『ライオンのおやつ』小川糸 読んで思ったこと
今この本を読んだのもなにかの巡り合わせなのかと思った。
死ぬこと、生きていることについて。
先月亡くなったマル太郎は
いなくなってもずっと心の中にいる。
かわいくて、会いたくて、触りたくてこまる。
名前を呼ぶ。
「ただいまー」と言う。
そこでいつも待っていてくれた姿が見えるみたいに。
最後の日々、マル太郎といつも一緒にいた。
用事で少し離れても気持ちはずっと一緒だった。
眠りから覚めて鳴くときは、ずっと抱いていた。
鳴き疲れてまた眠る。
そうして過ごしていたから、マルは私の心の中をよくわかっていたかもしれない。
お母さんが悲しがるからもっとがんばりたい。
この頃お母さん大変そうになってきたし、ボクもそろそろみたいだし、もうここらでいいかな。
食べなくなり、眠ったまま逝ってしまったが、最後の最後には少し意識があったと思う。
私が抱き上げた瞬間に、ことりと、なったのを感じた。
『ライオンのおやつ』で出会った文章を書き出してみる。
ホスピスで過ごす主人公の雫は、その命が最期に近づいている。
あるとき、入居してから仲良くなった六花という犬の飼い主が夢に現れる。彼女(夏さん)は、六花とこのホスピスで過ごし、亡くなったのだ。
雫が、もうすぐ六花と別れなくてはならないのが辛いというと、夏さんが言う。
「すべてわかっているから」
「六花の心は、私なんかより、ずっとずっと大きくて、そして深いのよ」
この言葉は私へのメッセージのように響いた。
マル太郎が届けてくれたんだろうか。
六花は飼い主を見送る立場なのだが、マル太郎も、見送られる側にいて、私の心の中はよく見通していたかもしれない。
そんなことは、生きている側の、人間の、都合のいい考えなのかもしれない。そういうことはこの世には往々にしてある。
心の重石を少しでも軽くして生きて行くための、方便。
しかし、それだけだろうか、と思う。
もしかしたら、わかっているかも知れない、いやきっとわかっている。
そう信じることは、方便、とばかりは言えないと思っている。
夫は、長男の面会に行って、長男が機嫌よく笑顔を沢山向けてくれたときは、帰り道必ず「俺のことわかっているのかなぁ?」と、言う。
私は必ずキッパリと「わかっているにきまってる!」と言う。
それは、夫がその時に欲しい言葉だと、信じるからだ。
だから何度同じことを言われたって、何度でも繰り返す。
「わかっているにきまってる!」
長男に限らず、言葉や意思表示がない人も、ちゃんとわかっている、考えていて感じていて思っていると、信じることを、なぜ人はためらうんだろうか。あからさまに否定する人もいる。なぜ、否定できるんだろうか。
私は長男に出会って、信じるということは大概のことを可能にすると、思うようになった。
わかっていると信じて会うことと、わからないだろうけどと思いながら会うのでは、そこに生まれるものは180度違う。
『ライオンのおやつ』から少し離れてしまったけど、言いたいことは、ずれてはいないつもりだ。
このお話は、最後に近づくにつれて、雫が生死のあわいを行ったり来たりする夢幻のエピソードが多くなる。
六花の元飼い主である夏さんと話したのも、そのひとつだった。
亡くなってからの3つの章では、雫は見えないながらも存在し、大切な人たちからちゃんと受け止められている。
雫は生前、亡くなったら3日目の夕方に会いに来てと、淡く心を寄せていたタヒチくんと約束する。
約束通り、3日目にタヒチくんは六花と一緒に海辺へ行って、光になって会いに来た雫を見送る。
「ライオンの家(ホスピスの名前)」のような場所で、雫のように最期が迎えられたらいいな、夢やまぼろしのなかで、命が消えて行ったらいいな。
もっと生きていたいという思いも、未練も、認めてやりながら。
思いを馳せていた人たちに夢の中で再会し、心のひっかかりや重荷をはずして。
「ライオンの家」は、そんな気持ちで最期を迎えられる場所なのだ。
どういう晩年を歩んでも。
最期はすべて受け入れて去って行けると信じながらいたい。
それも方便というだろうか。
思い込みだろうか。
自分を騙しているのだろうか。
結局は綺麗な作りごととして読んでしまうこともできる。
ただ六花もマル太郎も長男も、人間には理解しきれない、掴みきれない、大きな自然と共にいる。
人間が理解できていることなど、自然の中のごく一握りの事だと思わせてくれる。
その大きなものに、雫や六花や、マル太郎や長男のように身を委ねてみることは、とても前向きな感じがしたのだった。
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