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豆を煮る

ちいさなマンションの玄関から続く狭い廊下の向こうで、シャリシャリ、カラカラと乾いた音が聞こえている。ときどき「もう1回?」とか「ちょっと待ってね」などと声が聞こえている。

廊下からつながるリビングで、千佳子は7才の息子の拓と遊んでいる。
千佳子は胡坐座になって、組んだ足の上に拓を背後から抱いて乗せ、左腕を子どもの前にまわして支えている。右手で、拓の前に置いた大きなタッパーの中身をかき混ぜている。そこにたくさん入っているのは、大小の乾燥した豆だ。
大きな花豆と、それよりも小さいが倍くらいの量の金時豆、白隠元。
タッパーの中は白やクリーム色、えんじ色が混ざっている。

拓はそこに両腕を伸ばして、かき混ぜるのに余念がない。
まじめな眼差し、とがらせた口からときどき涎が豆に落ちる。
それでも二人は豆のかき混ぜ遊びを続ける。

「ほーら、いくよー、ざぶーん!
お手々が溺れるよ、ざぶーん!」
千佳子は拓の手を豆で覆い隠す。
拓は反射的に手を引き抜き、すぐに豆の上に戻して、不規則に動かし始める。表情は相変わらず大まじめだ。

やがて拓は姿勢を保つことに疲れたのか、遊びに退屈し出したのか、体をのけ反らせて不機嫌な唸り声をあげた。
「ああ、もうやめようか。おやつだね、牛乳もね」
千佳子はゆっくりと子を床に寝かせて、おやつの用意に台所へ立った。

手に古くなった豆と涎の臭いがついている。
手を洗いながら、そろそろ豆を新しいのに取り替えようと思う。

今日のおやつはプリンと牛乳。
水分にはお茶や白湯がいいとは思うが、拓は牛乳しか飲んでくれない。
だからプリンのときでも牛乳、ご飯の時も牛乳なのだ。

拓を横抱きにして上体を起こし、少し前傾させながらスプーンで口にプリンを運ぶ。左腕で子の首を巻き、その手で顎にタオルをあてがう。いったん口に入れても少しづつ垂れてしまうので、飲み込めないものをあてがったタオルでうける。牛乳もスプーンで運ぶ。拓は飲み込むタイミングがつかめず、しょっちゅうむせる。

むせる様子を見ながら、千佳子はじわじわと追い込まれる。咳込む音を聞いていられなくなる。拓はプリンは食べたいのに、苦しいから半分もいかないうちに「もういらない」と言うようにのけ反る。
そこから不機嫌になっていき、ゴロゴロと転げたり腹ばいになって床をどんどん叩いたりしはじめる。
「わかったわかった、散歩行こう」
千佳子は片付けを後回しにして、小柄な拓をバギーに乗せて、駆け出すように散歩に出るのだった。

昼間の街中は白くがらんとしていて、暑さが全部向かってくる気がする。十分な水分を摂らせないまま出てきたことも、拓があまり嬉しそうでもなく、バギーの中でだらんとしていることも、千佳子の気分を鬱々とさせる。
木陰を見つけてしばらく佇む。汗ばんだ首や腕に風がすこし当たる。
拓は体温調節がうまくいかないから、外気温のままに体温も上がって行く。
佇んでいると、拓は体をそらせたりねじったりして不満げだ。
ただでさえ暑いのに、不機嫌をエスカレートさせたらいけない。
千佳子はそれをあやすようにまた日向に歩き出すのだった。

30分ほど歩いて帰ると、部屋の中はつけっぱなしにしておいたエアコンのおかげで涼しい。
喉が渇いているだろうから、また牛乳を飲ませてみる。一口二口ですぐにのけぞるからやめる。あっさりとやめる。しかし心の中はイライラが収まらない。何で飲んでくれない?熱が出るよ。
そんなある日、拓は赤ん坊のころから途絶えていたてんかん発作を起こした。

いつものように、暑い戸外から戻ってエアコンで涼んでいる時、ふいにどこからか太い笑い声が起こった。驚いて見ると、拓の顔が歪み、苦しそうにげらげらと笑っている。7歳の子どもが野太い声を発して、無理やり笑わされているように硬直していた。
「笑い発作」というものが、てんかん発作にはあると、以前聞いたことがあったので、それかもしれないと千佳子はどぎまぎしながら見守った。

1分ほどで発作は終わり、拓は汗ばんだ顔と涙目でぐったりしている。
そのまま静かに様子を見ていたら、眠った。
発作のあとはたぶんぐっすりと眠るだろう。千佳子はそう予想して、放っておいた片付けや洗濯物を済ませた。

