ニック・ランド『絶滅への渇き』第十一章「終結なき交流」

「終結なき交流」

 ときおり、私はすっかり衰え、書きつづける力もなくなる。嘘をつく力は?それも言っておかねばならない。私は連ねる言葉は嘘っぱちだ。牢屋で私は壁に書きつけたりはしないだろう。出口をさがして爪を剥がすにちがいない。
 書きつづけるか?爪を剥がし、解放の時を、空しく、待ちわびるか?
 私が書く動機はBに到達することだ。
 いちばん絶望的なこと(Le plus désespérant)。彼女の暮らしの迷宮のなかで彼女にたいする私の愛というアリアドネの糸をBがついに見失ってしまったこと。[III 113-4(二見書房『不可能なもの』生田耕作訳p.39-40)]


 バタイユの文章では、フィクション的なものと文学的なものは理論的なものと平行して進んではいない。もし関係がまったく理論化されるのであれば、理論の不真実をドラマ化していると考えた方がいいかもしれない。アクチュアルなものが可能性を制約するのと同じように(しかし、重要なのは‘不可能なもの’である)、文章のレベルでは、理論は制約されたフィクションの種であると言えるかもしれない。こうして、「ポストモダン」と表現されるようになった方法において、認識論的な要因がテクストの生成性の二次的なものであることを認めることになるだろう。バタイユの用語においてさえも、フロイトの語彙がそれに適しているかどうかは別として、物語が現実原理によって厳密に規律されているときにのみ、理論化が結果として生じる一方で、第一プロセスの枷のない運動は自然発生的に文学的な性格を持つ運動であることを説得力をもって示唆することができる。文学は、愛や死ぬことがそうであるのと同じように、本源的には努力の問題ではない。一方、理論とは仕事である。
 例えば、『呪われた部分』の冒頭で、バタイユは自分の仕事の理論的衝動からあらゆる尊厳を明確に排している。彼は、「私も研究は、当初、人間の知的資源全体の‘増大’をめざしていたのだが、その成果が私に教えてくれたのは、そうして得られた知の蓄積は、せいぜい、不可避な支払い(échéance)の期日を前にしての支払い猶予にすぎない、わずかな後ずさりにすぎないということだった。蓄積された富の価値がこの富の蕩尽の一瞬のなかにだけ生じる、そういう期日を前にしての支払い猶予にすぎない、後ずさりにすぎないということなのである。」[VII 20(『呪われた部分』酒井健訳p.14)]と述べている。──結局のところ──誰かの死に着手することを遅らせる理由はないのである。たとえそのような後ずさりが理由そのものだとしても。このように述べることで、言説は自らを砂のなかに沈め、常に外から来たるあらゆる理論の終わりを予期している。理論がフィクションとしてしか実在せず、太陽の遠吠えからの一方的な逸脱であるからこそ、それは継続する。すなわち自らを終わらせることさえできないのだ。「誰も待望していない本、これまではっきり表明されたどの経済学の問題にも答えていない本、もしも著者がそうした既存の経済学の講義を忠実に聴講していたならば書くことはなかったであろうような本。結局のところ、私が今日、読者に提供するのはこんな奇妙な(bizarrerie)本なのである」[VII 21(同上p.15)]。
 生産と、誤解を招く言い方で呼ばれている結合解除のプロセスは、消尽の一般的分野のなかで行われるし、その一例である。それは予備的喪失によって口火を切られるという事実のために、生産は常に(過剰な)補給(repleinishment)であり、単純な豊かさ(plenitude)の発生ではない。生産の不履行は、慣性の安全性に向かってではなく、侵食的な放蕩の基底に向かって落ち込んでいく。溶岩と地震に根ざした生産プロセスは、逃れられない変動性の危険にさらされることになる。
 『宇宙に見合った経済(L'économie à la mesure de l'univers)』の最初の段落は、「私が今、書くことに費やしているエネルギーは......」[VII 9]という終結のなさへ溶けてゆく言葉で終わっている。バタイユの(あるいは他の)テクストにもたらされる置換、充当、抽出の操作がどのようなものであっても、‘喪失はすでに起こっている’。成長が危険と隣り合わせの状態で未来に向かって投げ出され、推測され、投影的に発展する一方で、死はひとつの事実である。このテクストは、無駄なものの完結のなかで始められている。
