書評:何度でも始めるために(幸村燕「不在の現前」)

 以下は幸村燕「不在の現前──ミシェル・ウエルベックにおけるモチーフと構造〈乗り物から神まで〉」(『REBOX3 特集:ウエルベック』メルキド出版 2022)の書評である。
 この論考はウエルベックにおける様々なモチーフを「不在」というキーワードで結びつけ、ウエルベックの小説の構造、そして人間観について論じている。ここでなされるウエルベックの巧みな読解を一節ごとに追いつつ、書評に代えよう。
 まず「社会構造と個人」では、ウエルベックの登場人物たちの幸福に到達できない要因が「見せかけの自由主義システム」であると述べられる。それが「見せかけ」であるのは、第一に自由化の背後の人間の画一化、第二に時代精神や構造からの支配があるためだ。人間は根本的には自由人として画一化されているため、ちょっとした差異を選び取ることしかできないし、自由人としての振る舞いができなければ狂人として排除される。ここにあるのは選択肢であり、自由ではない。だからウエルベックの小説の登場人物たちは「見せかけの自由」に支配され、自律的な主体性を失っている。
 これを受けて以降ではウエルベック作品の詳細な読解が始まる。「乗り物〈『闘争領域の拡大』を読む〉」では「車-列車-自転車」というモチーフを通して、「見せかけの自由」を生きる登場人物を読み取っている。車は自律的な主体を指しており、列車は構造を指している。語り手は車を小説冒頭から失っており、使うのは他律の寓意である他人の車であるし、小説中盤ではそれまで使っていた、公共であるが故に帰属感のない、逆説的な孤独を強調してくる列車を拒否する。そして彼は自転車、つまり全き孤独者としての自由を選ぶ。だがこれも愛の欠乏している精神病患者になるようなものなのだ。『闘争領域の拡大』ではこのように自律的な主体の不在が描かれていると論じられている。
 同様に「暖房、冬、植物〈『地図と領土』を読む〉〈再度、別のモチーフから〉」では「暖房、冬、植物」を通して不在が論じられる。だが先ほどの節とはずらされた仕方で、『地図と領土』は読解される。回帰という点でそれはずらされている。小説の中の時期がはじめから冬であるため、暖房は現前し、植物は不在になる。しかし最終的に植物は回帰してくる。「それは-かつて-あったça-a-été」として回帰し、(ジェドの映像作品の中で)機械を飲み込んでいく。植物(薪、自然)を飲み込む暖炉(火=技術=人間)から機械(技術=人間)を飲み込む植物(自然)というように植物の不在の幽霊的回帰が論じられる。ここでもやはり、不在が現前している。
 次に「作者について〈『地図と領土』を読む〉〈しかし、別の仕方で〉」では、『地図と領土』についての、ウエルベックの「作者」についてのさらなる読解がなされる。論者は、ウエルベック小説の特徴である共時性をもたない語り手を「喪に服す=新たな生」を与える語り手として読む。そうしてバフチンやバルトを援用しながら、『地図と領土』について、ウエルベックの小説において死んだウエルベック(「作者の死」)について論じていく。「喪に服す」のはバルト的にもバフチン的にも作者だ。一方ウエルベックの小説では作者のウエルベックは死ぬ。これはバルトのパロディであるというよりも、「作者の死」の再演であり、批評的応答なのだ。「作者の死」の提唱によって、以降不在となった作者が不在のまま現前している。この「裏返しの作者」をウエルベックは殺すのだ。このことが喪の作業の担い手=能動的読者を誕生させている。
 だが、われわれと同じ世界に生きているウエルベックは現にいる。彼なしに『地図と領土』という小説はあり得ない。この作者と語り手の関係が、『地図と領土』の中で芸術家ジェドが作る映像作品に暗示されていると論者は述べる。その関係とは「つまり、映像において植物は工業製品(=機械)を飲み込んでいるのだが、それらの作品を成り立たせているのは映像ソフトやカメラなど実に機械的なものであるというジレンマ的関係である」。こうして作者は最後まで残されたものとなる。最後まで残され、孤独となった作者は自転車を選んだ語り手だ。作者もまた愛の欠乏した精神病者となってしまう。
 最後に「神について〈作者と神〉〈神-人間-動物〉」では、作者と神の類似を前提とし、ウエルベック作品の神を探しつつ、不在を論じる。『地図と領土』では作者の不在を前提しながら芸術家は作者=神として回帰しているし、『服従』ではキリスト教の神の不在を前提しながらイスラム教の神が回帰する。また論者は、このウエルベックの作品中の「神」が「列車(=社会)」と関係づけられていると指摘する。フォイエルバッハが論じたように神が人間の自己疎外の産物であるように、社会は個人の自己疎外であるがゆえに、人間は社会によって他律的になるのだ。他にも『闘争領域の拡大』において作中作の動物小説で神について書かれておりそこに裏返しの作者がいるという指摘や、『ランサローテ島』において、自由を求めてキリスト教を離れた男が、共同体を求めて新興宗教に帰属するという不在の回帰の指摘は重要だ。神も共同体も作者も「不在が故に」を通して回帰する、と論者は最後に述べる。
 こうしてウエルベックの作品批評は一旦閉じられてもよい(愛の問題は避けられているが)。だが論者は「死すべきもの(moriturus)とモデルニテ(modernité)〈見せかけの結論〉」を始める。論者はディディ=ユベルマンやボードレールの「モデルニテの内側における古代的なものの回帰」に関する文章を引用するのだが、ウエルベックにおいてはそれが少し違った仕方で起こると述べる。つまり、作者=死すべきものの回帰として現れていると述べる。全ては死すべきものであり、「それは-かつて-あったça-a-été」として不在のイメージを伴っている。ゆえにそれは残存Nachlebenする。のちにNach生きるLebenのだ。そうして幽霊のように不在が現前する。論者によればスーパーマーケットのボードレールは、まさにこの残存を描いている。不在が回帰している。すでに死んでいる現代性(モデルニテ)の、この不在の幽霊的回帰、残存が論者のウエルベック読解の根底にあるのだ。
 末尾に抹消された状態で、これが見せかけの結論であることが述べられる。なぜ「見せかけ」なのか(同じように問う)。この最後の節以外はもともと空にあった星々であり、この最後の節によって彼が星座を結んだからだ。この節が彼自身の、彼だけの星であるからだ。だとすれば、私たちは別の星座を始めるべきであろう。抹消され、退隠してゆく他者=星を横目に、私は別の星座を描かなければならない。何度でも見せかけの結論を空に上げ、抹消し、私は始めなければならない。この孤独な絶えざる開始に、私たちは降り注ぐ星を見るだろう。

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