ニック・ランド『絶滅への渇き』第十章「迷宮」

「迷宮」

暗黒の宇宙で巨大な光の触手を伸ばす螺旋、つまり銀河は、「調和運動」に集まった数多の星々や恒星系で構成されている。星は、単純なものであっても、複雑なものであってもよい。太陽系が天の広大さの中で例外ではないことを受け入れれば、惑星の旋風を伴うことは可能であり、同じように、既知の惑星はしばしば衛星によって倍増される...。天体は、どんなものであれ、原子で構成されているが、少なくとも、その温度が最も高いものを考えるならば、放射性の星の原子は、星自体の内部では、他のどのような特定の構成にも属する可能性がない。それらは恒星質量とその中心運動の‘支配下に’ある。それとは全く逆に、──地殻と大気の──地表付近の原子は、この支配から解放されている。それは、質量の支配との関係で発達した独立性を持った力で組成に入ることが許されているのだ。惑星の表面全体は、少数の原子のそれぞれ結合した分子で形作られているだけでなく、もっと複雑なものである構成で形作られている。それは結晶性のものもあればコロイド状のものもあり、後者は生命、植物、動物、人間、人間社会の自律的な力に到達している。[I 516-17]
 
地球の表面は分子から形成されており、各分子は一定数の原子を結合したものである。分子はしばしばそれら自身でも結合する。それはコロイド性あるいは結晶性のグループを形成しながらのことである。このようなコロイドが生物の個体性を構成するために自身らを集める。植物でも動物でも人間でも、この仕方で世界の一般的運動から逃れて、それぞれが自分自身のために小さな世界を構成している。動物は、次々に自分たちの間で集合することができる。人間は自分自身を小さなグループにかため、小さなグループをより大きなグループにかため、そして国家にする。これらの‘構成’の頂点で、人は「自然」からの最大の距離に自分自身を見出す。[VII 188]


 ブノワ・マンデルブロは夕方、岩の多い海岸線を歩いていく。土地の端は、岩石、小石、砂利となり、砂よりももっと、逃れゆく複合性極限に向かって、小さくなっていく。海は暗黒であり、死を暗示している。
  ある事物の動きが常により大きな事物のなかでの変化であるならば、それは部分的な死に等しいものとなる。海藻、小動物、魚の卵、デトリタス、鉱物の粒子などの浮遊物が無数の河口にはびこっている。まるで近接性の新しい複雑な関係を探っているかのようだ。マンデルブロは、‘イギリスの海岸線はどのくらいの長さなのだろうか’? と疑問に思う。 ‘どれだけ私たちは近づくことができるか’?と問う。どのように絡み合って、どのように混乱しているのか?
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 身体とは質量ではなく海岸線である。分解不可能な、しかし制限され得ない透徹性であり、空間の真の分解のための契機である。人体にはいくつの開口部があるのだろうか?異質な汗の一滴からの塩基性化学物質の浸透注入は、表皮細胞の集まりに衝撃を与え、絶滅的な交配を引き起こす。
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 バタイユの『内的経験』の第三部が、交流についての引き裂かれた議論のなかで、その貪欲な終焉に向かって蛇行しているとき、それは「迷宮(あるいは存在の構成)」と題された、混乱していて亀裂を入れられている空間を開いている。というか、ある視点、ある‘スケール’から見ると、この空間は亀裂を入れられているように見える。それはあたかも統一性が単に中断されただけであるかのようにである。
 迷宮とは、存在への介入ではなく、侵襲や分解不可能なほど複合的な崩壊である。その崩壊は存在を無制限の腐食に置き換えつつのことである。迷宮とは、まさに‘特権的スケールのポジティブな不可能性’であり、すなわちそれは、スケールを越えた還元不可能な細部の回帰と、スケール間の遷移における還元不可能な多様性の回帰の両方である。複合的な異質性は、焦点のどのような洗練によっても抑制されることはなく、また、単純性、自律性、初歩性には決して近づくことはない。「存在は‘どこにもない’」[V 98]。
 迷宮は、基体の外的な述語として規定されることのできない複合性であり、基体性の仰々しさを、それを元に戻す細部の制限された後退に戻すものである。迷宮の中に織り込まれたとき、あらゆる基体性は概念化できない爆発に屈する。それは多孔性の解消されない精密さのための単なるサイファーになりながらのことである。そこには「相対的な単純さ」[V 98]だけがあり、非存在、あるいは少なくとも、存在は、その「自身の」「迷宮的構造」[V 99]によって回復不可能に放散されたものである。
 迷宮は、──漂流する複製と漂流の複製という──回帰によって構築されており、それが非-極の分裂を増殖させている。すなわち、「二つの原理──構成要素の超越的構成、構成要素の相対的自律性──が、それぞれの「存在」の実在を規制する」[V 101]。どのようなレベルや程度であっても、達成された総体性や単純性があることはないのだが、常に構成/構成要素、一体化の不溶解性の密集(compact)‘と’複合があるのだ。


やむをえないとなれば、私は、ある極限的複合性から先へ行くと、存在は反省に対して、束の間の出現以上のものを押しつけるものだと認めてもよい。だが複合性は一段また一段と高まりつつ、この以上のもののために迷宮となり、そこで存在は際限もなく道に踏み迷い、決定的におのれを見失うのである。[Ⅴ 98-9]