 書くことは、宇宙の亜存在論的(sub-ontological)譫妄を共有しており、原初的には消尽である。しかし、それはまた、生産と理性、すなわち第一と第二の有用性という上位の地上的層によって大幅に支配されている。バタイユは、有用性の秩序に適合する限りにおいて、文章を‘言説’と名付ける。文章が有用性を裏切り、腐食し、液体化するとき──つまり低次-基底物質の燃え盛る溶岩流に退行するとき──、彼はそれを‘文学’と名付ける。「文学は本質的なものであるか、そうでなければ、なにものでもないものである」[IX 171(『文学と悪』山本功訳p.14)]とバタイユは『文学と悪』の序文で書いている。文学が意味の終着点でなければ、言葉の終わりの暗礁でなければ、それは単なる言説の装飾にすぎない。文学的言語のラディカルな無用さは、(現在の批評的議論を支配しているような)認識論的、イデオロギー的、道徳的な護教論によって弁解されるべきものではなく、「文学とは‘交流’である」[IX 171]という理由から、崩壊の点へと悪化させられる。生贄ではない文学的運命は味気ない。フィクションは存在の裏切りであるが、現実の秩序によって包囲されていないものである。「最悪なことは、曖昧な運命性によって、それぞれの事物が極限まで引き上げられる地点において、同時に自分が生から解放されるのを感じることだった」[III 282]。存在(保存)は有用性の本質であり、理性の最高原理である。反対に、フィクションは喪失である。文学に価値があるとすれば、それは土着経済のポトラッチから生まれるような‘威光’として、すなわち‘恐怖’と同じものである‘栄光’としてのみ解釈され得る。実在への忠誠を失ったフィクションは、地球上の有毒で呪われたもののなかに属するのだ。


 書くことという犯罪を贖う唯一の手段は、書かれたものを絶滅させることである。しかし、それは作者以外にはできない。すなわちそれは本質的な無垢さをそのままにした破壊であり、それにもかかわらず、私は否定を肯定にしっかりと結びつけることができる。私の筆が進むにつれて、否定は抹消される(efface à mesure ce qu'elle avança)。したがって、一言で言えば、私の筆は、一般的に「時間」の一般的な作用と同様な働きをする──つまり、その増殖した構築物のなかで、死の痕跡だけを存続させるのだ。私は、文学の秘密がここにあるということを、そして破滅という無差異-非情さによって巧みに装飾されているとき以外、本は美しくないということを信じている。[III 336(二見書房『C神父』若林真訳一部改訳p.193)


 フィクションは世界の絶滅を手ほどきするが、それは最初は孤立したものである。このような文章-書くことは、それ自体が暗闇のなかで芽をだした闇であり、通常はそれを消滅させる暗闇のなかで菌類的に出現する。事物の安全性を軽視することにおいて、文学は聖なる性格によって汚されるし、また文学は冒涜のなかで提供される接触よりも深い接触の可能性を超えたものではない。それにもかかわらず、冒涜的な世界の包み込むような空間は、存在の全重量をもって文学を圧迫し、内部性の亡霊のなかに幽閉する。このようにして、文学の「内在的な」密度は、ある宛先(address)という運命に縛られる。文学は、発話とその普及という共通の苦境を超えて、つまり合一の運命性を超えて分析され得ない。
 理論の側からは、認識論的崩壊としての文学の解釈があり、文学の側からは、監禁としての仕事についての物語がある。これは、バタイユのフィクションが労働者主義的なイデオロギー批判を含んでいるということではなく、ましてや社会的リアリズムを含んでいるということでもない。この種の真摯な姿勢は、生産倫理に最もおぞましい形で服従することになり、肝心な点を見逃してしまう。それはつまり、バタイユは作家として完全に失敗しており、失敗が彼の作品のなかに表れる方法によって思弁的に挽回されるものではないということは事実なのである。