ジョルジュ・バタイユと資本主義論素描

 ジョルジュ・バタイユの思想には常に「太陽」があった。最初期の著作『眼球譚』、『太陽肛門』、『松毬の眼』、『腐った太陽』から晩年の蕩尽の理論まで、太陽というテーマはバタイユの中で大きなものであった。
 そもそも哲学において、太陽のイメージは古代から用いられてきた。最も有名なのは言うまでもなくプラトンの太陽である。プラトンは洞窟の比喩のなかで太陽を善のイデア、すなわち最高の存在として記述している。
 プラトンは太陽を善として描いているが、バタイユの太陽はそうではない。バタイユの太陽は「恐ろしく醜い」(『腐った太陽』)。バタイユによれば、プラトンやそれに続く善なる太陽は観念化され、去勢され、直視されていない。というのも、本来の太陽を直視すると眼がその光に耐えられないためだ。実際プラトンも、洞窟から出た直後の人間は太陽のまぶしさに耐えることができないとしている。
 先に挙げた初期の著作群では、この太陽の直視、あるいは醜い太陽がテーマとなっている。『太陽肛門』では、太陽が表現上で少女の肛門と接続され、その権威が落とされる。『松毬の眼』では太陽を見る眼がそのまま主題となっている。『腐った太陽』では直視された太陽の恐ろしい力が描かれている。『眼球譚』においても太陽の力はでてくるが、むしろこの本の主要なテーマは眼の方にある。私たちの眼は太陽の光のおかげでものの輪郭を捉え、それを把握することができる。つまり、眼のイメージは認識や知に堅く結びついている。そのような眼を『眼球譚』では徹底的に貶める。この物語のラストで司教の眼球が抉り出されシモーヌの膣に挿入されるのだが、それはシモーヌの欲望によって、つまり恐ろしい太陽の力によってなされている。眼は夜めく肉の迷宮へと呑み込まれていく。
 しかし、バタイユは一般的に豊饒さと呼ばれるようなものを太陽が持っていることも認めている。つまり、地表の生命はかならず太陽からエネルギーを受け取り成長しているということも認めている。また成長するということは、その生を保持するのに必要なエネルギーを越えてエネルギーをもっているということでもある。この生命が利用している、地表にある過剰なエネルギーについて、限定的な経済学であれば、このエネルギーを用いてどのように生産するかが問題となる。一方バタイユの全般経済学では、このエネルギーの消費、奢侈が問題となる。人間は過剰なエネルギーを基本的には自身や社会の成長にあてる。しかし、時折大戦争という最悪の形でエネルギーの消費が起こってしまう。この原因は現代人が過剰なエネルギーの破壊を忘れて、有用性に取りつかれてしまったためにおこるとバタイユは考えている。エネルギーを無駄にして、何の役にも立たない奢侈を行うことが、『呪われた部分』において主張されていることである。
 初期の著作群では文学的に、あるいは神秘的に語られていた有用な価値観への反発は、『呪われた部分』において理論的に語られた。ニック・ランドはこの理論の基礎を人文知とは別の方向で強化するために、ボルツマンの熱力学概念を用いている。ごく簡単にいえば、人間が秩序的と考えている資本主義的なものをネゲントロピーとすると、宇宙という閉鎖系ではエントロピーが増大するのだから、かならず無秩序としての破局が起こるとランドは主張する。あるいはたとえを用いれば、エネルギーはネゲントロピー、富の貯蔵である上流から、エントロピーの増大、Tohu-Bohu、無秩序である下流に流れ、最終的には大洋へと消えてゆく定めにあるのだ。
 「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」とはジジェクの言葉であるが、ランドはこの世界が終わっても存続するかに見える資本主義の終わりを、バタイユの全般経済学のなかに見ている。バタイユはランドほど明確に資本主義に憎悪を感じてはいなかっただろう。『呪われた部分』の主題は戦争の原因究明と「ダイナミックな平和」の探求だからだ。しかし彼が民主共産主義サークルに所属していたことや、資本主義の原理である生産の連鎖、有用性を批判していたことを考えると、バタイユの理論を資本主義からの逃走線として理解することは正当だろう。
 このような資本主義に抗う理論としてバタイユを解釈すると、バタイユは神秘家や狂人、小説家などではなく、哲学者となる。というのも横田祐美子が指摘するように、バタイユは絶えざる問い直しの運動の中に身を置いているからだ。この問いへの投入をバタイユは(コジェーヴを介した)ヘーゲルとニーチェから受け取っている。一般的にバタイユはヘーゲルを批判しているように言われるが、実際のところ「知性の諸可能性をヘーゲルほど深く掘り下げた者はいない」(『内的体験』)というほどにヘーゲルを評価している。そしてヘーゲルの絶対知を非‐知としてパロディ化することで、ヘーゲル哲学に内在していたヘーゲル哲学を突き破る否定性を徹底的に推し進める。また、ニーチェ以上にニーチェ足らんとした結果、断章形式であっても文章にしてしまったことに有罪の意識を感じる彼は、どこまでも誠実だ。この誠実さはニーチェが発狂するまでもち続けた誠実さであり、自身の書いたことをすぐに抜け出していく軽さでもある。
 徹底されているために反哲学にも見えるその哲学的方法で、バタイユは常にオルタナティブを希求した。彼の時代のオルタナティブは「逆説的な哲学」や非‐知などであった。では現代のオルタナティブはなんだろうか。現代では彼の時代よりも資本主義が世界を覆っており、あらゆるものが商品となっていく。もはや後期資本主義社会において、ウエルベックが描くように愛ですら資本主義の対象である(あるいは愛は退引していく)。現代で生きることは売春することと何ら変わりないのだ。しかし『魔法使いの弟子』でバタイユは「心のむなしさがどこまでも広がる大洋のなかで、鍵のかけられた寝室はどれも小島になって、生の表情に活気を取り戻させている」と書いた。この全く脱出口のない(ように見える)世界でこそバタイユの哲学はその真価をみせるだろう。バタイユの根幹にあった友愛の感覚こそ、すなわち資本主義に回収され得ず、ただただ無尽蔵に浪費されるエネルギーによるこのバタイユの愛こそ、現代の後期資本主義社会に対するオルタナティブとなるだろう。
 
 
参考文献(二次文献のみ)
・マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳 堀之内出版 2018)
・横田祐美子『脱ぎ去りの思考』(人文書院 2020)
・樋口恭介「生きること、その不可避な売春性に抵抗すること」『すべて名もなき未来』(晶文社 2020)
・Nick Land「The curse of the sun」『THE THIRST FOR ANNIHILATION』(Routledge 1992)

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