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 私には数学的な能力がない。数の迷信に賛成できないことがこの点で私の知性を不具にしている。それにもかかわらず、数学へのカオステーマの流入について私がほとんど理解していないことは次のことを示唆している。すなわち規律が反プラトン的な方向にシフトさせられていることを示唆しており、私はいくつかの混乱した意見をだすことになる。
 「カオスの数学」という概念は、カオスを統計的に理解可能なランダム性へと堕落させるような、グロテスクな家畜化を示唆しているように思える。このため、カオスの数学に対する私の直接的反応は、理屈抜きの疑念の一つであった。18世紀と19世紀のドイツ哲学の糸がこのトピックを私に準備してくれていたにもかかわらずである。とはいえ、数学者がプラトン主義者でなくなることを想像するのは容易ではない。また、グリックがその有名な本で要約しているように「穴が開き、あばたになり、分裂したものの、ねじれ、絡み合い、もつれたものの幾何学」[『カオス』94]の生物学的な誘惑に免疫を持ち続けることも、「怪物的なもの、形についてのあらゆる合理的な直観を軽視するもの...病的に自然界で見られるものとは異なるもの」[同上 100]として数学的な正統性によって特徴づけられたトポロジカルな探求に無関心でいることも、簡単ではないのだ。
 カオス構造をした「シェルペンスキーの」または「メンガーのスポンジ」を一瞥すれば、そのような疑惑を確認し、覆すことができる。それは均質化され、均等性で飽和し、空虚に幾何学的であるが、解決不可能で、逆説的で、‘不健康’である形状なのだ。メンガーのスポンジは、単純な操作の無限の反復から生まれたものである。立方体は27個の同一の小さな立方体に分割され、中央のブロックと直交的に隣接する6個のブロックはそれぞれ取り除かれる。結果として得られるフレームは、20個のブロックで構成され、これらのブロックはすべて最初の立方体と同じように処理され、それは反復的に繰り返される。各変形は、無限に向かって表面積を増加させ、ゼロに向かって体積を減少させる。このプロセスがどこまで行われようとも、スポンジは凝集性を保ち、表面上の任意の点から他の点への三次元の線を引くことができる。その観念的概念において、このようにメンガーのスポンジは無限に複合的な内在のモデルである。その内在とはすなわち、到達不可能な深みや絶対的な裂け目のない、どこまでも入り組んだ距離の宇宙である。表面を超えて、しかし体積を回避して、メンガーのスポンジは、2次元と3次元の間の形状、または分数的次元の形状であり、マンデルブロの言葉で言えばフラクタルである。初期リオタールのMöbean bandや、ドゥルーズやガタリの「平滑空間」のように、それは到達不可能な壁龕のないリビドー幾何学であり、超越的抑圧のない地形であるのだ。
 メンガーのスポンジは、空間において(感知不可能に)記述された不動の準固体の形象として私たちに対峙する。これは、その数学的あるいは観念的性格のうちにあるものである。メンガーのスポンジはそれが乱すことのない幾何学のなかにマッピングされている。つまり空間、時間、抽象性、無限性の概念は汚染されていないままである。この点では、それは(バタイユの意味での)「迷宮」ではなく、絶対的超越性、従属性、観念的客体性を認めている。(にもかかわらず、それはある種の明晰性の地平であるかもしれない。)カオス理論が超越論的に深化する必要があるように、超越論哲学はスケールアップする必要がある。現実的なスケールの間には常に条件/条件付けの違いがあるが、この違いは常にスカラーでしかない(決して極ではない)。メンガーのスポンジとは異なり、迷宮は超越的グリッドのなかで表現することはできない。空間と時間は迷宮の「なか」に、あるいはどこでもないところに構築されている。スケールは還元不可能な差異である。
 最終的には、体積の空虚化だけがある。そのうちで空間と時間は完全な連続性のなか、すなわちすべてのものが費やされるカオスのなかで協力している。それにもかかわらず、星の砕屑は病んだ皮膚のように空虚へ貼り付けられる。それは、スケールを横切って距離を分配することにおいて、スポンジの分岐が真の深みなしに表面を形作るために死に散りばめられているようにである。スポンジの地層を登っていくことは、位置が記述されている強度的構造に向かって、徐々にその位置を「超越」していくことである。上部構造/マクロ構造から下部構造/ミクロ構造へ。常により深い下部構造とより浅い上部構造(人は深奥へと上昇するが、深奥は浅瀬の複合化に他ならず、「一なるもの」はどこにもない)。
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 一方では、マクロ構造とミクロ構造という二つの方向づけや焦点の向きがあり、他方では、空間の二つの状態や空間、固性、空虚の性質づけがある。マクロ構造とミクロ構造の間には、類似性と非対称性の関係や差異がある。構成として、各層は他の層に類似しているが、層として、ある層は他の層によって非対称的に構成されている。マクロ構造は現実的な粗雑さや曖昧さであるが、その現実性はそれ自身以外の何かである(「それ」は曖昧になっている)。曖昧さは現実であるが、曖昧なものは現実性(ミクロ構造)である。曖昧なものは、曖昧さ以外のものではない。曖昧さ「それ自体」とは何だろうか。曖昧さは現実であり、混乱に囚われた死である。
 空虚は固性を排除するが、固性は空虚を排除しない。この相互性の不在は、焦点が充満性と空虚さに異なる結果をもたらすという事実の結果である。空虚だけが厳密に焦点化されており、それゆえに一方的に絶対的である(死は完全である)。どのようなレベルの構成においても、空虚として現れるものは空虚であるが、固性として現れるものは、非焦点化されたものの集合体を含んでいる混合物、すなわち非焦点化された固性と非焦点化された空虚である。見かけ(焦点のレベル)では、空虚と固性は互いに排除するが、現実性(焦点の任意のレベルの非焦点化されたもの、その構成のミクロ層)では、固性は空虚によって汚染されている。死は決定的であるが、生は死によって漠然と-非決定的に腐食される。固性は現実性においては空虚であるが、現実性は不可能である(そして不可避である)。
 スケールとその内容の関係はどのように解釈されるべきなのだろうか。曖昧さに対する固性の依存性は次のことを示唆しているように思われる。すなわち、双方の組みの不対称性が一列になること、また構成的上昇が固性の生成であることを示唆しているように思われる。この場合、曖昧にすることやスカラーの進行は、空虚からの変動する逸脱と等価であり、そのため、構成はもはや静的な記述としてではなく、動的な蓄積として考えられている。これは、バタイユが『呪われた部分』、『内的経験』、『ニーチェについて』など様々なところで与えている記述である。成長は、捕食の階層と構成組織の階層が融合したスカラー進行の統合的衝動と不可分である。そしてそこでは捕食のヒエラルキーと構成組織のヒエラルキーが融合している。そのような尺度は、その基本的な非対称性の兆候として、終着(terminus)をもつが起源をもたない。退行には終末(term)がない。というのも、組織のマクロ構造的窪地に流れ込むように、固性の予測を集める支流の枯渇が常に存在するからである。しかし、進行はそれ自身を海の中に向かって──不可逆に──空にする傾向がある。換言すればバタイユが主張するように、そこには‘絶頂’がある。


 さて今、社会的合成体をピラミッドになぞらえてみると、それは、中心部の、絶頂部の支配のごときものとして現れる。(この図式は粗雑なものだし、見苦しいものでさえある。)頂上は絶えず基底部を無意味へと投げ込む。そして、この意味では、笑いの波は、一段また一段と、より低い段階にある存在者たちの充足性への権利要求を異議に投入しつつ、ピラミッドを巻き降りるのだ。だが、頂上から生まれたこれらの笑いの波の第一波は、やがて逆流する、そして第二波は、ピラミッドを下から上へと巻き昇るのだ。このとき逆流は、高みにある存在者たちの充足性を異議に投入する。この反撃としての異議への投入は、最後の一瞬まで、頂上を手つかずにしておく。しかし、ついにはかならず頂上にまで及ばざるをえないのだ。実際には、数えきれないほどの存在者が、ある意味では繰り返し反響する痙攣によって扼殺されるのである。笑いに限っていえば、笑いは誰を扼殺するわけでもないが、多数者の筋肉痙攣を直視してみるとどういうことになるか? (それはただ一瞥では決して視界に収められるものではない。)すでに指摘したことだが、逆流はついには頂上にまで襲いかからずにはすまないのだ。そして、襲いかかったそのときはどうなるのだ? それは真っ暗な夜のなかでの神の死苦だ。[Ⅴ 107]


