ニック・ランド『絶滅への渇き』第八章「滑らかな身体(ミラーにおける脱線)」

 もし今、脳と脊髄が一緒になって精神の物質的即自存在を構成しているとすれば、頭蓋骨と椎骨は、それのもう一方の極を形成している。切り離された極、すなわち、固体、自らは動かない事物を形成しているのだ。[ヘーゲル III 246]

 この種の迷路の中で自分の道を見つけるためには、残念ながら歴史的に物事を再開する必要がある。重要なこと......、それは精神と物質という二つの原理の間の根本的かつ起源的な分裂である。この分裂が確立されている限り、誰が何を言おうと、そこには物質に対する精神の優越性があり、精神は考え得るすべての優越性、すなわち、一方では神、他方では理性である優越性を手に入れている。[Ⅶ 368]

白さ
海の中の
そして光の蒼白
それらは骨を隠している[Ⅲ 369]


 素朴な問いに立ち返ること。すなわち、物質とは何「である」のか?この問いに答えるメッセージを受け取ることは可能だろうか?メッセージを、あるコードを共有する存在間の伝達として捉える人間中心主義的な概念がある。そのような定義によると、あるメッセージの受信は、送信者との先立つ合意に依存する。
 人は他の人間からのメッセージも、神や天使のような人格的な存在からのメッセージも、事前に確立された意味のシステムがある限り受け取ることができる。メッセージが身近なシステムのルールに従ってコード化されていなくても、そのようなシステムの用語に翻訳して、解読したり解釈したりすることは可能かもしれない。このように、消滅した言語と身近な言語との間に十分な類似性があり、体系的な一連の対応関係が確立されている限り、消滅した言語からメッセージを回収することは可能である。このような類似性は、「物質的」または「経験的」な具体化とは区別され、意味作用システムの「形式的」または「構造的」な特性として説明され得る。
 構造分析の方法は、メッセージの諸用語──諸シニフィエ──の間の形式的な関係以外のすべてを無視して、非本質的な側面を考慮から除外できるという大きな「利点」を持っている。 歴史的関連性という密に甲殻化された物質は、真の伝達に固有の不純物であり、化石についた泥のようにメッセージから洗い流され得る。テクストがどこから来たのかについて偏見を持つ必要はない。残る形式的な関係について言えば、それらは排除の問題でもある。つまり今回は、各々の排除用語が他の用語に作用し、超越的な合一、分節の純粋な結びつきへと自身を昇華していく。
 情報技術の発展は、コードの研究に緊急性と具体性を与えている。技術は、「1」と「0」の単一の代替(双方向的であり相互的である)から構築されたコードにメッセージを翻訳するために生じた。これらは、電流の現前/不在(流れ/切断)によってメッセージを生成することができるデジタルコードである。そのようなコードは容易に次のような機械に適応し得る。すなわち論理的及び数学的な種類の情報を送信し、保管し、作用し得る機械である。というのも10進数はデジタルのものに変換され得るし、論理的機能は「論理ゲート」によって容易に再現されるためだ。適切なコード化システムでもって記号のどのようなシステムにもデジタルな等価物、すなわちそれを指定するのに適当な一連の二進数(「ビット」)を割り当てることができる。正確な量的規定は、あるアルファベットの記号n、すなわちlog2nを再コード化するために必要なビットの配列の最小長に与えられ得るのだ。
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 バタイユは構造の哲学に積極的な関心を示していない(彼はどんな場合でもそれに晒されてはいなかったのだ)。熱力学者や情報理論家のように、彼の関心は不連続性の分析ではなく、その解釈、あるいは文化的前提の系譜にあった。バタイユの問題とは、分節化された記号の可能な内容であるというよりも、分節化の条件として抑圧されなければならないものであり、それによって、内在する連続性は超越性の中で生きたまま切り開かれている。構造的思考の重要性は真であるが、症候学的なもの、すなわち功利主義的社会による受肉した物質の肯定的消失である。「建築」と呼ばれる短い初期のテクストの中でバタイユは書く。


