野村日魚子「夜はともだちビスケット?」:夜と群像劇

 夜、眠れなくなることがある。
 そもそも寝つきが人より悪いし、身体をよく動かすわけでもないから眠れないのはよくあることだ。
 なかでも目が冴えて仕方がないときは、ベッドから起き上がり上着をはおって外にでる。夜を歩きまわる。
 夜はいろいろなものとすれ違う。それは仕事を遅くに終えたサラリーマンだったり、これから出勤するかわいい女の子だったり、犬だったり、同じくただ散歩しているだけのひとだったり、たぶん幽霊とかもいるのかもしれない。
 この夜に歩いているというだけしか共通点のない、ぼくらの夜。
 昼よりもずっと自由にいろいろなことを考えていて、だけどそれらは全部忘れ去られていく。なにも考えずに、あらゆることを考えている夜。
 そこにいる全員がただ同じように存在している。夜に固有名はいらない。昼の形を剥ぎ取られたものたちが、そこで通い合う。
 野村日魚子の連作『夜はともだちビスケット?』は、この混沌としながらも透き通っている夜を丁寧に描いている。
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 この連作は「死者の章」、「生きている人間たちの章」、「夜はともだちビスケット」に分かれている。
 死は不可避に別離としてやってくるものだ。そして(少なくとも)生きているものが死後を知ることはできない。この連作における章の断絶はそのまま生と死の断絶だろう。
 しかし野村にとってこの断絶は自明ではないらしい。

<生きてると死んだの間に引く線のあまりにぐにゃぐにゃであることを話す>

 生/死の間に引かれる<線>は、このスラッシュのように真っ直ぐではなく、屈折しねじ曲がっているとのだとこの歌人は言う(あるいはこの歌人の出会った死者が)。一方が他方に越え出てゆく。生きている人間が幽霊に出会うことがあるように、死者もまた生きている人間の出会うことがある。この出会いの時間が夜なのだろう。

<誰も彼も老いも若きもそうでないかもわからない夜は長くてみなうれしい>

 夜は暗い、互いの顔が見えないほどに。今すれ違った人は、知らない人だっただろうか?ほんとうに生の側の人だっただろうか?あるいは人間だっただろうか?それは<わからない>のであるが、なぜだか<みなうれしい>のだ。死という限界=境界を越え、他者が浸透してくるような夜がうれしいのだ。
 野村が描き出すこの喜びを、私たちは知っている。
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 「生きている人間たちの章」は次の一首で始まる。

<しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな>

 <ゾンビ>はこの章を始めるにふさわしい。ゾンビは生者ではない。しかし死者でもない。このどちらでもなさが、境界に立つ存在が、章の滑らかな移行を可能にしている。
 また<ゾンビになってもきみはきみだな>という言葉は、次のようなことを示している。すなわち、<きみはきみだな>と言っているこの人こそが、ゾンビになってしまった人の実存を定めているのだということを示している。
 ふつう、ある人の実存はその人によって定められると考えられている。人は自分がどんな人になるのかは自分自身に委ねられている、と考えがちだ。しかしよくよく考えてみるとそうではないのだ。
 他者は私をつくる媒介物ではない。まして私の実存を作り上げる道具ではない。むしろ他者こそが私の実存だと言わなければならないだろう。<きみはきみだな>と言うこの人によって初めて<ゾンビ>となった人は実存する。
 もっと言ってしまえば次のようになるだろう。すなわち、私たちは「私たち」としてのみ、実存しているのだ、と。
 それはまさに、夜の交流と似ている。お互いが何者かわからない状況で、それでも通い合い、嬉しくなってしまう、あの夜に。
 だからこそ、この連作は群像劇になる。作中にはさまざまな一人称が現れる。

<また百年たてば死ぬんだおれだけが あのときこわかった 犬 なんだっけ>
<洗濯機の底でくたばるシャツぼくはゆるすおまえを絶対にゆるす>
<人間の中だとわたしがいちばんだいじマヨネーズあたらしくして帰る>

また、<あにとおとうと>や<恋人たち>、<バスを降りてきた人たち>などさまざまな関係性の人たちが描かれている。
 どの一人称の主体も、また<きみ>と言われている人も、決して同じ人ではないだろう。野村の詠んだ歌の数だけ人がいて、その人たちと関係している人たちがそれ以上の数、確かに存在している。だからこそ、この連作は群像劇なのだ。
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 いくつかこの登場人物たちの生活を見てみよう。
 さきほど引用した一首は生活の生っぽさが巧みに描かれている。