 不規則なメンガーのスポンジを想像してみよう。マンデルブロ集合に似た方法でスケールダウンし、多様化し、したがってスケール間の予測可能性がない(長引くスケール(scaling)「それ自体」を除いて)メンガーのスポンジを。いったんその差異が周期性を剥ぎ取られてしまうと、同じものに戻ることは不可能に違いない。生成のように何かが起こる。物質/空間を流れの変化する複合性へと液化する生成のように。それは差異化されたベクトルと速さを持ち、液化しても細部を再帰的に保存している生成である。動流は全表面を横切って漂い、動流の中には副動流があり、副動流のなかには...。それはスポンジ平面の解けないもつれによって生成された疑似的体積の上に浮いているように見える各々の動流によってなのだ。スポンジ空間に浮いている力は、明確な速さを持っていないが、分解のレベルに比例した距離を横断する。それはそのミクロな構成要素と一緒に、その航海を際限なく引き延ばす複合性に浸ってのことである。スポンジ空間内の任意の二つの点は、──互いに内在している間──任意の期間内の‘あらゆるスケールにおいて’横断され得ない、単純化できない距離をマッピングしている。ゼノンのパラドックスとの表面的な類似性が示唆するものとは逆に、これは議論の形式的な性格からではなく、むしろ、地形の物質的な特徴から生じるものである。
 スポンジ空間とは、解決可能な境界のポジティブな不可能性であり、したがって離散的な実体の、決定可能な行為の、問題とならないベクトルの、論理的同一性の、および適切な表象のポジティブな不可能性である。どんな種類の表象もないのだが、漂っているプレートやスケールだけがあり、それらは不確定的に渦巻き状の表面によってお互いの間に内在的に距離を置いている。スポンジ空間では、純粋な空間性は、離散的な概念としての物質と区別することができないが、どちらかに可能な唯一の現実性、つまり複合性のなかで物質と共謀する。距離は、引っ込んだ海岸線の海洋ゴミの中に増殖する。低次-基底物質の回帰的な細部に取り返しのつかないほど拡散された観念的な一義性の見通しを伴って。「あなたはそこへと到達することが可能な脱線の程度を想像することができないだろう」[Ⅱ 405]。スポンジ空間は「存在のスケール」[Ⅱ 293]、「構成のスケール」[Ⅱ 305]、あるいは「形態のスケール」[Ⅱ 293-4]であり、どちらの方向においても単純性、観念性、あるいは純粋性に傾くことはなく、決して頭部的(cephalic)、上限的(capped)、目的論的になることはなく、凹所(recession)の‘無頭’軸なのである。
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 私はあなたに、友とその溢れる心を教える。しかし、もしあなたが溢れる心に愛されたいならば、スポンジになる方法を理解しなければならない[ニーチェ II 325]。ツァラトゥストラはこう語った。
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 理性はスポンジ空間のビットへと腐っていく。なぜならその構造を提供するあらゆる極的概念がスケールする差異の抑制に依存しているためだ。形態は物質によって、抽象は具象によって、超越は内在によって、空間は時間によって荒らされている。(屈するのは観念的なもの/現実的なもの、アクチュアルなもの/ヴァーチャルなもの、無限なもの/有限なもの、単純なもの/複合的なものだけでなく、ユークリッド的なもの/フラクタルなもの、絶対的なもの/スケールするもの、一貫性/スポンジなのだ。)生は死によって荒らされている。すなわち、その喪失という不安定な現実によって末期的に浸透されている。そこにあるのは全体的(integral)同一性や変質ではなく、曖昧なスポンジ地帯だけであり、それは非決定的なコミュニケーション的潜在力(potencies)で脈動している。単に致死的病ではなく、致死性の病、すなわち伝染の迷宮、それは分解不可能な仕方で死へと編み込まれているのだ。
 カオス「幾何学」(ただしそれらは幾何学ではない)、病気、流体、戦争、害獣、欲望、すなわち還元不可能な混乱のあらゆる側面。非結晶性の、均質性の、エントロピーの、あるいは一貫したスライムの単純性を持たない混乱、いや、これは真の混乱、すなわち完全になり得ないもの、思考され得ないもの(否定によっても)だ。混乱は液体ではなく、異なった意味で液体化されたものであり、それ自体には何の意味もない固性と流動性の間の‘各レベルにおける端数的なもの’であり、二極化することのできない浸透の力である。液体の部分には速度(velocities)があり、幾何学的空間で追跡され、不動性と光速性の間で分極されているが、流体化の構成要素には速さ(speeds)、すなわち空間化(spatializions)、または生成の差速(differential rate)がある。これらは幾何学の再帰的な複合性であり、エネルギー的な規範からの逸脱として任意に投影可能なものであり、両スカラー方向において無限大なものである。速度は幾何学的に表象することができるが、速さは空間を「形づくる」。つまり、超越論的な空間は存在しないし、──「最高」であろうと「低次-基底的」であろうと── 究極なものである空間性は存在しないし、最終的なグリッドもトポロジーも地形も、絶対的な幾何学も立法地層(legislative stratum)も存在しないのだ。あるのは、そこですべてのことが起こるスケール、すなわち決して「全体を見通して配置され」得ない迷宮だけなのである。
 空間「それ自身」は深いもの、ねじれたもの──「放蕩という死の深淵」[IV 327]──であるが、それは三次元であることを示唆するものではない。その深みは、迷路のような複合化を除いて、表面から撤退することはない。(スポンジ)空間はニーチェ的永遠の深みを持っている。すなわち、回帰と非同期性によって空洞化された果てしない複雑さの深みを持っているのだ。少しも空間的な次元と同義ではなく、空間の深奥は、そこから一貫した空間の中でスケールを素描することができる幾何学的あるいは地図学的なマスターポジションが不可能であることに正に起因している。また、時間は空間との関係において外部化されることもできない。というのも両者は回帰性として、あるいは不可解なほどに拡散した侵食として共効性を持つからである。それは超越論的に空間化された客体性ではなく、スケールすることによって底知れぬほど複合する「真の意味での」空間性なのである。


私は広莫さのなかへと落ち込む
それはそれ自身の中へと落ち込む
それは私の死よりも黒い[Ⅲ 75]

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 超越と内在の差異は、体積と侵食の問題である。スケールを通じた撤退では、体積は侵食によって非対称的に荒廃させられるが、スポンジ空間は──「全体」として──決して空虚の単純性へと戻ることはない。現実の死によってもたらされる一方的な侵蝕は、限りない複合化をもって存在を腐敗させる。超越も同様に、内在の獰猛な無差異に対しては無力である。すなわち超越は、すべての遭遇を失いながら、そのたびに少しずつそこなわれていくが、プロセスにおいて決して同質な否定に解消することはない。
 バタイユの文章のなかで、この差異について最も哲学的に厳密に論じているのは、1940年代半ばから後半にかけて書かれ、最終的に1974年に出版された『宗教の理論』である。このなかでバタイユは超越について思想を最も完全に明らかにしている。超越というこの言葉は、より理論的に書かれた本のなかで、彼が‘分離の状態’を示すために一貫して用いられているものである。彼は次のように述べる。


客体は判明に区切られていない連続性を断ち切る意味をもつ。あらゆる存在するものの内在、あるいは流動に──それを超越するから──対立する意味をもつのである。それは主体に対して、そしてまだ内在のうちに沈潜している自我に対して、厳密に疎遠なものである。[Ⅶ 298]


