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シン・させていただくマン

関わっている福祉施設から、新聞を年に6回発行している。
偶数月は編集会議、奇数月は校正会議になっている。
施設ができる準備期間から、もう20年以上の関りになる。
私は施設の詳細には詳しくないから、校正を主にやっている。

先月の校正会議で、「シン・施設長(法人内に事業所がいくつかある、その施設長)〇〇〇」という見出しがあった。
私は最初、ゴジラみたいだな、と思いながらも、ここは赤で「新」に直した。
しかし、再度校正の時も、原稿は「シン」のままだった。
意図的にしていることがわかったが、あえて「シン」にするのなら
どこかにその説明があったほうがいいと、再検討を頼んだ。
そして最終的な校正のために送られてきた原稿は、「シン」のままだった。

調べると、昨今の「シン」には、「新」とか「真」・「神」などの意味が含まれているようだった。
この記事は、自己紹介記事だったので、この施設長が自分のことを「新」なのか「真」なのか、はたまた「神」なのか、どの意味で「シン」と言っているのだろう?と思った。
でも、「新」以外では、どの意味も自分からそんな風に言うような、出しゃばりでもないし、おどけた人でもないので、ひょっとしたら「ゴジラ」や「ウルトラマン」のイメージで、楽しいイメージで「シン」にこだわったのかも知れない。
その施設は、就労移行のための作業所で、若い世代が多いから。

細かい話だけれど、すこし世代間のギャップを感じた一件だった。



各施設から集まっている編集委員は、当然みな私よりも若い。
原稿を依頼する相手も。
そんななかで感じるのは、文章がとても丁寧で、おとなしいということ。
それと、お行儀のいい文章だな、ということだ。
ぶっちゃけ、波風を立てないような文章だなってことだ。

このごろ一番気になるのは「~~させていただく」。
みんなが、「させていただいている」ようなのだ。
させてくれた相手があるのなら、まだうなずけるが
何か正体のない、空気のようなもののおかげで、
「させていただいている」。
これが一人の原稿の中に多用されていると、だんだんムカムカしてくる。
自分の意思でしたことなのに、何かから「させていただいた」ようなのだ。
そう書かないと、不遜に思われるような空気があるんだろうか。

これを考えていくと、「生かされている」「おかげさまで」ということへの意識を過剰に表現しているように思えてくる。
ちょっと、めんどくさい空気だなと思う。
(そう言ってる私もめんどくさいな!)

自分の意思でしたことにまで、何かに配慮している空気をまとわせたいのか。これは、「生かされている」「おかげさま」の何か大きな存在への配慮というよりも、読んでいる人への「牽制」なのかもと思えてくる。
「自分ひとりの能力じゃない、多くの巡り合わせ、まわりの人のおかげだってことは、【ちゃんとわかっているんですよ】」的な。
だから私はこの「させていただく」で立ち止まってしまう。

難しいのは、書き手の心からなる表現であることも、配慮しなくてはならない点だ。
そういう謙虚な気持ちは、きちんと受け止めなくてはならないと思う。

ただ、なんでも「させていただく」とするのは、むしろ失礼な気もする。
読み手が、なんとはなしの不快を感じるのではないだろうか。
謙虚さを表すためには、とにかく「させていただく」を使う、みたいな
安易さを感じてしまう。

あまりに多用している文章はもう投げやりになってしまって
あー、ひと段落に2個まではいいかな、などと自分でルールを作っている(笑)


しかし、コワイのはこんなこと言いだしている自分なのかな。
こだわりの強い、うるさいオバハン。
だなーーー。

・・・うるさいオバハンでもいいんですよ。
時々、言わないでおこうかな、ただの好みの問題なのかな?と
気弱になるが、でもやっぱり言ってみる。

書いちゃってみるw


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