<洗濯機の底でくたばるシャツぼくはゆるすおまえを絶対にゆるす>

なにか許せないことがあった。許せないこと自体が許せないのかもしれない。そういうことはままある。許しポイントマイナス1。だから<ぼく>は<洗濯機の底でくたばるシャツ>を許す、絶対に。許しポイントプラス1。よって許しポイント0。生活するというのは、感情の帳尻を合わせることではないだろうか。
 このように、この歌人は生活のささやかな感情の機微を見逃さない。

<小指なくしてもぼくの人生にさしさわりなく小指の人生がはかない>

強面の人の小指がなかったら、それは差し障りあるのだから、この<ぼく>はどこかアンニュイな、(外見では)暴力とは無縁な人間なのだろう。<小指の人生がはかない>ことなど考えてしまうほどには、泣きそうなのかもしれない。
 次の一首は、おそらくこの連作のなかでもっとも素朴でありながら、存在感がある。

<たまに部屋ゆうれいが通るような気がしてゆうれいもコーヒー飲むのかな>

私のような小心者は、幽霊の気配などしたらすぐに塩を用意するのだが、この人物は余裕があるようだ。私の共感できない人間が確かにそこにいる。この感覚は奇妙で、おもしろい。
 また連作中の人々は小さな感情の動きだけでなく、ダイナミックな躍動を見せることもある。

<くちとくちつけてもわかり合うことはない火事の家を探して歩く>

いくら恋人たちといっても口づけひとつで何かがわかるわけではない。それでも恋人たちは完全なる合一の夢を見る。それはもしかしたら死の、心中の合一なのかもしれない。しかしそれは能動的なものではない。火事の家など歩いて行ける範囲にそうあるものではないからだ。このような少しだけ消極的なダイナミックさが、この歌人のおもしろいところである。次のような歌もそうだ。

<傘のさしかたが斜めすぎる でも確かに雨は鋭角に降る>
<死ぬまでに一度は絶滅してみたい 山盛りパフェをがつがつ食べて>
<裏庭のない家でそだって裏庭がうらやましい鳥の死骸とか埋まってるんだろうな>

 どことなくユーモラスな、それでいてメランコリックな人々の表現が魅力的だ。
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 さて、とはいえ、ただ多くの人物が登場しただけでは雑踏であって、群像劇ではない。もちろん、この群衆を貫いているモチーフがある。

<犬よ いくつもある墓碑に書かれている文字のどれ一つとして読めず震えている夜>

「死者の章」あるいはこの連作はこの一首で始まる。
 また、

<ゆるさない絶対にゆるさないぞとびしょ濡れの犬が言いやわらかい布で拭いてやる>(死者の章)
<たくさんの犬がここにはいて誰もいつか自分が死ぬのを知らない>(生きている人間の章)
<死んじゃったきみんちの犬埋めに行く真冬の星座は一つも知らない>(夜はともだちビスケット)

といったように、すべての章に<犬>が登場する。
 この<犬>たちも、先で見た人間たちと同じように一匹の犬ではないだろう。それでも私にはこの<犬>が、生と死を、あるいは夜をすべて見ている超越的な存在のように思われる。
 太古の昔から人とともに有った犬たち。さまざまな情動とともにあり、これからもあり続けるだろう犬たち。
 野村が<犬>に託しているのは、人間たちが担いきれない感情なのではないだろうか。死んでしまった人を忘れゆく人の悲しみ。許しきれないこと。死の恐怖。そのような余剰が、<犬>として人々のそばにいるのではないだろうか。
 だが、最後の歌に<犬>はいない。<犬>はどこに行ったのだろうか。
 思うに、<犬>は夜へと溶けていったのだ。私たちがあいまいな交流をしながら歩いている間に。あるいは眠っている間に。「私」ではなく「私たち」としてあることができるようになった、通い合う私たちに、余剰を担う<犬>はもうその形を必要としない。
 それでも、長年の友であった<犬>はそのまま友であり続ける。「私たち」という、この一人称複数形は人間だけを指さない。もっと広く、生きとし生けるものたちの、むしろ死者も含めた「私たち」。その「私たち」は、他人であり、肉親であり、ともだちであり、恋人たちである。
 だから、

<夜はともだちという恋人よぼくは死んだら夜になりたい>

ただ「私たち」としてそばにいる。そんなどこまでもやさしい<ともだち>が、夜のなかにはいる。「私とあなた」の「と」であるような夜がある。<ぼく>はそんな夜になりたいのだ。

       午前2時を少しすぎて、櫻井天上火


『夜はともだちビスケット?』
https://twitter.com/e8fffb/status/1407991511757705226?s=21

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