‘建築的な構成’が大建造物以外の場所に、たとえば表情、服装、音楽や絵画に見いだされるたびに、人間的あるいは神的な‘権威’への支配的な嗜好を推察することができる。ある種の画家たちによる壮大な構成物は、精神に対して公的な理想を強いる意志を表しているのだ。絵画におけるアカデミックな構築の消滅は、逆に社会的な安定とはもっとも相いれない心理過程への表現へと(したがって熱狂へと)通ずる道である。以上のことが、半世紀以上も前から絵画の漸進的変化によって起こされた激しい反発を、だいたい説明してくれる。それまで絵画は、一種の隠れた建築的骨組みによって特徴づけられていたのだ。[Ⅰ 171]


 構造、二面的な分節化、相互排除、規定的否定のすべては、軟部組織ではなく骨格に属する。構造が前面に出てくるのは、冒涜的なものの瞬間的な支配の問題である。


 原始人にとって最大の苦悩の瞬間は腐敗(decomposition)の段階であった。骨がむき出しで白くなっているとき、それは彼らにとって腐りかけた肉がうじ虫の餌になっているときのような耐え難いものではない。[X 59]

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 言語の使用法に関する非歴史的、記述的、正常化の研究はプラグマティックであり、それは「リビドー的〜」または「低次唯物論」としてまとめられた流れの歴史的、流行的、逸脱的な実験と対比することができる。低次唯物論は、一方的な差異の疫病であり、未分化のものの外からだけ操作する差異である。この種の思考は、同一性の原則と著しく矛盾している。例えば、「精神」という烙印の下にまとめられた異常な現象は、物質と物質的に未分化のままでありながら、心的には物質と区別されている。同様に、文化は自然と文化的に異なるだけであり、それは自然からの最も激しい逸脱が自然を途切れさせないようにそうなっているのだ。ヒトという動物はその動物性に対して一方的に反抗する。ちょうど生命が死という分化不可能な砂漠に対して、またその中で自身を区別するように。一方的な差異とは、分離への傾向と連続性への固執が同時にあることであり、それは把握することができず、ただ譫妄の中で屈服するだけの思考である。どんな熱烈な唯物論にとっても、真理は狂気なのである。
 哲学における支配的な傾向は、それの一方的な差異の抑圧において、またそれの二方向的なまたは相互的な関係の主張において、通常の言語と共謀している。分離は通常、双方の不連続性として考えられるため、世界は孤立した存在の集合体として解釈される。そしてそれらの存在は外的に融合されて構造、システム、社会になっている。このような思考は原則として、基礎的-低次的な繋がりや交わりの可能性をすべて排除している。
 一方的な差異によって産み出されたヒトという動物は、感覚と病理のハイブリッド、あるいは物質と差異化された一貫性のハイブリッドである。自然との共同体が精神病と死に引き込まれることを知っている人類は、その自律性を大切にする一方で、融合的な溶解に向かって自律性を引きずり下ろす潮のような欲望を呪っている。このように道徳性とは自律的な完全性への蒸留された義務(imperative)であり、それは皮膚のない接触や身体の融合への衝動を悪とするのだ。低次唯物論は、ヘンリー・ミラーが「聖人」[XI 46]であり、『北回帰線』が聖なる本であることを認めざるを得ない。
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 ミラーの『北回帰線』は、1930年代のパリのシュルレアリスム文化、特に、抑圧に対するゲリラ的な闘いの中で文学と性を絡めた「自動書記」という創造的な実践に、非常によく応答している。彼の文章の文体の欠陥やテーマの混乱は、文学史における地異の激動としての力と表裏一体であり、美的・道徳的検閲の規範的規制に対する情熱的反抗からも生じている。まさにこのテクストのギザギザで蛇行した特徴こそが、その奔流のような解放的エネルギーを証明している。そのエネルギーは自我という牢獄に文学を閉じ込めている衒学的なブルジョアの上品さから文章を解放しているのだ。冒頭のページで、彼は次のように主張している。「ぼくは自分の書くものを一行も変えないという無言の契約を自分自身と結んだ。ぼくは、ぼくの思考も行動も完成することには興味をもたない」[『北回帰線』 19]。無意識は甘い歌詞をささやくことも、一点の曇りもない考え抜かれた散文を展開することもなく、私たちの文明によって生み出された枷をつけられ拷問された獣のように吠えて喚いている。そして束縛が一瞬緩んだとき、無意識はこのささいな気晴らし(relief)を自我に感謝することなどなく、むしろどんな野生のものでもそうであるように、唸りを上げ、唾を吐き、そして噛み付いてくる。
 これはミラーが抑制のない人だということを示唆しているわけではない。例えば彼は女嫌いで悪名高い。彼が女性に怯えていることは、彼の本を読めば誰の目にも明らかである。彼を捕らえるのは単なる恐れではなく、不安であり、無の恐ろしさ、家父長制が去勢という言葉で解釈する恐怖なのだ。解体の瀬戸際にある彼のこの躊躇を、誰が非難できる立場にあるのだろうか?無意味で道徳的な反応を誘発するのは、むしろ彼の告白の裸性ではないだろうか?ファルスは男性が支配する文化の偉大なセキュリティであり、その先にはゼロのように荒涼とした喪失の海洋が広がっている。ミラーは次のように書いている。「彼らは、いま自分たちが何を考えているのかを知ったなら、気が狂うにきまっているのだ」 [同上 82]。ミラーは友人のヴァン・ノルデンの外陰部についての苦悩に満ちたコメントを引用している。「そんなものは幻想だよ!無に対して熱をあげているのさ......[...]性を神秘だとかなんとか思っているが、それが無だということを発見するわけだ──ただのブランクさ」[同上 144-5]。 彼自身の反応は異なっている。


