3.

 レジで行う業務は何も会計だけじゃない。
 担当を持っている先輩方は会計の合間に売り上げのチェックをしたり、注文書を書いたりしているし、担当を持たない僕のような下っ端はブックカバーを作ったり備品の在庫を数えたりと、意外とやることは多い。
「特にマヨナカはそんなに頻繁にお客様が来るわけじゃないから、そういう雑務が捗るんだよ」
 とコトリ先輩はいつも通りのあっけらかんとした口調で言っていた。
 そういうわけで僕はコトリ先輩とレジを交代してすぐに原紙を取り出してカバーを折り始める。
 先輩の言うように来店する客の数はまばらで、最初のお客様みたいにインパクトのある客もいないから僕は普段と同じように
「いらっしゃいませー」
 と適度に適当に言いながらレジに入っていた。
 そうして、体感的に十五分くらいが経過した頃
「もし、そこの店員さん。この本を頂戴したいのだが」
 とカウンターの向こうから声がした。カバーを折るために手元を見ていた僕は慌てて顔を上げる。
 いつもカバーを折っている最中でもお客様が来たときはすぐに対応できるようにしていたのに、今来たお客様は全然気がつかなかった。
「いらっしゃいませ」
 そう言いながら慌てて顔を上げた僕はすぐに目を見開く。
 カウンターの向こうに立っていたのは、茶トラの少し大きな猫だったのだ。
「おや、見かけない顔だね。新人さんかい?」
 カウンターの上にハードカバーの本を置きながら猫は流暢な物言いで僕に声をかけてくる。声は老齢男性のそれだけれど、見た目は完全に猫だ。どこからどう見ても猫。
「あ、いや、勤めて半年なんですが、マヨナカは初めてで……」
 しどろもどろにそう言いながら僕はハードカバーの本を受け取る。表題に書かれているのは聞きなれない難しい単語だし、ずいぶんと分厚い本だ。専門書か何かだろうか。
「ああ、成る程。それは大変だねえ。マヨナカは普段と勝手が違うだろう。戸惑うことも多いかも知れんが、何事も経験だ。学びたまえよ、少年」
 猫は興味深そうに目を細めてつらつらと言葉を紡ぐ。僕は「はぁ」と生返事をしながら本をレジに通して
「三千七百八十円です」
 と伝えた。
「はいはい。ちょっと待っておくれよ」
 そう言って猫は斜めがけしていた小さなカバンの中から猫型の財布を取り出した。猫が猫型の財布を持っているという光景はなかなかシュールだな……。
「この財布が気になるのかね? 娘からの贈り物でねえ。あれも今は反抗期というやつでもともと少ない口数がさらに少なくなってしまったのだが、なかなかどうして他者思いの優しさはそのまま残っているのだよ」
 聞いてもいないのに猫はよく回る口でそう言った。
「ああ、そうだ。ポイントカードがあるんだった」
 財布の中身を出しながら猫は思い出したようにそう言って、この建物全体で使える共通ポイントカードを出してくる。
 会計前に「ポイントカードはお持ちですか?」と尋ねるのがオペレーションになっているのだが、度肝を抜かれて聞くのをすっかり忘れていた。ついでに言うとまさか目の前の猫がポイントカードを出してくるとも思わなかった。
「ポイントカードをお預かりします」
 定型文で答えて僕はポイントカードを預かる。機械に通すついでにカード裏の名前欄を見てみると結構な達筆で『竹原エス』と書かれていた。……この猫の名前だろうか。聞きたいけれどマヨナカでは名前に関する話はご法度なので僕はスルーを決め込む。なにせ相手は明らかに化け猫である。今は普通の猫より一回り大きいくらいだけれど、機嫌を損ねたその瞬間に僕は頭から丸かじりにされるかもしれない。
「ポイントのご利用はなさいますか?」
 代わりに僕は定型文を告げた。
「今回は利用しないでおくよ。ありがとう。吾輩はポイントを貯めて、娘に商品券をプレゼントするのが楽しみでねえ」
 またも聞いていないのに猫は嬉しそうにそう語った。よほど娘さんが大事らしい。そしてどうやらこの猫は一人称が『吾輩』みたいだ。意外とあの有名な文学作品から飛び出してきた新手の妖怪とかかもしれない。
「そうなんですね、かしこまりました。ポイントカードをお返しします」
 正直なところ、ものすごく色々と気になる。それはもう、すごく気になる。
 だが、僕はまだマヨナカの加減がわからないのだ。コトリ先輩もキツネ先輩もいつも通りあっけらかんとしているけれど、もしかしたら下手な行動は命取りになるのかもしれない。
「すまないね、少年。小銭がなかったから五千円で頼むよ」
 カルトン(お金を置く受け皿)の上に五千円札を置いて猫が微笑む。言動は完全に老齢男性のそれだ。何度見ても猫なのだけれど。
「はい。では五千円お預かりします。千二百二十円のお返しです。お先に千円のお返しと」
「はい、確かに」
「お後、二百二十円のお返しです。ご確認ください」
「ひぃ、ふぅ……はいはい、確かに」
「こちらお品物でございます」
「ありがとう。栞を貰っていくよ」
 そう言ってレジカウンターの脇に置かれた『ご自由にお取りください』の文言が添えられた栞入れから慣れた手つきで栞を一枚とって、猫は荷物置き用の台から飛び降り、店を後にした。
「ありがとうございましたー」
 その姿を見送るや否や、僕はカウンターに突っ伏す。
「オオメダマくん、どうしたんですか?」
 入り口に置いてある棚の整頓に来たキツネ先輩が不思議そうな声で僕に声をかけてきた。
「キツネ先輩。実はその、さっき猫が来まして」
「ああ、教授ですか」
「きょうじゅ」
 キツネ先輩が発したその単語を脳内で変換するのに僕は二秒ほどを要した。