比類ないほのめかしの多さによって推進されている彼の文章が力強く交流しているということは、単に無用さの有毒性を証明しているのであって、否定的なものの地下的生産性を証明しているわけではない。むしろ、彼の登場人物たちは物語性の解消に自らを落とし込む。そしてそれは、偶発的に実現されない美的願望としての物語性の回復に先んじてのことなのだ。バタイユのフィクションは、単にわかりやすい脱線に屈するのではなく、自分自身のなかで(理解できないほど)自分を喪失している。「私は自分が沈黙に追いやられることを想像した、言葉と同じくらい偉大な、計り知れない苦痛のなかで......」[III 166]。文学を通した救済はない。むしろ恐怖と喜びが深まるだけである。そしてそれらは、迷宮のはっきりと見えない迷路めいたところで交差するのだ......。
 『眼球譚』とバタイユの後年の小説との間、あるいは小説と詩との間にどのような差異があるにせよ──そしてそれらは広莫である──、彼の文学的文章には一貫したトーンが、暗黒が、「夜への存在の崩壊」[IV 23]がある。夜のシーンが異常に多いだけでなく、その効果は、素直には認められないもの、非神聖なもの、アルコールによる忘却というテーマが織り交ぜられていることによって、さらに混ぜ合わされている。枯れた蔓や根がコウモリでいっぱいの岩の裂け目に流れ込むときに絡み合うように、低次のセクシャリティ、病、宗教、酩酊がこれらのテクストのなかでお互いに絡み合っている。譫妄的破砕は、支配的なテーマの流れを物語的不連続性にまで押しやる。それは、文学的達成への願望を粉々にし、その残骸を、自分自身を完成させることができない登場人物たちの燃えカスのなかに崩壊させながらのことである。物語の内容と書くことのプロセスの間には、何かを不毛にするような不安感が漂っている。スケッチ、断章、断裂、自殺者、酔っぱらい、不可能な欲望、地獄に堕とされたいという燃えるような渇き......これは惨めな芸術の、ニヒルな愛の、勝ち誇る死の世界であり、全体的に醜悪な魅力に貫かれている。バタイユは『眼球譚』のなかで書く。「深遠なセクシャリティに結びついたすべてのもの、たとえば流血、緊迫、突然の恐怖、犯罪、つまり人間の至福と品位をとことん破壊するすべてのもの」[I 15]。
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人が生の利害関係のない要素を決定しようとするとき‘愛’という名で修飾するものは、すべてのものが無差異に個化可能であるような事物の通常の経路の外に客体が見つかるとすぐに動き出す、衝動の集合体の断片的な表象にほかならない。愛は、──普通に考えればそれらの集合体の意識的な部分にほかならず──客体の識別(知識)に自らを対立させる。つまり、その客体は必然的に異質な性格(まばゆい太陽、排泄物、金、聖なるものの性格に似ている)を帯びることになるのである。[II 141]


 文学は、破局的な病であるという点で、愛に似ている。文学が低次-基底的な生理学の資源を貪欲に利用する方法は愛に似ており、それが飢え、不眠、不安感、奇妙な熱と同盟する方法も同様に愛に似ている。そしてそれは生を脱線させるし、最も方法論的な企図を元に戻す。愛は、内部性をこじ開けることで、最も安全な実在のなかにおぞましいものと貧民街の味を導入する。これは、愛が最終的には哀れな生贄たちを床に下ろし、そこから生贄たちが、恍惚と絶望の混じった硫黄のような息苦しいもので窒息しながら、‘言葉を返す余地もなく’嘆願の淵に投げ込まれるまでのことである。低落と燃え盛る無用さを兼ねていないような偉大な文学は存在しない。文学が恒久的に拷問されたエロティックなどもりであるのは偶然ではない。その美的な勢いは、「美だけが...愛の根である無秩序、暴力、侮辱の必要性を許容できるようにする」[III 13]という事実から流れている。