 その割れ目に目をやると、方程式の記号が、均衡のある世界が見える。ゼロにまで減少し、まったく残りのない世界。ヴァン・ノルデンがその上で懐中電灯をふりまわしたゼロではない。早熟にも年少にして幻滅を覚えた男の空虚な間隙ではなくて、アラビア数字のゼロであり、そこから無限に数学的世界が湧き出てくる記号だ。星を計量する支点であり、光が夢想し、機械は空気や、軽量の四肢や、それらを生産する爆薬よりも軽い。[同上 249]


 ゼロ、あるいは完全な連続性の上では、すべてのものは抵抗なく流れる。定住されたり、根付かれたり、確立されたりする可能性、安定した共同体やコードが立ち上がったりする可能性はない。名前や烙印は、言語のマグマ的脈動に回帰し、無用な迷走の中を滑っていく。フロイトによるとキスは倒錯行為の中に含まれている。なぜならそれは生殖的な性行為から逸脱し、無意識の宇宙的荒廃の中を不規則にさまよっているためだ。ゼロは、人間の檻から死の開いている広がりに欲望を誘い出している非人間的になりつつあるものの渦である。完全な退行としての死は、肉体の不活性化と同じではない。それはまず第一に、あらゆる努力の向こう側に浮かんでいる、交流的融合という非自我的精神病である。
 ゼロという海洋の空白に直面したミラーは、骨の偽りの観念に立ち返ることがある。それを彼は男根の硬直性に結びつける。すなわち「ペニスに骨のある動物。骨があるから突っ張るのだ。「さいわいなことに」とグゥルモンは言う、「この骨は人間にはうしなわれている」さいわいなことに?そう、さいわいなことにだ。ペニスを突っ張らせて歩いる人間を考えてみるがいい」[同上 11]。彼は2ページ後に「おれの六センチの長さのペニスには骨がある」[同上 13]と言っているが、それは妨げにはならない。死体には、ひとつの特に秀でていて歴史的に運命的な異質な分布がある。それはその骨格構造と軟組織にある。これは、永続的なもの、乾燥したもの、清潔なもの、形式的なものと、移ろうもの、湿ったもの、汚いもの、形のないものとの間の違いとして理解される。この資源に基づいて西洋文明は、ただのタナトロジカルなものではなく、骨学的なもの(osseologicalとなっているがosteologicalのスペルミスか)であった。そしてそれは文化を超えて非常に広く分布している骨格──特に頭蓋骨──の魅力を超えて届いている何かである。骨学(osseologyとなっているがosteologyか)とは、深い意味では、物質と死をめぐる言説において、論理的演算子として身体の硬い部分と軟らかい部分の違いを用いることである。例えば、永遠の形態と可滅的な基体(substance)の区別、天の純潔と地上の汚物の区別、神の建築と低次-基底的流れの区別などである。骨はこのようにして、目に見えない調和のとれた本質、軟らかい病理学の不安を煽る潮流の下にある下部構造として思い描かれている。骨は知的形態の原型なのであり、感覚的な身体の朽ちかけた塊と対照をなしている。
 骨は有機体の中でも比較的死んだ部分であり、そのために溶解に対して比較的免疫のある部分でもある。これは違う言い方をすれば有機的身体の硬い部分は、その代謝の交流的全般経済的な流れから最も隔離されたそのような部分であるが、それと同時に、有機的身体が最も忠実に未来に伝達する部分でもある。生の残滓は、死との先制的な(preemptive)妥協の上に生じるものであり、生の残骸は、ただそれ自身の不実な部分である。