これは、最初に自我があって、次にその超越によって自我に対して客体が分離されるということではなく、むしろ自我と客体が、中断された流れの同時的な実体化であるということを言っているのである。個別性を全く欠き、死へと自由に出血し、「分離も限界も存在しない、広莫たる内在」[VII 306]において失われた「私」とは何だろうか?
 伝統的な差異のスキーマ──論理的なもの、経験論的なもの、超越論的なもの──の三つはすべて、主体と客体の間の事前の区別を前提としている。これは最もわかりやすく言えば、近代的な意味においては、この3つがすべて歴史的に認識論的な用法(主体はどのようにして客体を知るようになるのかという問いかけ)のなかに固定されてきたからである。超越論哲学は、主体/客体の関係を歪めながらも、その根本的な方向性を維持している。そのためカントの最も有名な業績は、認識論を完成させたことである(現代科学哲学に継承され、細かいことで再調整されている方法で)。これは、16世紀から18世紀の間、主体と客体の差異が疑問の余地のないものであったことを示唆しているのではなく、逆に、デカルトからカントまでの間で動作する哲学の中心的な概念のほとんどすべてが、この差異を調査し、決定するためのいくつかの段階で役立ってきたことを示唆しているのだ。カントに至るまでの西洋哲学の歴史のなかで抑圧されたままの問題は、主体と客体の間の分節化の問題ではなく、 主体/客体の区別そのもの(知ること)、そして分節化されていない非-客体的物質性(知らないこと)との間の差異についての問題である。カントの場合、頂点において、この沈黙にはひとつの理由が与えられるが、知ることの根底にある真の差異についての問いは、‘不可能’と判断されるために提起されるにすぎない。なぜなら差異が(この時までに)完全に主体の内部性に属しているためだ。
 認識論は、主観的な表象と客観的に表象されるものとの関係を問題とする──これは問いをはらむもの(懐疑論)か問いを持たないもの(独断論)、差異(リアリズム)あるいは同一性(主観的観念論)の一つであるかもしれない──。しかし、この全体的な置き換え(permutation)の計算で回避されているのは、知ること(主体と客体の分離)と知ることではないものとの関係、つまり、未知の客体として以外の思考から逃れるものの意味、つまり、客体の表象の「背後にある」真の事物として以外の思考から逃れるものの意味である(カントのヌーメノンは、やはりこれである)。客体の真に相関関係のあるもの、つまり認識論的に決定された真の実体と、条件を科されていない未知のものとを差異化するために、バタイユは単に物質に言及しているのではなく、‘低次-基底’物質に言及しているのだ。それはつまり、認識論的枠組みとはかけ離れた客体(事物)の形態に全く依存しない物質性である。
 事物は石化した分離──物神──の例であり、それは曖昧な内在と無差異化からの差異の両方を抑圧している。なぜなら、事物の地殻の下に埋もれている内在は、超越における(強度的グラデーションの)差異の共通でありながら複合的源であるため、すなわち、生成的物質性であるためだ。その生成的物質性のうちには、超越のなかのすべての現実的なものがどこまでも深く参加しなければならず、またその生成的物質性から、あらゆる分離や独立がその力を引き出さなければならない(しかし、これはそれを逃れるアリアドネの糸を引きずることにおいてのみ、すなわち曖昧な外部性へと曲がりくねっていくことにおいてのみのことだ)。差異化とは連続性であり、そこからは硬められた、形式化された、あるいは構造化された差異のみが出発する。その虚構性のスケールにのみ出発する。超越が真実ではない──それは功利主義的な改竄や‘マヤ’のヴェールである── という確かな感覚があり、バタイユは「それが超越である限り、それは虚構である」[VII 375]と言っている。しかし、このような判断を性急に行うと、内在は、物自体の惰性のなかに取り残され、改竄の過程から独立させられ、そうして受動的リソースとして神学的規定のうちに閉じ込められたままになる。したがって重要なのは、超越のなかで現実的なものは、単に内在ではなく、(内在的であり続ける)内在との差異であることを強調することである。超越が現実であるという感覚は、超越的なリアリティの感覚ではない。それはつまり、物象化(reification)(事物の出現)が非現実性の現実性であるということだ。これは思考や他の超越的な改竄の能力に根ざしたものではなく、むしろ内在の差異化に根ざしている。すなわち、もつれた無意識の共犯性に根ざしているということである。そして自然はその共犯性を通して自らを層化するのだ。
 事物が偽り(超越的)である限り、事物は、その意味を、連続性からの強度的逸脱を実現する現実の破断からではなく、事物がそれを通して他の離散的存在と関係しているような惰性的分節化から導き出す。市場経済の価格メカニズムは、この傾向をその可能性の最高度で体系化している。それは、それ自体の結果によって煽られる物象化のオートマティズムを設けながらのことであり、それによって、この価格メカニズムは世界という織物のなかに事物の間の等価性をより複雑に挿入する。
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 物質は超越として積み上げられているが、超越と内在の関係が「ヒエラルキー的」と表現され得るのならば、それはニーチェ的な用法からこの言葉を引き剥がして、その言葉を形而上学的に(スケールすることなしに)使用することによってのみ可能となるのである。ショーペンハウアーの「客体化の等級」を発展させているニーチェのヒエラルキーが、地層、スケール、構成レベル、海に向かって開かれた溶融不可能な支流、バタイユの意味での迷宮、二つの差異のいわゆる「ヒエラルキー」、極性、弁証法など、これらの問題であるような場所は、無限化された不毛な場所である。内在的(一方的)なものであるのは、「ニーチェ的」ヒエラルキーの全体であり、一方、極性ヒエラルキーは超越を設ける。というよりも、内在と超越の差異は、絶対的な尺度を持たず、差異化の場に応じてその意味を変えている。それは均等化(commensuration)の決定的な破断として確かに超越的に解釈することができる。これは、ニーチェが絶え間なく「真の世界と見かけの世界」とあざ笑う存在論を生成しながらのことである。このような極的思考は、層的差異を、そのようなものとして優越性(=神)の概念へと実体化するのだ。
 内在の層は、互いに一方的に超越し合う──ニーチェの語彙を持続させるために互いに「克服」し合う──が、それらは「そのようなものとして」スケールすることの物質性を超越していない(そのような事物は実在しない)。精神ではなく、‘精神化’(Vergeistigung)。すなわち、その過程を通して密に物質的なのだ。それらの内在的な使用法において、超越と内在は差異化の方向性を示す。つまり相対的系列的座標、強度の段階を示す。それらは決定的な概念ではなく、強度的シークエンス上の代名詞的交通信号であり、悪化を引き起こす。概念ではな方向であり、実験ではなく接近である。
 思考がスポンジ物質に妥当であるという問題はありえないが、これは、その非妥当性の出口-問題を面白くないものにしているわけではない。妥当性は、経済の絶対的鬱的極的観念を正確に記述している。より根本的には、妥当性の思考は、下品なリアリズムの中で解釈されており、それゆえに、スポンジの回旋状の表面にはまったく盲目である。そのスポンジの表面では、内在のもつれた経路が辿られている。思考とスポンジの間には、超越の関係(認識論的表現)ではなく、入り組んだ織り目の関係がある。
 思考は、反省の哲学にとっては遠く隔たって理解することができないものである。なぜなら思考はそれ自身の表面以上のものを把握することができないためだ。思考は、観念化された限界によってよりも、一般的概念によって表象され得る。というのも、思考は現実化の特権的層も掠め取り(subtilization)の地平も持たないためだ。すべての思考、知的統合、あるいは観念の連関は、決定不可能な要約の条件の下でのみ理解される回旋のパターンである。思考することの粗悪さや失敗さえも、限界のない複合性の地形の上に展開される。だから、スポンジ物質の表面上では二点間の最短距離は直線以外の何かであるということは正確ではない。そのような距離は確定可能なものですらない。粗野さは(ゼノンとは逆に)事物が起こることを可能にするのだが、それは不完全さの条件の下にいてのみであり、その不完全さのもつ進化への潜在性は定義を逃れるのだ。
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 暫定的な差異化は、(バタイユの手探りの例である‘サイフォノフォア’のような)初歩的スポンジと、(メンガーのそれのような)還元不可能に「‘存在’が‘構成されている’」[VII 265]スケールされたスポンジとの間で明らかに可能である。また、初歩的スポンジはスケールされたスポンジであるかもしれないが、非常に不平衡な種類のスポンジである。それは特権的な分裂層を持っているし、その層は死がその意味を目まぐるしく変換する閾値である。サイフォノフォアは、細胞レベルに溶解してもまだ自身を再構成することができるが、このレベル以下の溶解においては絶滅する。同じように、ハチの巣やシロアリのコロニーは、解体されようとも取り返しのつかないダメージはないが、それらを構成している個々の虫の切断には対応していない。いやこれらの場合でさえ、物質はより複合的である。つまり、性細胞、ウイルス、栄養化合物、その他の成分が差異化された層の上を循環しており、生と死の経済を明示することはできない。高度に組織化された動物の死は、その生化学的構成の広範なスペクトルにわたって危機を引き起こすが、それは化学的組織のゼロ度への逆戻りを促すものではない。「自然状態」では、そのような生物の構成ストックは急速に略奪される。すなわちそのタンパク質と脂肪は、あらゆる種類の腐肉食動物によって新しいヒエラルキーに再分配される。文化的な生命体は、テクストや他の生命のデトリタスをアナロジー的に扱うことができるのだ。
 サドが次のように書くとき、彼の思考は迷宮へと迷い込む。


