髙鸞石「痴霊記五、六」:リアル・美・糞

 私が彼と出会ったのはまだ髙田獄舎が生存していた時のことである。私に俳句を勧めた八鍬が彼に会うと言うので同席させてもらった。ちょうど『天の川銀河発電所』が出版された時期で、ワインをガブガブ飲みながら俳句界の腐った部分を挙げていたことを覚えている。それから彼は量・質ともに申し分ない連作を発表し続けたし、逆選ありの句会を主催したりと精力的に活動していた。わたしはTwitter上での彼の苛烈な言動や彼の作品のなかにあるものが、ただの露悪主義なのか悲痛な誠実さなのかを見極めようとしていた。それらがどちらから来ているものなのか、書くまでもないだろう。そして髙田獄舎が殺されてから、彼の作品はより洗練された。獄舎のように彼もいつ殺されるかわからない。だからわたしは、出会った時よりも一層自身の内なるものを深化させ、強度のある詩を作るようになった彼について、いくつか覚書のように書き残しておこうと思う。
 さて、髙鸞石の「痴霊記五」「痴霊記六」である。私は彼の魅力を、詩を単なる写生に堕すことなく理念のもとで描くリアリズムだと思う。
 例えば

  チェロ裂けば蛞蝓がでて霧の庁舎

音楽とは究極的には生存に必要のない余剰であるし、そういう余剰を生み出せることこそ人間の真なる豊かさだ。しかしその象徴たる「チェロ」を裂いてみると「蛞蝓」どもが這いずりでてくる。向かうのは「霧の庁舎」、豊かさとは正反対のビューロクラシーが横行する陰鬱な役所である。我々が豊かさとして受け取っていたもののなかにいつのまにかお役所仕事のカビが侵入して、その内部を蝕んでいたのだ。もはやこの「チェロ」は豊かさを象徴できず、ただ豊かさの記号として官僚どもに使われている。この詩はそのような現実の重苦しさを示していると私には思われた。
 また同様に次の詩も見逃せない。

  迷路閉じても猿の自慰千年目

現代を生きる、いやそもそも生きるということはまるで「迷路」のようだ。私たちはどこかにある出口を探して彷徨い続ける。それが報われようとそうでなかろうと、彷徨うこと自体が迷路の本質である。しかし「猿」どもは、そのような状況を迷路が閉じたのだと判断して、もう出口を求めて彷徨うことをやめてしまったようだ。迷路の一画に陣取って、あたかも自分が真理を知っているかのように出口のなさを周囲に説く(他の猿たちはこの導師たる猿に迷路が閉じたことを宣告されたのかもしれない)。あるいは出口のない現実を生きることをやめ妄想の冒険へと乗り出す。別の道を見つけ新たな出口を作るという発想は捨て去られる。すべては彼ら自身の慰めのために。その手淫は千年続く甘美な怠惰であるだろう。
 また髙鸞石のなかに同居する現実への絶望と完全なものへの憧れは、次の詩に明らかだ。

  逆立ちし未来無き我が目にイコンは濡れ

現実があまりにも酷いために彼は「逆立ち」しなければならない。そして逆立ちするような人間はこの現実において未来を絶たれる。同調、協力が強いられ、軋轢を生まないことが美徳の世界で逆立ちなどすれば排除は当然だ。そのことが、彼の目に映る崇高な「イコン」がもはや現実になることはないと言う絶望を彼に伝える。彼にとってイコンの真も美も、もはや受肉することはないのだ。逆立ちしたまま彼は静かに涙を流している。
 以上の三つは私が非常に心惹かれたものである。それは自然を理念で描いているために人の心を撃つ。象徴派的と言っても良いだろう。また他にも髙鸞石の短詩には魅力がある。
 例えば

  羅漢の罅へ桃握るときその雫
  蟹の葬失禁するほどに桜
  鐵の蓮ひらく真下の摩天楼

これらの詩は非常に美しい。<羅漢の罅へ>には永遠かとも思われる一瞬が写しとられている。「時よ止まれ、お前はそれほど美しい。」というあのファウストの有名な一節を思い出さずにはいられない。<蟹の葬>における死と桜の取り合わせはありきたりだが、その表現は新しい。これが「蟹の死」であれば、また「失禁するほどに」が別の表現であれば駄作となっていただろう。しかし「葬」とすることで死の陰鬱さを強調し、そこに「失禁するほどに」という言ってしまえば下品なものを挿入する。この落差が起こす笑いと桜の美しさによって起こる笑いがちょうど重なり合う。彼のこのようなバランス感覚には脱帽である。さらに言えば、いま私はこの桜を「美しい」と形容したが、彼は「失禁するほどに」としか言っていない。この形容の不在がよりいっそう「葬」と響き合い、生まの桜の美しさ、空虚さを思わせる。非常に洗練された詩である。<鐵の蓮>は偶然にも俳句と全く同じ575の定型であり、俳句的な美しさを持っている。「鐵の蓮」から下方へと伸びる「摩天楼」は硬質な彼の作風を象徴しているかのようだ。
 ここまで私は彼の詩のもつリアリズムと美しさを取り立てて書いた。しかしほかにも彼の詩のなかには論ずべきテーマが多く残っている。例えば次のような詩だ。

  玉虫頬張り闘牛士首吊る油の中
  崩れる軍艦湿地の天秤憎むたび
  湖水を蛾金雀枝をその砦とし
  朝の川岸鮭曲がり死に曲がり死に
  青いうみうし捕らえ豪雨の磯となり

どれも明確に情景が思い浮かぶ作品である。ただこれら(というか彼の作品の全てに通底している)のテーマである「憎悪」や「軍」、「神話」はより慎重に扱わなければならない。そのためいまの私にはこれらを完全に述べることはできない。差し当たり彼のなかにはギリシャや日本の多神教的なものがあるとだけ述べておくことにしよう。竹岡一郎や田中泥炭の髙田獄舎・髙鸞石評を読まれると良いかもしれない。
 そういえば、彼の作品にはシモの語彙が頻出する。今回だけでも「糞」や「失禁」、「便座」とシモの表現が多く見られた。思うに、糞とは音楽である。どちらも有用性至上主義の社会によって役立たずと烙印を押され、そこから追い出されるものだ。しかしどちらも温かく弾力のある生き生きとしたものでもである。髙鸞石の詩は表現こそ硬派であるが、その実内包しているのはこの糞や音楽である。陰鬱で動きのない無機質な世界を咀嚼し、生命力ある詩として排泄する髙鸞石。つまり、髙鸞石の作品自体が糞なのだ。「痴霊記五」「痴霊記六」がクリスマスに発表された意味を考えてみてほしい。彼は、冬の寒さで無機質になりつつある我々に、温もりがあり生命を感じさせる有機的な糞をプレゼントしたのだ。まさに「黄金の贈与」である。これほどのことができる詩人はそういないだろう。ぜひとも髙鸞石には亡き髙田獄舎とともに人類に糞を贈り続けていただきたい。


 この文章も糞であることを願って、櫻井天上火

リンク:痴霊記五、六
http://evilspiritlab.livedoor.blog/archives/8237881.html

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