 享受、今日中、教授……教授!?

「え、あの猫の客、先生か何かなんですか!?」
 僕の言葉にキツネ先輩は首を横に振って
「いいえ。でも立ち居振る舞いが老齢の大学教授みたいでしょう? だから猫教授って影で呼んでいるのです。マヨナカの常連さんですね」
 と答えた。
「はぁ……まあ、確かに、言われてみれば……」
 僕は先ほど見た猫が教卓の上に立って教鞭を振るっている様子を想像する。……うん、しっくりくるな。
「あれ?」
 そこまで考えて僕は首を傾げた。
「キツネ先輩、猫教授は教授じゃないって言いましたけど、あの人——じゃなくて猫が本当は普段何をしているのかご存知なんですか?」
 僕が尋ねるとキツネ先輩は頷いて
「お昼もたまにいらっしゃいますよ。ケージの中に入ってますけど」
 と答えた。
「ケージ」
 僕の脳内で大学の教鞭を振るっていた猫教授が教卓から転落した。
「つまり普段は飼い猫さんですね。ご家族には尻尾が二股であることも内緒にしているようです。娘さんにだけはバレてしまったと以前仰っていましたが」
 キツネ先輩はそう言って
「あ、猫教授は猫ですけど、彼の言う”娘”は人間ですよ。飼い主の娘さんだそうです」
 と続けた。
 尻尾が二股なのには気づかなかったが、その話が本当ならさっきの客は猫又というやつだったのだろう。
「オオメダマくん、この時間に”本当の名前”を言うのはご法度ですよ」
 キツネ先輩がお面の向こうにある瞳でじっと僕を見つめた。
「人間の場合は名前。そして”彼ら”の場合は有り体に申し上げて”種族名”です。例えば鬼を見かけてもその方を指して直接鬼と言ってはいけません。良いですね?」
 ……つまり、猫教授を指し示して『猫又』というのはダメなんだろうな。
「わかりました」
 僕は頷いて、ふとカウンターの隅に置かれた砂時計的なものに目をやる。
 砂はまだ半分以上残っていた。

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