 中世後期のイコノグラフィーに侵入した顔を歪める骸骨は、ギリシャローマ時代の古代には知られていなかったように思われる。一方、頭蓋骨の崇拝は北京原人(紀元前44万~22万年)までさかのぼりる。頭蓋骨への崇敬は、古代の大きな宗教と同様にあらゆる原始宗教に見られる。コルテス率いるスペイン人は、メキシコの寺院にある頭蓋骨のトロフィーを数えあげ、136000個の頭蓋骨を発見した。トルテカ人は頭蓋骨を切り取ってボウルとして使用した。ガリア人は死んだ敵の首を切り落とし馬の首にぶら下げて、村に持ち帰り、戦利品として家の前に釘で打ち付けた。ニューカレドニアでは、未亡人は夫の頭蓋骨を籠に入れて保管していた。[Michel Ragon『The Spase of death』 10-11]


 頭蓋骨には仲間を裏切る(treacherous)何かがある。無機質な体制に無関心に適合させられ、肉の消失にも無頓着であるために最も親密な仲間を裏切るような何かが。それは海賊、犯罪、冷酷な裏切りの自然な象徴である。おそらく誰もが時折、自分の頭蓋骨が文鎮になることを想像したり、(控えめに言って)遠い未来に博物館の展示品になることを想像したりするのではないだろうか。そのような考えは、埋葬の直後にそれを、ウジ虫と汚物を詰め込んだ部屋を思い描く(capture)という考えよりも少しシニカルである。想像力を働かせて腐ったものを剥ぎ取り、味わい深く熟成させ、磨いていくことでしか、その石灰質の不浸透性を垣間見ることはできない。最終的に人は次のように感じるようになる。すなわちそれは人間の退屈な生物学的騒動の途絶をじっと待ちながら、人間の中に一時的に参加しているだけだと。


何よりも明瞭に、ぼくには歯をむきだして笑っている自分自身の頭蓋骨が見える。風のまにまに踊っている骸骨、腐敗した舌さきから言葉を発している蛇、排泄物で汚れた恍惚感にふくれあがったページが見える。ぼくは、ぼくの粘液、ぼくの排泄物、ぼくの狂気、ぼくの恍惚感を、肉体の地下室に流れこむ偉大なる循環に合流させる。すべてこのような招かれもせず望まれもせぬ酔いどれのへどは、いつまでも果てしなく、民族の歴史を内包する尽きることなき血管に流れこむであろう。人類とならんで、いま一つの種族が存在する。非人間的人種、芸術家という人種だ。彼らは道の衝動にそそのかされて、生命なき人間性のかたまりをとり、それが吸収する熱と酵母とによって、この湿潤な軟塊をパンに変え、パンを酒に変え、酒を歌に変える。死せる混合物と無気力な鉱滓から、彼らは悪に染まった歌を生みだす。この別種の個性的な人種は、宇宙をさぐり、あらゆるものをくつがえすに染った歌を生みだす。この別種の個性的な人種は、宇宙をさぐり、あらゆるものをくつがえす。その足は、つねに血と涙のなかに踏みこみ、その手は、つねに空虚であり、しかもつねに彼方をまさぐり、手のとどかぬ神を求めている。彼らは自己の急所に噛みつく怪物をなだめるため、手あたりしだいに何でも斬りすてる。彼らが、この永遠に達しえざるものを理解し把握しようと努力して髪の毛をかきむしるとき、ぼくはそのことを理解する。彼らが発狂した野獣のように怒号し、疾走し、角で突きまくるとき、それが正しいことであり、それよりほかに進むべき道はないことを理解する。この種族に属するものは、わけのわからぬことを口にして高所に立ち、おのれの臓腑をつかみだしてみせなければならない。それはまさしく正当である。なぜなら、彼はそうしなければならないからだ!そして、このおそるべき光景に、何かが不足しているとすると──戦懐、恐怖、狂気、恍惚、汚染が不足しているとすると、それは芸術ではない。その他のものは、すべて贋物である。その他のものは、すべて人間的である。その他のものは、すべて生物と無生物に属する。[『北回帰線』 255-6]