 確実にバタイユほど、エロティックな愛の暗く奢侈な領域を無謀にも探索した「哲学者」もいかなる作家もいないだろう。『エロティシズム』、『エロティシズムの歴史』、『エロスの涙』などはすべて「理論的作品」であるから、彼の小説や詩がエロティシズムで飽和しているだけではなく、この「テーマ」がある種の非文学的なテクストに外接的な仕方で拡張されているのである。──セクシャリティと死の融合としての──エロティシズムがバタイユの全作品の要石であると言うのは、エロティシズムが自己、完成、達成とは相容れないものであることを除けば、である。エロティシズムは確かに、バタイユの文章のなかでも最ももつれた空包化のなかへと自らを交流させる。それは異質な用語をウイルスのような星座に混合させながら、またすべてを混乱させながらのことであるのだが、しかしこのとき「「交流」とは愛であり、愛はそれが結合したものたちを汚す」[VI 43]のである。
 すべての生産と分節化した言葉、すべての栄養の一片、すべての睡眠の一秒は、愛に対する残虐行為であり、絶望への挑発である。エロティックな情熱は、健康のためにはもちろんのこと、最低限の生存のためにも許容されない。愛が究極の病気であり、犯罪であるのはこのためである。人間という種の繁栄にとって、これほど相容れないものはない。「私は悪の恐怖だけを探している」[IV 219]と、バタイユは完全に揃った存在を暴力的に拒否することに固執して書いてる。「悪とは愛である」[III 37]、「人が生きられないような秩序を否定する必要性」[III 37]。地上的な問題あるものがは最も激烈な地点で、エロティシズムのなかに無用な堕落を見出すので、愛への降下は根源的な経済でもあり、それはおそらく悲劇か、あるいはジョーク(いずれにしても、真に‘醜悪で‘聖なるもの)であるのだ。
 愛の根源が厄災への渇きであることは、その常軌を逸した経過を通して示されている。最も初歩的な愛は、残酷なほどに報われないことへの願望によって駆られ、あらゆる種類の人を遠ざけるような自己卑下、不器用さ、愚かさを助長する。時には、愛が明らかに適切な軽蔑を引き起こし、苦しめられている人はそのときに、それぞれのジェスチャーがもたらす完全に燃えるような喪失に耽ることができる。人は浪費する。健康と財力を昏睡というオルギーへと消尽し、誰かの労働力を貧困に至るまでに破壊し、誰かのすべての思考を消費的な無差異の淵に注ぎ込みながら。このような軌道の最後には、最終的な健康の破壊、破滅的な貧困、狂気、そして自殺がある。このような爆破的な遍歴を歩まない愛は、常に基本的なレベルで’失望させられる‘。「この点まで愛するということは病気になることだ(そして私は病気になることを愛している)」[III 105]。とはいえ、愛の病的な恐怖が最愛の人に感染したり、自分自身が他の人の情熱に感染したり、愛の二つの系統が衝突したりして、両者の螺旋は一緒になって奇妙に吊り下げられた崩壊の渦を描き、無実の厄災を奪い取ることができる場合がある。それぞれが相手に破壊されようと競い合う。あらゆる拠り所を断ち切ることで得られる希望なき恍惚のなかに漂いながら、狂気的な脆弱さで相手を超えようとしながら。焦燥感に駆られると、もちろんこれも自殺につながるのだが、そのような結果になることはまずない。そのような結果にとって適切な口実は欠如している。というのも、傷つく能力は世界から溶けてしまい、柔らかくなって、──ほとんど気づかれないような──背景になってしまい、一方で、愛する人は、功利主義的な精神には考えられないほどそのような能力を与えられていて、それを完全に無効にしようと努力しているからである。こうして、恋人たちは情熱の致命的な運命からお互いを守ろうと共謀する。そして、これに成功して相互の愛情という哀れな正気に戻るか、あるいは熱を新たな強度のつぎはぎとしてまとめあげるかのどちらかである。後者の場合、すべての読みやすい図は欠落しており、もし現実が完全な探求の断片をもつとすれば、果たせるかな...。
 ...病気というのは私にも理解できるものだ。私の死体は、毎日アレルギーの陶酔に震える。その陶酔は自身を地球の表面で引き回す。天候は私を苦しめ、関節は炎症を起こして強直し、肺はもはや抵抗できないほどズタズタに焼かれ、皮膚は緑がかった青白い色になり、眼窩は穢れという黒い汚物の穴に引き込まれる。私の神経系について言えば──傷つき、4分の3が失われており──、それが私の真の病理学的な展示品であるのだ。どんな運動も崩壊寸前まで拷問された動物の痙攣とは思えず、どんな考えも天罰の経験ではない。恍惚と苦悩の間には、もはや節度という隔たりはなく、他化(alteration)すらないのだ。私は荒廃した生命力のつばの上でのたうちまわり、下降のたびに飢えて笑うのだ...。