 さて、自然は、すこしの手間やほんの些細な関心もなしに作ることができる個人にどのような価値を置くことができるのだろうか?働く者は自分の労働を、作ったものに伴う労働と、それを作るのに費やした時間に応じて評価する。人間は自然に何かを支払っているのだろうか?そして、そうだと仮定した場合、人間は猿や象よりも多くのコストを自然に支払っているだろうか?もっと言えば、自然が使用する再生材料とは何か?生命を生み出す存在は何から構成されているのだろうか?彼らを形成する三つの要素は、先に他の体を破壊したことから生じたものではないのか?もし、すべての個体が永遠の生命を持っていたとしたら、自然が新しい個体を創造することは不可能ではないだろうか?自然が生き物に永遠性を否定するならば、生き物の破壊は自然の法則の一つであることになる。いまや我々は次のことを見るだろう。すなわち、自然にとって破壊は非常に有用なものであり、自然は絶対に破壊なしで済ますことはできない。また、死が自然に対して用意する破壊の貯蔵から引き出すことなしには、自然は創造を達することができない。一度このことを見てしまえば、この瞬間から、私たちが死に結びつけている絶滅の概念は現実ではなくなる。より真なる絶滅はない。我々が生きている動物の終わりと呼ぶものは、もはや真の終わりではなく、現代の哲学者の誰もが自然の基本的な法則の一つとして認めている単純な変容、物質の変換である。[サド III 514]


 迷宮、迷路、あるいは「存在の構成」[II 293]にとって決定的なのは、「個という言葉は、形態のスケールの程度のための呼称として機能することができない」[II 293-4]ということである。それぞれの要素は、スケールの差異を越えて開かれた還元不可能な組織的織物によって堕落している。「私は次のように話すことを提案するように導かれている。すなわち、集合体を形成する部分を修正しないものが連関の問題であるならば、集合体(amas)について話すことを、また、それが原子、細胞、または同じ秩序の要素の問題であるならば、「構成された存在」について話すことを、である」[II 295]。スポンジやヒトデのような単純な動物は、細胞の比較的緩い集合体に特徴づけられる一方で、──昆虫や脊椎動物のような──直線的動物は、有機的要素がそれらの統合へとより深く屈服する「より複合的な構成様式」[II 294]を見せてくる。バタイユは初期の「聖社会学」の著作の中で、コロニーと社会の差異を用いて、集合的な多元性とスケール化された多元性の違いを示している。社会とは、集合体や構成であり、それ自身よりも大きな存在論的密度を持つ個人から構成されていない。またこの特権的なスケールの不在は、死(共同体の実現不可能なゼロ)と不可分に噛み合っているのである。社会の「要素」はこのようにして、「構成のスケールではより低い程度」[Ⅱ 305]にある排除不可能な流れによってその完全性が揺さぶられているように、核の全体に向かって吸血鬼のように排出させられる。それは迷宮に「二重の側面」[II 292, 293]を与えてのことである。このような粒子(スポンジそのものよりもスポンジ状の粒子)は、それらのなす星座が迷宮の散逸的質量になることで、取り返しのつかないほどに破壊されてしまうのである。
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 全般経済とは交通システムであり、超越の軸にはびこる複合的な内在や準水平性のなかでルートを示すものである。垂直的な差異はすべて、絡み合った水平的な流れの上へと折り畳むことができる。それは低次-基底唯物論が垂直的な分節の必要性を否定しているということではない。山頂と谷、強度における差異、構成的な層などの語彙を削除する傾向はないのだ。唯物論的思考からそのような軸を排除すると、神によって見捨てられた神学的に構成された現実(粒子のコロニー)以外に何も残らない。スケールすることは、物質に内在する神のポジティブな過剰であるが、その相対的超越のグラデーションは、形而上学的にというよりは、むしろ系譜的に探求されるし、現実を使い尽くす(exhausting)非人称的な自然と見合ったものでなければならない。迷宮は神の無意識、あるいは一神教の抑圧されたものである。一般的に自我という幻想は、それが思考されないままであることを要求する。神が本当は何であったかというと、何か「存在」というものとは全く相容れないものである。真の構成とは、外的に創造された自然ではないが、これがスピノザ主義であるとすれば、それはスケールへと供儀にされている実体それ自体のひとつである。だから無神論は、結局のところ-終わりにおいて(終わりのない終わり)、莫大なスポンジ、メガスポンジであり、そのポジティブな複合性のすべてにおける境界の溶解である。それは無尽蔵の(inexhaustible)多孔性であり、否定で飽和し、群がる致死性を孕んでおり、海に酔いしれている。沈黙によって際限なく侵入されたスポンジ物質は、運命と同じものである。どのような交通システムにおいても、真の遷移は分節に先行する(つまり、境界線はなく、分岐だけが存在する)。スポンジ・ベクトルは前-実在する点を接続するのではなく、速さの掠め取りのなかから、またルートの複雑な交差のなかから分解可能なパッチを産み出す。絶対的な点は、解体されたベクトル・ネットから大袈裟に投影された超越的な蜃気楼である。空間の‘リアリティ’は流れの‘可能性’でしかない。
 「君は短い停止の一瞬だ。やがて、諸世界の複合した、甘美な、荒々しい運動が、君の死をしぶきをあげる泡とするだろう」[V 112]とバタイユは書いている。「死」という語は、速さ制限を解除する標識と同じように、参照的豊かさと概念的貧しさが混在している。この記号論的変遷が、自由な流れへの扇動ではなく、絶対的速度の表象として扱われた場合にのみ、この言葉は概念を指示することになるだろう。死ぬことは交通システムからの出発であるが、この移住は純粋な目的地によって超越論的に支配されているわけではない。動物が死へと滑り去ることは、その心臓から血液を送り出す動脈の脈動と同じくらい複雑にポジティブである。私たちは皆、架空の自殺者である。ある者はせっかちであり、またある者はそうではないが、死の寡黙さを細心の注意を払って論証しているのである。「事実上、死は内在のなかでは無であるが、無であるという事実のために、いかなる存在も死から真に分離されることはない」[VII 308]。


死は
答える
スポンジは覆われている、太陽の
夢で[Ⅴ 186]

