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父の日は黄色いバラ

一美が午後の珈琲を淹れていると、実家の弟から電話が来た。
2歳下の稔は独身で、高齢の両親と同居している。
両親はどちらも体が思うようにならず、母のりさ子は心臓も悪く、何かと介助が必要だ。稔自身も体に故障が多く、数年前、体の不調で自動車整備の仕事を辞めてからは、ずっと短期の派遣の仕事や、アルバイトなどを探して、つないできている。

「また父さんがバクハツした」と言うので、一美はゲンナリした。
「今度は何で?」と聞くと、
「おれに、『ぶらぶらしてないで仕事を探せ、おれがどこかに施設入所したら、おまえも母さんも、おれの年金は使えなくなるんだぞ。仕事しないでどうする』って。最近はだいたいこの路線だけどね」

一美は、父の達夫のこういう脅しがほんとうにムカムカする。
どうせ口だけ。一人でどこかに入所なんてできるわけがない。
一昨年、たった1週間検査入院した時だって、しょっちゅう稔に電話をしては、急ぎでもない用事であれこと呼び出していたのに。
稔は波風立てないように、ずっと両親の用事をこなしてきた。
こんな風に電話してくるのは珍しいことだった。

「俺を自分の持ち物だと思っているのかな。
毎日何か用事をさせる。まあだいたい細かい買い物なんだけど。
あとは畑をおこせとか、何か植えろとか。
雑草が困るって言うから、こないだ除草剤を撒いたんだ。
適量なんか知らないから適当に撒いたら、あれからひと月たっても、雑草も何も生えてこない。父さんは、雑草も生えない畑じゃ、何も植えられない、ってそれからは何も言わなくなった。
これはこれでよかったけどね」
笑い合う。

「でも仕事が入れば、うちの事と時間をやりくりしなきゃならない。
俺にだって都合はあるから、すぐに言ったとおりにしないでいると、母さんに『お前の育て方が悪い』なんて言う。
買い物に出てちょっと遅くなると機嫌が悪い。
たまには足を延ばして気晴らしにドライブだってしたいよ。運転している時だけは、気持ちが休まるんだから。それだってほんの30分くらいだよ。
まったく・・・俺は身の置き所がないよ」
少し、涙ぐんでいるのがわかる。

還暦を迎えた息子に、こんなことを言わせる父。
稔だって思いきったことをしたいと思っても、母りさ子の存在がそれを引き留める。りさ子は、全部自分が悪いんだ、稔は悪くないから、と言う。

絵に描いたような昭和の親子の会話じゃないか?
昔のホームドラマみたい。
こんなシーンが自分の人生にもあるのかと一美は笑いたい気持ちになる。

実家では、時間が止まっている。
父によって時間を進めることができないでいる。
父の価値観が絶対だ。逆らえば冷たい無言が待っている。
母や稔の息苦しさを思う。

「でも、姉さんはなにもしなくていいから。
何か言ったら、ますます面倒なことになる。母さんが気をもむし、父さんに責められる。
俺は、気持ちのやり場がないような時に、こうして聞いてもらえればそれでまたやって行けるから。聞いてくれてありがとうね」
稔はそう念を押して電話を切った。

稔とりさ子は似ている。
どちらもおとなしく、引っ込み思案だが芯は強い。
思いきりがいい所があるが、情に脆いからなかなか思いきれない。
ずっと達夫の機嫌を窺いながら、その目を盗むようにして何とか自分を解放しつつ、同じ屋根の下で過ごしてきた。

稔は何度か淡い恋愛をしたが、父との同居を思うと、相手の苦労が思いやられて結婚までには至らなかった。
「家を出たらいい!」と、一美がハッパを掛けたが、稔は独立して結婚生活を営むことに、憧れも自信も持てなくなっていた。
達夫はことあるごとに、稔に否定的な言葉を言い、りさ子にも文句をつけた。気まぐれのように稔をほめそやすこともあるが、不満はずっと腹の中に渦巻いているのだ。


それから数日して、一美がいつものように実家に手伝いに行くと、りさ子が台所で腰かけて放心したような様子でいる。何かあったかなと一美は表情をうかがう。
「私のおかゆは冷蔵庫にまだ残ってるからそれをあっためたらいいよ」
「じゃあ、あとは味噌汁作っておけばいいかな」