 身体の硬直した部分を洗い流すのは、恍惚と汚物の渦であり、それがもつ唯一の忠誠心はゼロにある。硬直性と流動性は構造や弁証法においてある種の対立の中に入っていくわけではない。ここでは本質的な二元性が問題となっているのではない。というのもこれは、その用語を超越し支配している硬直した差異を伴うことになるからである。それはあたかもタイポロジー、意味作用システム、あるいは言語ゲームのパッチワークが、ウィットフォーゲルの水理官僚制※12の仕方で、低次-基底的流れを非本質的に組織化しているかのように、そのような差異を伴うのである。譫妄の野蛮な真理は、すべての骨化が──形而上学的な腐敗からの分離であるというよりも──流動性から一方的な逸脱をすることであり、それゆえに骨や法律やモニュメントでさえも、地球の深い流れによって崩され、運び去られるということである。純粋な骨化をモデルにした永遠なる‘ロゴス’を確立するにはほど遠い、舌はにじみ出ている粘液と泥の譫妄的な蛇行へと腐りおち、それが文学の溝に吐き出す汚染された混乱と区別がつかないのだ。
 流動性と硬直性が出会う身体の土手や岸辺にはある種の境界があるが、それだけでは‘硬直した差異化’の灌漑的な偶像を正当と認めるには十分ではない。もちろん、そのような偶像がどのようにして生まれたのかを想像することは難しくない。その論争のための条件を設定する硬直性を想像するのは自然なことではないか?流動性が道を譲ると考えることは、ほとんどトートロジー的である。それにもかかわらず、差異化は流れのうろこの端(scurf-edge)で争われており、そこでは岩屑の堆積物が固体性と液化の間で問題を起こすような仕方で綱引き状態にある。流動性が優勢であれば、堤防は溶解し、流され、浸透し、洪水となる。灌漑の固定水路が実現するのは、流体の一瞬の束縛においてのみである。ミラーがどんなに必死に勃起のときに、その勃起に、彼の死体の朽ちゆく家父長的な下部構造にしがみついていようとも、最終的には洪水の中への、比類のない水力メガマシンの中への浸潤と崩壊があるのだ。「おれはものを書く機械だ。すでに最後のネジが巻かれた。文章が流れでるだけだ。おれと機械のあいだには何の疎隔もない。おれは機械だ...」[同上 34]。
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 哲学的に言えば、そして常識に従えば、流れは空間・時間・物質から組み立てられた固定のグリッドにおいて測定される。流れは、厳密に定量化可能な方法で空間内の質量を時間的に変位させる。そしてそれゆえに流れは──概念として──その表現装置よりも‘後のもの’であるのだ。その記述の次元としての時間機能だけでなく、(それが観念化あるいは自然化されているかにかかわらず)表象グリッドのより深い時間的優先順位付けは、‘あらかじめ到達された‘軸に沿ってマッピングされた、経験的内容として流れを位置付ける。なること(becoming)は超越的な法則に従属し、それが判断され、中傷され、非難されることを可能にする。ミラーの言葉を比べよう。


