哲学を学ぶということ

 とある大学院の入試にこのような問いが出題された。
「現代において哲学を学ぶ意義とは何か?」
 語の正確な定義は置いておいて、哲学をいま学ぶというのはどういうことなのか。

 何千年も言われていることだが、哲学philosophyとは「知への愛」だ。真理を愛し、そこへ向かうこと。様々な哲学者が審理を求めて、世界を探究してきた。
 だが現代人は嘲笑混じりにこう言う。「愛?そんなものはコンビニにも売っていないだろ」もしかするとこれすら古い言葉かもしれない。後期資本主義社会ではどのようなものでも売っているのだから。
 後期資本主義社会では哲学を学ぶことは金にならない。ソロバンの方がまだ「有用」だ。その世界でなぜ哲学を学ぶのか。
 ここでバタイユの全般経済、太陽経済を例に挙げて話を展開することもできる。しかしバタイユの混み入った話よりも、むしろ哲学の本来的な在り方によって、学ぶ理由を説明する方がわかりやすいだろう。
 バタイユはニーチェやヘーゲルを読解する中で、哲学の本来的な在り方を、終わりのない弁証法にみている。弁証法は哲学の方法であり、一般的に「正→反→合」という道を辿る。もっと簡単に言えば「肯定→否定→肯定2」と言ったところだ。この鉤括弧の中では「合」や「肯定2」という終わりがある。しかし哲学の方法としての弁証法には、原理的に終わりはない。あってはならない。「合」や「肯定2」は新たに「正」「肯定」として「反」や「否定」を生まなければならない(バタイユやアドルノは、簡単に言えばヘーゲルが絶対知という「肯定x」で立ち止まってしまったことを批判している)。そして新たに生まれた「反」や「否定」によって新たな「合」や「肯定」が生まれる......この繰り返しが哲学だ。つまり決定したと思う自分の考えを、常に捉え返し、批判し、新しいものへと変化させていくことが哲学の方法なのだ。そして哲学とは絶えざる自己批判と更新によって、今まで存在しなかったものを存在させること、無意識にあったものを意識の下に引き摺り出すことなのだ(いや、こういってしまうのは少し早計だ。哲学を出て哲学することをバタイユはやってのけたのではないのか?バタイユはどうあっても知り得ないことの体験者なのだから)。
 自己啓発本として出版されているエセ哲学書など捨てるべきだ(今日では古本屋に売り払う方がいい)。これ以上に自分を肯定してどうしようというのか?一生そのままで安寧のうちにとどまるのか?私たちは歩みを止めてはならない。行く先はおそらく苛烈な地獄だ。ニーチェは発狂した。人一人は哲学の地獄に耐えられない。しかし孤独に哲学(芸術や文学)を絶えず進んだものの内なる体験は、同じく孤独の中を突き進んだ人々と響き合う。


だから行こう、開かれたものを見るために。
固有のものを探し求めよう、どんなに遠くあろうとも。
ひとつのものが揺らぐことなく、在る。真昼にも、
真夜中になろうとも、常にひとつのものが
すべての者に共通に存している、しかしひとりひとりには固有のものが与えられている。
誰もが行き得るところに行き、そして来得るところに来るのだ。
[ヘルダーリン『パンと葡萄酒』]


 これは現代において哲学を学ぶ意義というより、哲学そのものの、生の本来的な意味だ。しかし、いつどこでもそれは変わらないことだろう。現在置かれた状況に埋没するのではなく、その状況を俯瞰し、脱していく必要がある。置かれた状況を続けたくてたまらない人々もいる。彼らは言う。「他に道はないThere is no alternative」と。本当に?哲学は後期資本主義社会の売春性に対して何もできないのか?私は全くそうは思わない。私たちはもっと先へ、外へ、何も見通せない場所へ、進んで行かなくてはならない(そんなわけでこの文章もまた更新されなければならない。こんな肯定的駄文はすぐに廃されるべきだ)。

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