拓が眠っている静かな時間。エアコンの稼働音だけがかすかに聞こえている。涼気が回って足元から冷えて来たので、かけていたタオルケットを足元までくるむように直した。


月曜日、拓は朝からデイサービスにでかけた。
すぐ近くにある生活介護事業所だ。
送迎時間は9時半から15時半。月・木は、自宅まで送迎してくれる。
他の日は自分で送り迎えをする。

拓を送り出したあと、千佳子は珈琲を淹れてしばらくぼんやりするのだが、今日はその前に、昨晩洗って浸水させておいた豆を火にかけた。
花豆と金時豆、白隠元。大きさも硬さも違うものをいちどきに煮る。だから煮る時間も適当で基本ほったらかしだ。その大雑把さが、一人の時間にはここちよい。
自分で食べるのだから、出来上がりは気にしない。小さいものは溶けたっていいと思うのは愉快だ。
そうしてから、珈琲の用意をする。

豆が鍋の中で踊る音を聞きながら、傍らに珈琲を置く。
先週まで読んでいた本を読みだしたが、数ページでどうでもよくなった。
もっと面白い本なかったかな。あれこれと取り出してみるがどれにも興味をそそられない。週末が終わりやっと手にした一人の時間なのに、何をしようという気にもならない。
鍋で踊る豆を眺め、アクを掬う。アクは限りなく湧いてくる。

午前はぼんやりと過ごし、簡単にお昼を済ませながらさらに豆を煮る。時々水を足す。
花豆は大きいから煮えるのに時間がかかると思っていたら、意外に皮は薄くておおかた火が通っている。白隠元がなかなか硬い。皮が厚いのだ。
一番大きい花豆が先に煮崩れるかもしれない。
そういえば、白隠元が一番古い。黄ばんで、皮に皺が寄っていた。時間差をつけて浸水させたらよかったのかなと思う。
でも、いい。煮崩れたって固くたって。

デイサービスから電話がきて、ぼんやりしていた気持ちがひるむ。
「拓さん、お昼休みに測ったら熱があって、37度8分です。お迎えに来て頂いていいですか?元気はあるんですけど、すこし興奮ぎみです」

ああ、来たか。毎度のことながら、この連絡はかなり落胆する。
しかも週の初め。熱が下がらなければ、明日は受診だろう。感染症が落ち着いたばかりだから、何の熱なのか診断がほしい。

鍋の火を止め、気持ちも重く出かける。
それでも引き継ぐとき、職員さんのテンションに合わせて明るく会話したせいか、家を出るときほどの憂鬱は消えている。

家に戻り鍋を見ると、火を止めていたせいか、豆が水分を吸ってふっくらとしている。親指と人差し指で潰れるくらい、どの豆も万遍なく柔らかくなっていた。
おやつにいいかも知れない。

「拓ちゃん、豆食べてみよう」
念のため皮を取り除き、少しきび糖をかけながらよく潰す。
機嫌が悪くならないうちにと、抱っこするのも省いて座布団を頭ににあてがい、横にしたままの姿勢で、豆を口に運んでみた。何が気に入るかわからない。ダメかも知れないけど。顔を背けて、不機嫌が加速していくかもしれないけど。

千佳子の手元を見ていた拓が、ゆっくりと口を開いた。近づいたスプーンに抵抗せずに口を開いてくれた。それだけで千佳子は、心がふっと楽になる。
味わうように、二口、三口と受け入れてくれる。合間に牛乳を運ぶ。
全世界を肯定できてしまうくらいの幸せに包まれる。

数回運んだら食べるのをやめてしまったが、お腹に何か入ったことで拓は落ち着いている。体温を計ってみると37度3分。
明日までに平熱になってくれるといい。
明日もデイサービスに行けますように。

そんなにも一人の時間が欲しいのかと自問自答する。
なにをするのでもないのに。
一人の時間に満足できたことなんかないのに。

どう抗ってみても、拓が自分を受け入れてくれることが
一番の満足であり、幸せなんだ。
拓のよろこぶことが、自分のよろこびなんだ。

でも、それはなかなかやってこない。
いつまでこんな苦しい時間が続くのか、もうやめたいとまで思う。
するとふっと与えられる、拓の笑顔。
息を吹き返す気がする。

私ががんばったところで、手に出来ない。
それは気まぐれに与えられる幸せだ。


明日は、煮豆を完成させよう。
それができたらよしとしよう。
別に充実してなくても、何も手ごたえがなくたっていい。
ぼんやりしてたっていいだろう。

できあがった煮豆をまた食べてくれるかな。
でも、食べなくてもそれはいつものこと。

あまり何かを期待しないでおこうと千佳子は思った。
願ったってかなうものではない。
思ってもいない所で花が咲いたりする。
そのことを喜んでいようと思った。



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