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 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、スポンジを取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。[マタイによる福音書 ⅩⅩⅤⅡ:48]

 ひとりの人が走って行き、スポンジに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして[...]。[マルコによる福音書 ⅩⅤ:36]

人々は、このぶどう酒を含ませたスポンジをヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。 [ヨハネによる福音書 ⅩⅨ:29]

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 死ぬことは、性的拷問の過酷な炎と切り離せず、その拷問のなかで徐々に人は消費されていく。死ぬことはその完結を辛抱強く待つのではなく、脳の基底部をかじって、一人一人の生をエロティックな残骸へと粉砕する。生き延びは──エネルギー的な憤怒の激しさによってずたずたに侵食され──脆いダムのように溶解するし、そのために性的渇望は、太陽によってゴミのように砕かれた自然の縁の唸りである。
 生とは‘人が改善を欲望できない’悲鳴である。生はむしろそれを悪化させてしまう。苦悩だけが私たちを誘惑する力を持っており、また私たちが最も熱烈にしがみつくのは、最も野蛮な苦痛であるのだ。欲望によって炭にされなかった生は、耐えられないほど無味乾燥なものであることを私たちは知っている。(しかし、痛みは痛みのままである。安易に書かれた言葉である。おそらく、それに言及することはほとんど意味がない。例えば「叫び」という言葉を繰り返すことには、数え切れないほどのいかがわしい理由が考えられる。生そのものが不潔で傷ついていること...これが議論されないことを誰が気にするだろう?ニーチェが示唆しているように「誰もが、また誰一人として」?)
 エロティシズムは私たちが私たち自身を口に出さない唸り、悲鳴であると知っているということでなければ、エロティシズムは不可能であろう。私たちの公共の脱セクシュアル化ほど偽善的なものはない。すなわち、私たちが交流の代わりにしてきた悲惨な都市性ほど偽善的なものはない。「セクシュアリティは生き延びさせられ得る」と、私たちは希薄なジェスチャーをするたびに呟くが、もちろん、それはできない。私たちは、液体空間(眠りの口元に隠されていることが多い)に隠される-分泌される(secreted)まで言葉を濁し、そしてすべてが死を孕んでいることを放棄によって認める。
✳︎

 吐きたい気持ちは続いていた。言ってみれば一昨日からずっと続いていた。私は粗悪なシャンパンを探しに行った。私はそれを冷えたグラスで飲み、そして数分後、立ち上がって吐いた。嘔吐した後、私はベッドに戻った。わずかに楽になったが、吐き気が戻るまで長くはなかった。私の歯は震えてガチガチと鳴っていた。私は明らかに病気だったし、非常に悪い仕方で苦しんだ。私はある種の恐怖の眠りに落ちた。すべてのものが、鉤を外されたもの、不明瞭で、醜悪で、不定形である事物、安定することが絶対に必要であった事物となりはじめた。私の実在は腐った物質のようにバラバラになってしまった...。[III 425-6]


 「作者の死」に関連した記号論は、権威のアンチノミーの観点から定式化されている。その記号論は意図の問題を受け入れ、それを否定的に解決することに向かい、そうして読解のプロセスを評価する非規定的意味作用の理論に移っていく。より粗雑なヴァリアント(バルト)で問題となっているのは、立法の場を作家から読者へと再分配する権威の弁証法である。より複雑な説明をすればことはもっと進む。つまりラカンやデリダで、権威の位置はそれ自体が一般的テクストによって転覆されており、そのなかでは、作者と同様に読者は常にすでに巻き込まれ、凌駕されていたのである。これらのケースのすべてにおいて、死は、何かが私たちに届かない、そして決して届き得ないという必然性として考えられている。何かが私たちに到達するという超越論的不可能性は、死(去勢)を意味作用の運動のなかに構築している。またそれは、低次-基底的接触を分節化する/削除する源不在性(archeabsentiality)として構築するのである。
 何かが、バタイユの文章が挫折した表象の鏡空間へと思弁的に投げ出されるのを防ぎ得るということは考えにくいが、これはそのような動きの説得力を高めることには何もならない。固有的なものの一般的可能性、つまり死という「自身の固有性」の一般的可能性を損なうために超越論的に悪化させられ得るひとつのジェスチャーのなかで、バタイユの文章にはびこる死を‘彼の’死と考える準備ができていれば、また一方でそれにもかかわらず破滅した現前のパトスを保持しているのであれば、バタイユは確かに(かなりの技術的な細心の注意で)脱構築することができる。この手順では、どこにも死の伝染的肯定性(positivity)は触れられていない(何も触れられていないのが原則である)し、その流動性、強度、爆発的非人称性、あるいは太陽的奢侈も触れられていない。常に宙吊りにされた意味の感興であり、決して忘却の衝撃ではない(喪失は予想された明晰性からの推論として考えられ、可変的でポジティブな貪欲さとして考えられるのではない)。一方では、意味作用の究極のノスタルジアとしての死、他方では、交流の有毒な流動性としての死。
 バタイユや意味を示そうとする彼の意図が死によって妨げられているのではなく、むしろ、死が、(単に)不可能な意味作用として、あるいは意味作用の不可能性として表象されるような仕方で、文明によって妨げられているのである。「バタイユ」が多かれ少なかれ、人の経験論的あるいは超越論的な死によって問題化された、解釈学的トピックとして生じるべきであるということは、それ自体が、非人称的な死と連続したレベルで作動している、はるかに低次-基底的な抑制の症状である。言い換えれば、死は禁欲的な表象の法の原理ではなく、禁じられたものの最終項である。バタイユについて書くたびに誤解が生じるし、それは犯罪と忘却の秩序づけられた表象を助長している。ここでの脱出口-問題はパラドクスのそれであるとも言えるが、それは単なる哲学的語彙(lexicon)への従属に過ぎず、そのために蓄積された成果への決定的な諦観に過ぎない。より差し迫っているのは、バタイユのジレンマ、すなわち死の内在の上でのめくるめく横滑りの前哲学的な衝撃を伴った、吐き気と恐怖の混合物である。このときにこそ、人は、読んでも書いても、すべての言葉を、(孤立からの)逃走のためのやけくその落書きとして捉えてしまうのである。
 「作者を彼の作品によって死に追いやること」、『内的経験』におけるプルーストからの驚くべき一節を引用する前に、バタイユはそう書いている。そうした後、彼は話を再開する。


私たちが供犠を捧げる神々は、彼ら自身供犠であり、死ぬまで流される涙である。作者が苦痛に打ちひしがれて、「肉体をして分離するままにまかせよう」と言いつつ苦痛に屈服してしまわなかったとしたら、多分書かなかったはずのこの『失われた時を求めて』は「・・・・・・にまかせよう」という文章を河口として、その河口へ向かって前もって流れ込んでゆく大河でないとしたら何ものであろうか。そしてその河口がさらに開かれてゆく沖合とは死である。したがって作品は作者を墓穴へと導くものであっただけではない、それによって作者が死ぬ、その方式そのものであった。それは死のベッドで書かれた・・・・・・作者自身が私たちに対して、作者とは作品の各一行ごとに少しよけいに死ぬ者であることを見抜くように望んだのである。[Ⅴ 175]


