見出し画像

一緒に登校した頃 2

芳樹は3年生になった。障害児学級の経験が厚いという新しい担任が来て、一美に「授業時間は、お母さんは相談室で自由にしていていいですよ。芳樹くんもだいぶ学校に慣れたし、結城さんも慣れたと思うし。」と言った。
学級運営もそのほうがしやすいのだろうが、この先生があまりにも穏やかで、静かな自信に満ちている様子が頼もしかった。
結城の少しおせっかいな所や、差別が垣間見える言動も、結城のプライドを損ねないように、柔らかく指摘して矯正してくれるのだった。

4時間目までが終わると、一美は芳樹をまた車に乗せて、送って来た結城に挨拶して、家へと向かう。ほっとする瞬間だ。助手席の芳樹は上機嫌で、景色を眺めたり音楽を聴いたりしている。お昼の時間だが、毎日30分ほどドライブしてから家に帰るのが常だった。
家で午後を過ごし、夕方になると散歩をする。下校する子どもたちとすれ違う。保育園で一緒に過ごした同級生たちが、声を掛けてくれて嬉しい時間だ。ゆうじくんは、いつも何かと質問してくれる。
「ねえ、よっちゃんて、歩けないよね。どうして?」
気づかわしそうな瞳でまっすぐに聞いてくるのがありがたかった。
「うん、生まれる時にね、頭の中に怪我したんだよ。」
「世の中にはいろんな人がいて、みんな毎日頑張ってるよ」
するとゆうじくんは、「ふーん。だったら、よっちゃんも頑張ってるんだね。それでいいんだね」と安心したように笑って、走っていった。

芳樹は、就学前の相談で、遠方の肢体不自由児学校(入所生活)か、特別支援学校の訪問クラスの2択を言われたのだった。
保育園時代に過ごした地元の友だちと離れ離れになるのは、一美も夫も、なんとか避けたかった。それで地元小学校への母子通学を願い出た。教育長はそれでストレス性の胃潰瘍になったなどと聞こえてきたたが、一美は、その教育長の胃袋には同情しても、そんな時代錯誤な町の状況にうんざりしただけだった。

ぐったり見える子がバギーに乗って、駅前通りを散歩している。
スーパーで、母親の膝くらいまで脚をぶら下げておんぶされている子に出会う。
一美はそれもこの町の日常の景色にしたいと願った。同じ気持ちで、応援してくれる人たちもたくさんいた。地元小学校への母子通学は絶対に叶えたかった。


毎日、休み時間になるのを待って、だれかが芳樹に近づいてきてくれるのを願う。しかし、誰も来てくれない日もある。
一美は結城に「2時間目の後の長い休み時間には、体育館に連れて行きたい」と申し出てみた。すると案の定「何があるかわからないので、怪我でもしたら責任がとれないから、やめましょう」という返事だった。
長い休み時間には、体育館でボールを出していいことになっていて、子どもたちは我先にボール遊びに向かう。確かに、ボールがいきなり飛んでくるかもしれない。でもそのために私が付き添っているのだ。責任を言うのなら私にある。
そう言っても、結城は受け付けてくれない。
「お母さんは芳樹のことだけ考えているけど、怪我でもしたら、その怪我をさせた子どもの心に傷がつくんです。親御さんにだって迷惑が掛かります。」

そこへ、「何かありましたか?」と教頭が廊下から覗いた。結城は「いえ、なんでもないんです、ね、お母さん」と急いでその場を収めようとした。一美は以前から、教頭先生は人の話を聞く人だと思っていたので、相談しようとするとまた遮られた。そして教頭が行ってしまうと「ほかの児童のことも考えてください」とたしなめられた。

相談室で一人になると、モヤモヤが募った。芳樹に生き生きと学校生活を楽しんでほしい。芳樹だって、みんなの様子が見たいだろう。
それだけじゃ、ダメなのか。責任なんて、だれがどうやってとるっていうんだろう。面倒なことをしたくない言い逃れにしか聞こえない。
しかし、他の子のことを考えろと言われると、一美も尻込みしてしまうのだった。


休み時間になり、芳樹のオムツ交換のために教室へ戻る。交換が終わると、水分補給をする。
窓に近いところに敷いてあるマットで芳樹は楽々と横になり、外からの風を受けて気持ちよさそうにしている。もう夏の風に変わろうとしていた。

そこに、ゆうじくんが来た。小走りに来て芳樹のほうにかがみ、その肘にすぅーっと触れて、「今日から半そでになったね!」とニコニコ笑う。そして目的の玩具のほうへと走っていった。
そのとき一美は、さきほどからの心のモヤモヤが消えていくのを感じた。

危険も、責任も、もうどうでもいい。
自分はこの瞬間のために、毎日、芳樹と登校しているんだ。
これからも、結城は「障害児の母親」「自分の子どものことしか考えていない、弟のしつけもろくにしない母親」という目線で、いろいろ細かく指導してくるのだろう。しかし、そんなのは、もうどうでもいい。

大人の思惑とはまったく無関係に存在する、子ども達同士の瞬間。
それは毎日、毎時間、気が付けばきらきらとそこにある。
自分はそのためにだけ、登校する。ほかに期待はしない。

一美は、ゆうじくんが触れて行った芳樹の肘をいとおしく眺めた。


終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?