1.

「いらっしゃいませー」
 シャッターが開くと同時にレジにいた先輩が声をあげた。
「本をね、探しているの」
 続いてお客様と思しき若い女性の声。
「かしこまりました。こちらのサービスカウンターにお回りください」
 先輩はそう言って僕の方にお客様を促す。本を探すのは先輩の方が圧倒的に上手だけれど、いつまでも先輩に頼るわけにもいかないので、なるだけ自分で頑張ろうと僕は気合を入れてお客様と向き合うことにした。
 当店の入り口にでんと構えたカウンターはL字型になっていて、入り口に面した方がレジ、もう片方の面がサービスカウンターとなっている。
「本をね、探しているの」
 サービスカウンター側にやってきたお客様は先ほどと同じ言葉を口にする。
 この場合、タイトルや著者名、出版社などはわかるかどうかなどを尋ねる。それでもわからない場合は内容を聞いて本を推察する——というのが流れだ。
 けれども僕はお客様と向き合った途端、何も言えなくなってしまった。

 ひとつだけ弁明させてほしいのは、僕は別に緊張したとか対人恐怖症だとか、そういう理由で硬直したわけではない、ということだ。
 確かにこのバイトを始めてからまだ半年しか経っていないが、逆に言えば半年はこの仕事に従事しているわけで——どちらかというとコミュ障の部類ではあるものの、それなりに書店員という接客業に慣れてきたはずなのだ。 それならばなぜ僕は何も言えなくなってしまったのかと言うと、目の前にいる”お客様”には顔がなかったからだ。
 ——いや、顔がなかった、というのは正確ではない。より正確に言うならば『顔があるだろうと僕が想定した位置には首しかなかった』が正しい。
 僕は震えるのを我慢しながら異様に長い首を目線で追う。ぐにゃりぐにゃりとゴムのように曲がりくねったその先にようやく女性の頭がぶら下がっていた。
「別にね、『この本が欲しい』ってわけじゃないの。ただ最近肩こりがひどいから、肩こりに効く本を探しているの」
 ぶら下がった頭が声を発する。
 そりゃあ、それだけ首が長かったから肩もこるだろうな、という言葉が喉の奥まで出かかったがなんとか堪えて
「では、健康本コーナーにご案内します」
 と僕はカウンターを出てお客様を案内した。

 結局、首長のお客様は
「あら、これこないだテレビでやってた本だわぁ」
 と嬉しそうな声をあげて『肩こりと首こりに効く』——と謳い文句が書かれた本を買って帰った。テレビを見るときのあのお客様はどういう姿勢で見るのだろうかと僕は若干の興味を抱きつつ、安堵のため息を吐き出す。
「ね、いつもと変わらないでしょう?」
 いつもと変わらない様子で会計を済ませ、お客様を見送ってから小柄な先輩はいつも通りの声で言った。
「……いや、しょっぱなからビジュアル的にすごいなっていうか」
「ハロウィンだと思えばいいんじゃない?」
 先輩はこんなことを言うが、それは季節外れが過ぎるというものだ。
 僕は開店前に行われた朝礼——否、夜礼の様子を思い出していた。

「おはようございます」
 僕の向かいで小柄な先輩がよく通る大きな声で言う。
 時間的には『こんばんは』もいいところなのだが、慣例として始まりの挨拶は何時であろうが『おはようございます』になりがちなのが日本人である。
 時刻は午前一時五十分——世間的には『おやすみなさい』が一番多い時間帯ではなかろうかと思いながら僕はあくびをかみ殺した。
 この場にいる人間は僕も含めて三人。
 仕切っているのは小柄な女性で、今は鳥のお面をかぶった先輩だ。
「今はコトリさんと呼んでね」
 小柄な先輩——もといコトリ先輩はそう言って、おそらくお面の下で笑ったのだろう。
「はあ……、名前で呼んじゃダメなんですか?」
 僕が尋ねると僕の隣にいたもう一人の先輩——こちらは狐面を被っている——が
「ダメですよ」
 と間髪入れずに答えた。
「この時間は境目を曖昧にするのがルールなので、誰も本当の名前を明かしてはならないのが決まりなのです。——ですから、私のことはキツネさんと呼んでください」
 もうひとりの先輩——もといキツネ先輩はいつも通りの凛とした声でそう言った。キツネ先輩のお面は目元だけを隠すタイプなので口元は見えるのだけれど、口はいつも通り真一文字に結ばれていた。
「じゃあ僕はなんて名乗ったらいいんですかね」
 かくいう僕はコトリ先輩から「とりあえず用意したからこれ被って」と渡された菅笠と呼ばれるものをかぶっていた。額の辺りから顔を覆い隠すように布が垂れ下がっていてこれで顔を隠す構造になっている。布が特殊なのかマジックミラーのように向こう側は透けて見えるので視界は悪くないが、いかんせん慣れないので少し落ち着かない。
「そうだねえ、布に目玉が書いてあるから『オオメダマ』くんとか?」
 コトリ先輩の言葉にキツネ先輩が
「良いですね。オオメダマくん——呼びやすいです」
 と相変わらずの真顔で答える。コトリ先輩はともかく、キツネ先輩の言葉は本気か冗談かわからないので反応に困る。
「じゃあ君は今日からマヨナカの間だけオオメダマくんね。よろしく、オオメダマくん」
 コトリ先輩はそう言って
「というわけで夜礼を始めるけど、オオメダマくんは初めてのマヨナカだからって緊張しないようにね」
 と続ける。
「だいたいの説明は店長から聞いたと思うけど——」
 確認するようにコトリ先輩が首を傾げた。けれども僕は
「いや……店長からはほとんど何も聞いてないです。『時給が高い』ってのと『行けばわかる』とだけ」
 と答えた。
「えー、まじかー」
 コトリ先輩はそう言って頭を掻きながら
「でもまあ、そんなに普段と変わらないよ。守らなきゃいけないルールは主に二つ。『本当の名前は呼ばないこと』『普段通りに接客すること』」
 と指を二本立てながら言った。
「もし……破ったら?」
 僕はおそるおそる尋ねる。
「時給は高いし、仕事はいつも通り。けれど来る客はいつもと違う」——店長にはそう聞かされた。
 ならばペナルティも人知を超えたものなのでは……? と急に僕は怖くなったのだ。
 けれどもコトリ先輩は
「注意喚起かな」
 といつも通りの軽い口調でそう言って
「あと昨日発売の雑誌に先着でノベルティつくみたいだから渡し忘れのないように」
 と連絡事項を続ける。
「わかりました。一覧はレジにありますか?」
 キツネ先輩もいつも通りの声で言う。
「あるよー。昨日で無くなっちゃったやつとかもあるみたいだから、併せて確認しといてね。あと雑誌の売り切れ一覧もあるから見といてね。特集がよかったみたいで昨日発売で昨日完売がちょこちょこあるっぽい」
「それ再発注した方がいいのでは?」
「でも週刊誌は基本的に売り切りだからなあ。難しいとこだよね」
「特集は何だったんです?」
「えーっとね、アイドルさん」
「それなら一週遅れでも売れると思いますよ」
「じゃあ、雑誌担当くんにメモ残しとくね」
「そうしてください」
 僕が固まっている間に夜礼はどんどん進行していく。
「はい、連絡事項は以上です。今日も一日、ほどほどに頑張りましょう!」
 コトリ先輩が最後にそう言って夜礼は終わり、ほどなくして開店のシャッターが上がったのだった。

 ちょうど時刻は午前二時。——俗に言う、丑三つ時というやつだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?