作者がその死以外の何かであるときにのみ、文学理論はその死を外科的に切除することができ、そのとき「作者自身」とその非実在の間には交流も連続性も生じない。作者不在性の‘理論’の不可能性の条件は、バタイユのテクストの中で、文学という正確な名前を与えられている。バタイユの言説性が分析可能な記号論的システムを構成していることを容易に受け入れることができるが、ただ一つの切迫した事実に注意しなければならない。すなわち、そのような言説性は彼のテクストによって供犠にされた事物であるのだ。
 『バタイユ全集』は言説的なラベルである。固有名詞と同様に、所有格はもちろん問題だが、あらゆる要素が問題であるのだ。‘作品集’であるだけでなく、‘全集’なのだ!それはほとんどありえないと思われる。結局、これらのテクストに我々はなにを見るのだろうか?言説のレベルでさえ、それらは個別性や創造性、所有は幻想であるということ、文学は仕事-作品とは全く別のものであるということ、また完成は必然的に頓挫することを示唆しているように思われる。それらのテクストはそのギャップ、不在、不連続性を演劇化し、その信憑性を否認し、自分自身に異議を唱える。人が見出す一貫性の筏は、常に無秩序と混乱のなかを漂っている。拷問された並置(juxtaposition)、断片、放棄された計画があふれている。
 崩壊の技術は、バタイユのテクストのすべてのレベルで動作していし、それは最大の分裂の軸に沿ってそれを分配する傾向がある。その極端な例が、彼の詩の典型的な拒食症的減衰であり、そこでは、不連続な叫びの垂直系列に入るために、行はほとんどすべての意味論的、統語論的な重荷から剥ぎ取られる。行は弾力性のある脊髄のコアに向かって崩れていき、それに沿って縮んだ節は、壊れたネックレスから酔わせるような次元に落下するビーズのように、自分自身の紐を解きほぐしていく。他の技術としては、拡張された省略、段落作りの際の2つの別々のギアの使用(字下げと垂直改行の両方)、様々な種類の暴力的な物語のシフトなどがある。‘バタイユのテクストの断片化’は、主体的所有格の中には収まりきらない。死は「それ自体」が散逸し、中断し、断片化する。物語は完成を出し抜き、組織は失われ、漂流は達成と腐食的につぎはぎされる。
 誰の完成、誰の作品-仕事?バタイユの?彼の編集者の?私たちの?すでに見てきたように、この時点で介入してくるかもしれないテクストについて数え切れないほどの理論が存在し、あの手この手で私たちを説得しようとしている。これらの理論の中には、バタイユの文章によって系譜的に汚染されているものもある──しかしながらより脱線して(tangentially)そうなのではない──が、それらの理論に共通しているのは、認識論的、存在論的、あるいは倫理-政治的な登録への素因と、テクストにとって‘重要な’ものから確かな衛生的な距離を取ることである。安全性、規則性、一般化可能性、絶縁性のその他文化的形態への執着を伴う、理論に適した認識論的固定化は、バタイユの可能な‘読み方’につながるかもしれないが、‘交流’、すなわちこれらの「疫病の言葉の提供者」[III 197] による疫病的な誘惑にはつながらないかもしれない。バタイユは「面白い作家」というよりも胸糞悪い悪徳であり、彼の影響を受けることは、文化的達成というよりウイルス学的恐怖であり、知性を豊かにするというよりも、未治療の梅毒の痙攣性腐敗に近いものである。
 理論化された「作者の死」は、バタイユの不完全性が伝染性の無駄を家畜化してしまう。バタイユの不完全性は、記号論者のような無垢な不在ではなく、悲鳴のように無意味に手に負えない不潔な死なのである。私たちは、「彼の実在」のあらゆる真正な痕跡を私たちから奪い去るようなジェスチャーに、ひどく感動している。彼の消失は暴力的な合一である。‘バタイユ’のしるしの下で私たちが受け継いできた残火や汚れのなかで、好運と失敗が細心の注意を払って促進され、目的論がその頂点に達した時、何かが熟慮され、それは熟慮の可能性をすべて覆すことになる。戦略は、出来事が計画され、欲望が自由に(制御の)喪失に流れる不可解な地帯において混沌へとそれ自体広がっていく。好運への意志。灰から灰へ、混乱から混乱へ。有毒な不規則性は、文学的財産の複合性へと、「本と紙の混沌」[IV 192]へと続いていった。
 死はある種の完成であると人は考える。これは信じるには十分な慰めだが、それゆえにほとんど確実に擁護できない。ある人の廃止によって‘締めくくられ’、死によって編集されるとは、何という喜悦だろう。これは、自分が死において良きものになると思い込んでいる人、また歳をとることで死がその冷たい腕に優しく抱きかかえてくれると思い込んでいるすべての人の考えに似ている。このやさしい移行の夢は、伝統、継承、遺産、記念碑のようなものであり、伝達をモデルにして文章を構想している。それは本質的に何かを受け取ったものであるかのように考えられており、解読の完遂成功に自分自身をうまく提供しているのである(これがどんなに焦ったい問題のあるものであったとしても)。このようなモデルは、文化的商品プロセスに対する暗黙の謝罪として機能するだけでなく、文章の音のない破局を観念化することで矮小化をもする。膨大な量の文章が永遠に失われるということは、単なる経験論的出来事ではなく──ましてや現象学的-超越論的な現前の構造ではなく──文学的衝動のニヒリスティックな核に内在する結果である。その根底にある文学とは、‘無への文章’であり、本性的伴侶が貧困、不健康、精神的不安定、そして無益さという影のなかで長引く荒廃した生のあらゆる症状である、病理学的奢侈である。文明の現在の組織において、テクストに接触することの容易さは──少なくとも──その文学的強度に関しては、偶発的なものである。本来的で最低限の正直さは、文学はほとんど何もしないで過ごしているという認識を要求する。文学は、海の下の地震のように、私たちの社会的存在にとって異物なのである。
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 私たちの避けがたい消滅によって提示される絶対的なものに直面したとき、私たちは勇気を感じ、自分自身を誇りに思い、少しだけの耽溺を自身に許し、病的状態の愉悦にうっとりする。死に直面することは、‘他なるものがする’以上のことであり、私たちの呪われたような苦笑いは、ひとりよがりな笑顔になり、私たちは地衣類の苔で汚れた墓の上に愛おしそうに手を走らせる。感謝の、恩返しのジェスチャーをするのは、まるで私たちが自分の役割を果たしたかのように、死にかかっているかのようになのだ。私たちが死をそのように受け入れることで、死はどれほど感謝するだろうか。死を寛容に扱うことで私たちが有利になることは間違い無いだろう。私たちは死を次のようにさえ想像している。つまり死は、追放されたものであり、あらゆるものに拒絶されたものであり、惨めで、飢えていて、自分を受け入れてくれる恩人に尽きることのない感謝の念を抱いているとさえ想像している。このようにして、死は私たちの次元に切り取られ、‘私たちの’死となり、友人となり、少し不吉で、どこか不安になるかもしれないようなものとなるが、しかし我々自身に決定的な終わりをもたらすという、そのタスクのささやかな地平によって制限されている。私たちは墓の上に座り、そのなかの死体が死と並んで横たわっているのを想像する。それら二つは、恋人のように寄り添い合っていて、その対称性が完璧なためにお互い満足している。なんという忠実さを死は見せるのだ!その欲望はなんと単純なことか!それはなんと残酷にも拒絶されることか!この精神異常の最終段階において、私たちは、私たちの暗黒への、またネグレクトされた双子への哀れみで窒息しそうになっている自身を見いだす。