いつものやり取りのあと、りさ子が「お父さんがお前に話があるらしいよ」と言った。
ちょっとドキッとしたが、見当もつかなかった。
「これ、切干大根煮てきたよ。それとカリフラワーも茹でてきた。
あと、ドライプルーンがお腹にいいから食べてね。こっちはキウイ。好きでしょう?」
つぎつぎに取り出して、りさ子の前に並べた。

りさ子はどれも喜んでいたが、急に意を決したように、「これは私がもらうね。お父さんにはあげないでいいから」とドライプルーンを別に取り置いた。
一美はりさ子の意外な言葉に内心で驚いた。
これまで、達夫に隠して何かを一人占めにしたことのないりさ子の言動に違和感を持ったのだが、まあ、たまにはそういうこともあっていいかと、何も言わずにおいた。

味噌汁を作りながら、「父さん、また何か言ってるの?」と聞くと、りさ子はしばらく考えて、「どこかの施設に入りたいんだって」と答えた。
「私と稔を見ていたくないから、どこか遠くの施設に行きたいんだって。
一美に話があるって、多分そのことじゃないかな」

一美は、何て身勝手なことを言うんだろうと父が腹立たしかったが、一方で、それが一番いいんじゃないかとも思うのだった。
もしそんな話をされたら、遠くではなく、市内にある介護保険外のショートステイを提案してみようと思った。

お昼の片付けを終えて、一美は達夫からの話を待つともなく茶の間で雑談をした。しかし、なかなかそれらしい話にならない。
機嫌がいいようで、とぼけた話をして笑わせる。
時間も過ぎるので「じゃあまた来るね」と、実家を後にした。
玄関先でりさ子が「何も言わなかったね」と少しほっとしたように耳打ちした。

車を運転して家に向かいながら、ふと、りさ子のいつもと違うあの言動を思い出した。そして、それがささやかな、あまりにもささやかな、達夫への反抗だったのかと思えた。
ドライプルーンは、実家で毎朝食べてきたものだった。便通だけでなく、体全体にいい作用があると、もう何年も食べてきたのだ。しかし少し前からなくなっていた。
「お父さんにはあげないでいい」と言った時、りさ子の口調のなかに小さな棘を感じた。それは妻と息子を見ていたくないから入所したい、などと言う達夫に対する、りさ子のささやかな抗議、小さな小さな意地悪、だったのかもしれない。
じっと台所で腰かけて、ぼんやりしていたりさ子の心の中は、悲しみでいっぱいだったのだろう。


一美は達夫の「入所したい」という言葉には、彼自身の苦しみも滲んでいると思えてきた。
達夫こそが、自分の言動に一番苦しんでいるのではないか。
こだわりを家族に押し付けてしまう。一歩引くことができない。
妻と息子を大事に思うのに、支配として表現してしまう。自分の非に気が付いても後には引けない。
常に強気。常に正論。
時におちゃらけて、人を笑わせることは、自分の救いでもあるのだろう。

自分を保っていなくてはならないことに、疲れてきたのかと思う。
今まで、何もできない、何も知らないと軽んじてきた2人の前では、弱みを見せられない。しかしもう、体力気力ともに限界だと、思い始めたのかも知れない。
達夫は、ほんとうに一人になりたいのかも知れない。

一人になって、すべての鎧を外して、楽になりたい。
誰が強いたのでもない、自分で勝手にまとってきたものを脱いでしまいたい。しかしその姿は家族には見られたくない。

一美は、父似であると思っているが、きっとそんな気持ちが言わせた言葉なのかと、自分を重ねた。

今度実家に行ったときは、その気持ちは変化しているのだろうか。
同じことを言われても、「ショートステイの利用を提案する」と決めているので、一美の心は落ち着いている。


実家の家族は、このへんでしばらく離れる時間が、お互いに必要なのだ。
遅いくらいだと思う。
達夫が自分自身をがんじがらめにしていることに、一美は少し同情できる気がしてきた。

かわいそうにな、と思う。
もういい加減、その窮屈なものをほどいて、本当は大切で仕方がない家族と、ゆるゆるに生きればいいのに。

もうすぐ父の日がくる。
父の日の花は、黄色いバラのようだ。
うちの庭には黄バラがないから、赤いのでいいか。
あと、達夫は花より団子派だから、好きな甘栗でも持って行こうかな。
達夫に対する気持ちの変化に、一美自身もすこし安心するのだった。




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