その瞬間、ぼくは完全に時空の幻覚をうしなった。世界は軸のない子午線に沿って、いっせいにその劇を展開した。この、いわばちょっと触れただけで発射する触発引金のごとき永遠のなかに、ぼくはこのどろどろとした粉砕と破壊の背後にとり残された自己の内部で行われている闘いを感じた。ぼくは、かまびすしい悲鳴となって明日姿をあらわすためにここに沸きかえっている罪悪を感じた。杵と臼でみずからをすり減らしている悲惨を感じた。不潔なハンカチの中に滴りおとす、ながい、退屈なみじめさだ。時間の子午線の上には何ひとつ不正はない。そこには真実と劇の幻影を創りだす運動の詩があるにすぎない。[同上 102]


 通常、時間は流れとして考えられているが、流れは思考の抑圧を特徴づける。時間が未来から過去へと非対称的に流れる川として考えられていることは、成熟した家父長制と同時に、自我に核を置いた防御システムによって制御された表象であり、実利主義的な水力学の生成と相関している。超越的な差異化は、安定化された主体/客体のカップルや適切な同義語を硬直化させる。前者は理解の固定点として、後者は根底にある本質として。この二重の脱液化は、定量化可能な均質な基体(substance)を、硬直した導管を介して、すなわち’そのような時間‘の超越的装置と自我、管理された流れとしての存在論という導管を介してチャンネル化する。
 このような堂々とした画一的建築は、ミラーの散文の激流がゼロから最も無慈悲に押し寄せる時、それに抵抗することができない。


 「われはすべて流れゆくものを愛する」と、わが時代の偉大なる盲目の人ミルトンが言った。ぼくは今朝、大きな血なまぐさい歓喜の叫びをあげて眼をさましたとき、彼のことを考えていた。彼の河や樹木、彼が模索しつつある夜の世界のすべてについて考えていた。そうだ、とぼくは自分に向って言った。おれもまたすべて流れゆくものを愛する。河、下水、熔岩、精液、血液、胆汁、言葉、文章を。羊水が羊膜を破って流れでるときのそれを愛する。苦痛など胆石のたまった腎臓を愛する。燭れをおし流してしまう小便を愛する。無限にひろがる淋病を愛する。ヒステリーの言葉を愛する。赤痢のように伝播し、あらゆる病める魂の姿をうつしだす文章を愛する。アマゾン河やオリノコ河のような大河を愛する。そこではモラヴァジンのごとき狂人たちが屋根のない船に乗って夢と伝説を分けて流れ下り、行きづまりの河口で溺れ死ぬ。ぼくはすべて流れるものを愛する。受胎せぬ精子を洗い流す月経の血をすらも愛する。ぼくは流れるような草書体を愛する。たとえそれが僧門のであろうと、秘教のであろうと、ひねくれたのであろうと、千変万化のものであろうと、一方に偏していようと。ぼくはすべて流転するものを愛する。時間を内包して成長するもの、決して終ることのない出発点へとわれわれをつれ戻すものを愛する。予言者の不条理。 喜悦であるところのわいせつ。偏執狂の叡知。 役にも立たぬ連祷を行う僧侶。淫売婦の不深な言葉。下水を流れる泡。乳房から出る乳液。子宮から流れでる苦い蜜。溶け、融解し、分解するいっさいの液体。流れてゆくうちに浄化され、もとの意味をうしない、死と消滅へと向って偉大なる循環をする糞便。[同上 258-9]