 もし死が本当に存在することを中断するだけのものだとしたら、何と穏やかで心が落ち着くことだろうか。しかし、「単なる死」としてそういうものがあるのだろうか?あるとしても、私たちはそれを知ることはないだろう。というのも死が台本を残すのは、それ自身を超えたところにおいてのみだからだ。私たちの死を非存在と混同すること以上に大きな間違いがあるだろうか?私たちがこのような独特の方程式を作るのは、私たちの実体の忠誠を信じたいからだろうか?もしそうだとすれば、私たちは自分たちの不誠実さを恥じるべきだ。事実は明白である。つまり死が物質を満足させたままにするわけではないのだ。多くの場合、死は一時的な気分転換であり、物質が爬虫類のように浴するための冷たく黒い波であり、生が痙攣的な散逸に急いで戻る前の、休眠状態の段階である。おそらく私たちは、自分の死はもっと充実したものであるべきだと、最も無情な渇きを癒すのに十分なほど重要であるべきだと、感じているのではないだろうか。まるで、私たちはまだ肉の復活を忠実に信じているかのようだ。どれほどの屈辱だろうか。死から私たちを揺り動かした後に物質が‘イライラ’したままなのは、まだ熱望しているのは、喪主が私たちを忘れてしまわないうちにミミズといちゃついているのは......なんという屈辱だろう。永劫の時を超えて、我々の大量の炭化水素は、魂の本当のハーレムを楽しんでるのだ。
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 ひとつの身体はなんど死ぬことができるのだろう?少なくとも一回は死ぬだろうが、この数字は最も初歩的な生命の場合を除いて、保守的なものである。より複合的な生物は真なる死の経済であり、それは永続する内部の破局から逃げ出しつつあり、またその細胞を破滅の海に流しつつあるのだ。死という言葉を、システム全体の崩壊のために、つまり‘死ぬことの終わり’のために使うのは、最も残酷なタイプの誤りである。 人間の体は、崩壊を避けながら、先延ばしにしがみつきながら、死を封印しつつ、自身に宿る神経症を響かせているのではない。そうではなく、人間の体は死を糧にし、荒廃のなかで商人となる。そしてそれは内側から自分をひっくり返しながらのことなのである。
 物質は、存在論の原初的妥当性から飛翔しているかのように、本質の可能性から飛翔しており、生とは、この飛翔の最も異常な、ウイルス学的なヴァリアントにすぎない。すなわち存在の放棄の痙攣的な淵である。生は死の探求であり、そのモーターは、そこから自身を決して切り離すことのできない外面性である。生は、真なる本質の反響からの逸脱において、つまりその転倒や代謝において、ある原理との共同の延長に最も近いものとなる。生は、具体的な実在からの移動として、死と交差して自分自身を汚している。混乱を経て強調された放浪する再現性の蛇行。
 「同じ粒子はない」ということを、私たちは、数年間でそれ自身から差異化した身体について議論するとき、喜んで認める。私たちは次のことを理解しようとしない。すなわち、このようにして私たちは複合的な生物が実在へのあらゆる義務を最終的に放棄することを受け入れているということを理解しようとしない。生は死の抱擁のなかへと‘発展(evolve)’する。それは単なる消滅の乱流となりながらのことであり、その増えつつある内的質量や内的冷酷さに無差異-無関心となりながらのことである。有機物(organism)の一部になることは、なくても困らないものになることであり、ますますそうなることである。生体物質が器官(organ)となることほど 自殺的な道はない。バタイユは、次のように人間について書いている。すなわち、「人間を合成している諸部分は絶え間なく死んでいる。(私たちがかつてそうあったところの諸要素はどれひとつとして、数年という歳月ののちには存続していないということになる)」[V 98]。
 私たちは未だに、私たちを待っているのは単一で断固たる死であり、魂の次元に合った死であると信じることを規定されている。しかし、身体が死の川であるならば、なにが私たちに「自己は一つではない」と確信させるのだろうか?「私たち」は本当に同一でいなければならないのだろうか?もちろん自分の実在を信じるのは最も初歩的な常識だが、しかしこのとき、神経のなかのエフェメラに愛着が薄いことを身体が認めることは、本当に都合がいいのだろうか?
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 ‘ホモ・サピエンス’という種の動物は、──軽率に判断しているのだが──「自身がやがて死ぬということを知っている」。バタイユは非常に多くの場面でそう主張している。もしそうだとすれば、なぜ彼らがそうするように行動するのかは不可解である。──近頃「差延」と呼ばれている──生の無期限の延期が、これほどまでに悲惨な状態にまで発展したところは、人類の外にはどこにもない。もし最後になるとしたら、私たちのジェスチャーのなかでどれが変わらないだろうか?ためらいのない衝動はない。備えのない冒険はない。
 存在と死の関係は、一般的に二つの方法のいずれかで理解されている。一つは、死が世界-内-存在の絶対的喪失として考えられるような実存主義的なもの、もう一つは、死によって存在することが全く損なわれておらず、単に再編成されていると考えられるような自然主義的なものである。暗黙の実存主義者(素朴な瞬間の誰もがそうである)にとっては、存在も死も、人間の総体性と一致するスケールに絶対的に属しているが、一方自然主義者にとっては、存在は基本的な要素のレベルに向かって後退し、そのレベルにおいて「死」は常に外在的なものである。ハイデガー的な死は絶対的存在論的地平であり、一方熱力学的な熱死(すべての自然的死を含む)はエネルギー保存的な無秩序にすぎない。
 バタイユにおいて事態は異なる。「存在は‘どこにもない’」[V 98]。つまり、原子のなかにも総体のなかにも、特権的なスケールも、避難場所もないのである。存在論の観点から見れば、それぞれのスケールでの構成は、‘在る’ためにあまりにもろく、あまりに部分的であるという不十分さによって苦しめられている。存在は、‘スケールがなかったのなら’、──存在によって絶滅させられるか、あるいは純潔のままにされる──死とは別のものなのである。
 スケールがなかったのならば、死は非常に崇高なほどに形而上学的なものとなる。アクィナスを例に挙げてみよう。彼が分解と絶滅を区別する差異化しているストロークほど神学への忠実さを示すジェスチャーはない。このような差異とともに、魂/身体、本質/偶有性、創造/変成など、神学的区別の全動植物相に権利が与えられている。全体としてのスケールは、神の保存という存在論的な基礎の上にまとめられ、そのなかで経験論的な死は主の従順な天使として循環している。
 アクィナスの理性は極めて明快である。
 

創造されるものは無から出てくる(ex nihilo)。さて、複合物(composita)はその構成要素[componentibus]から出てくるのであって、無から出てくるのではない。そしてそれゆえに、創造されたのはこれらのものではないのだ。[アクィナス Ⅷ 41]
 
物質(materia)は自然的生産の根底にあり、その結果、複合物(compositum)で構成される具体物ではなく、正しく言えば、創造されるものである。[同上 VIII 41]
 

ここでは、存在と無との間の単純な二項対立(bilateral disjunction)がアクィナスの思考を推進している。存在の経済は、一貫した保守的行動のなかで作動し、ゼロとの直接的な協働への自然の側でのいかなる衝動も遮断する外部の作者によって独占されている。構成的層は論理的差異化から隔離され、神の理性によって父権主義的に理解される創造という不潔なスラム街のなかでゲットー化されている。「神は、芸術作品における芸術家のように、その精神と意志を通して事物の原因である」[同上 VIII 53]。

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