようなものだろう。
今はそうやって不在を乗り越えていく時間なのだと思う。


昨日は、亡くなる二日前に録音した声を聴いた。
とてもまだ聞けないと思っていたのだが、さびしくてたまらず、聞いてみた。

それは思ったよりもずっと優しくて、寂しさを慰めてくれた。
録音しておいてよかった。
珍しく鳴きやまなかったマル太郎の声。
「採っておけばいいよ」と言っていたかもしれない。

声を聴いていると、腕の中で鳴いていたことを思い出せる。
可愛さ、温かさ、重さ、手触り。
腕に伝わっていた鼓動。

ずっと「ありがとう」だよ、マル太郎。






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