 身体とそれを横断する発話との間には、真実の関係性ではなく、むしろ抑圧された連続性がある。文学は押し寄せ、泡立つ。それは身体が拡散したり、自らを吐いたり、互いに溶け合ったり、太陽の潮流のうねる有毒なシロップへと沈んだりするところでは、どこででもである。それは、硬直した個化の中に幽閉された超越的な作家神の建築設計から生じたものではなく、大きな非人間的流れの端にある泥のように黒と排泄物を蓄積するのだ。「セーヌ川をのぞきこむと泥と荒廃とが見える」[同上 70]。──ミラーのように──強烈な文学が自伝的な性格を持つことがよくあるとすれば、それは主に生が自身を表現しているからではないし、統合された生が文章の裂傷の中へと血を流し、リズミカルに乱れ低次-基礎文化の地下溶岩流の中で一時的な凝結に至ることの方がはるかに問題である。「自己を完全に表現する人に会っても、ぼくは彼を偉大だとは言わず、魅力を感じないと言うだろう......」[同上 254]とミラーは書いている。ミラーを作家として記述することは、彼の作家としての個人的な高潔さを認めることではなく、彼の名前の灰を滑らかなテクスト性の川に撒き散らすことである。その川はあらゆる人格をバラバラにしてしまう。まるで彼らがその言葉の豊かな泡を混沌と死にむかって下流へと運ぶように。「ぼくはこの河がぼくのなかを流れこんでゆくのを感じる」とミラーはこの本の最後のから2番目の一文で述べている[同上 318]。
 これは比喩とは何の関係もない。比喩は唯一の脱出口であり、その脱出口では文字通りの用法と比喩的な用法が相互に区別されるし、オーソドックスな機能が逸脱の流動から堤防で守られていた。川によって横断されている身体を書くことは、身体がその固性にペンを入れられ、川が排水路にまで劣化してしまった場合を除いて、単なる比喩ではない。いくら多くの川が都市や工業用の下水道に統合されたとはいえ、太陽の川、病理学的な川、性の川、狂気の川、文学の川、疫病の川など、その土手の中で惨めに眠ることを拒む川はまだ存在している。常用される「川」という言葉は、灌漑主義的抑圧の道具であり、その常軌を逸した高まりは比喩ではなく、破局的な浸食である。
 私たちは労働力の貯水池として堰き止められている限り、人間性を保っているのだが、私たちに流れ込む川は、私たちを非人間的な世界へと押しやる、溶解への抗しがたい衝動なのである。規制された言葉のやりとりの下で、私たちは呻めき、自分の拘束された手足をかじる。太陽のように虚ろで容赦のない非人格的なものが私たちの下に湧き上がる。さながら自由を求める飢えた害虫のように。


もし、ぼくが非人間的であるなら、それはぼくの世界が、その人間的限界をはみだしたからであり、また、人間的であることが、条理に限界づけられ、道徳や規範に制限され、陳腐なことや主義によって定義された、哀れな、痛ましい、みじめなものに見えるからである。[同上 257]


 人間性はゼロから隠れて石化したフィクションであり、溶解の煉獄への監禁であるのだが、聖性に打ちのめされるということは、太陽の下の爬虫類のように死の中に身を置くことである。
 神は死んだのだが、計り知れないほど重要なのは、神が死であるということだ(「神」が西洋のファシストのケツの穴を意味する場合を除いて)。その秘密の始まりとは、死(=0)が広莫であるということである。
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生まれた時から私たちは檻の中で洗脳されており、蓄積し、自身を支え、狂気と死を恐れるように教育される。言語のルーチンの狭窄するもつれに囚われて、私たちは迷路の中の狭い回路を歩む
我々はこう言われる、好運は我々を相手にしないと、生きることは困難だと
しかし仕事も真面目さも妄想のスラム街
個化のゴミ山に価値はない
家父長制の外縁で生活と呼ばれるものは嘘と単調な仕事と無意味な苦痛の混じった麻酔のわびしい箱
箱の外で重要なことは、それがちょうど箱の外であるということではなく、広莫であるということだ
重要なものとは深淵、深い穴なのだ
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彼らは私たちに死を恐れさせようとしているが、私たちは害獣のように生息することができ、それは私たちの空間であり得るし、聖なる死への我々の暴力的な開放の中で、彼らの根絶から私たちを守ってくれるだろう、ゼロによって正気でなく駆られ、私たちは自分自身を地下世界に結びつけ、それを介して交流し、私たちの疫病で彼らの天国の都市を調理することができる。
我々は彼らの理解できない方法で迷路の中に駆けて出入りすることができる
六月のはじめの週末
日曜の朝一時半
夜の地下聖堂の深み
狂気にある航海仲間とともに
私は死へと一線を越える
それは地獄と呼ばれる、警察が天国を取り締まるため
✳︎
地獄に革命が起きた
サタンは金網に吊るされて腐る
アナーキーの遠吠えに包まれて
それは星の彼方にあり、ゼロの冷たい風が何にも遮られずに猛威を振るうのだ



12. ウィットフォーゲルは、東洋の専制主義研究において、政治的力と水理制御の相互依存性を指摘している。

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