 私は健康の終わりへと、おそらく理由のない生の終わりへと至るという希望を持っている。[III 414]

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 唯一の誠実な言葉とは?唯一誠実さをともなった言葉とは?そんなものはない。あるのは沈黙と痛みだけだ(それでもまだ腐敗はある)。
  エロティシズムについて語ることは、偽りで串刺しにされることであり、人工的な情熱かパロディ的な言説のどちらかに沈むことである。言葉の各々が逆に偽のオーガズムであり、擬似的明快さであり、喉に閉じ込められた遠吠えであることを(仮にそうだとしても)あなたに説得しようとする意味があるだろうか?愛を語らせようとする努力は、死ななくてもいいという哀れな妄想を助長するだけだ。それは、あたかも個的実在が存在の陳腐さを超えて大きいものであるかのように妄想することと同じである。
 私は歩き回る──もちろんフィクションだ──、不可能なものに執拗に突き動かされて。欲しくもない酒を飲みながら、数え切れないほどの言い逃れに誘惑されながら。それらに抵抗する理由はなく、単純に理性もない。しかし、しばらくの間、私は抵抗するし、少なくともそれらは抵抗されるのだ。私が自分の書いたすべての言葉に感じる嫌悪感は、ほとんど私を窒息させる。体調が悪いのかどうかもわからない。漠然とした吐き気はほとんどおぼろげだが、それは奇妙な喜びでもあるのだ。
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 バタイユによれば、エロティシズムとは「人間と動物を対立させる」「極限的な感情」[X 584]である。動物は死や法を知らず──「動物にとっては何も禁止されていない」[IX 33]──、「その器官の盲目的な本能」[X 593]によってセクシャリティ-性欲へと駆り立てられるのである。対照的に、人間は唯一の病的な動物であり、将来的な消滅に悩まされ、禁止のなかに閉じ込められており、それは「快楽の計算」[X 593]によってその欲動を取り次いでのことなのだ。「人間は悪への渇きを持っている」[III 42]。
 バタイユが取り憑かれていることは、
「死、あるいは死の意識とエロティシズムの一体性」[X 585]であり、それは「死とエロティシズム」の「本質的で逆説的な一致」[X 597]、また「生とその暴力的な破壊との間の親密な調和」[II 247]とも表現されている。この結合は、サドの文章や精神分析の軌跡、そしておそらく最も顕著なのは、フランス語でオーガズムを小さな死と表現することにおいて、断片的に証明されている。「官能は破滅的な荒廃に近いので、その発作の瞬間を「小さな死」と呼ぶ」[X 170]、これは「「小さな死」と決定的なものである死の同一性」[X 577]についての疑問につながっている。これは同一性と差異の問題であり、一方的な差異、あるいはスケールの問題である。オーガズムは暫定的に死の代わりとなり、終末的な忘却への衝動を防いでいるが、それは死を生命力の静かなる核に浸透させることによってのみである。「確かに、功利主義的な理性の限界内で言えば、私たちはセクシャルの無秩序には実践的な意味と必要性があると認めている。しかし、その末期に「小さな死」という名を与えた人々が、その陰鬱な意味を認めたことは間違っていたのだろうか」[X 586]。小さな死は、大きな死の──真の処女的な非存在の──単なるシミュラクルや昇華なのではなく、生と死の双方向的な構築をぼろぼろにしてしまう腐敗であり、闇の無垢な他性を侵害する交流と横滑りである。エロティシズムは、迷宮、迷路、判じ物をなぞる。そしてそこから死は明晰さへと導かれ得ない。死は混乱のなかに解くことができないほどに編み込まれている。「エロティシズムの結果が、子供の誕生の可能性とは独立して、欲望の観点のもとで想定されるならば、それは損失であり、逆説的に価値ある表現である「小さな死」がそれに応える。「小さな死」が死と、死の冷たい恐怖と何の関係があるのかは明らかではない......。しかし、エロティシズムが作用している-賭けのなかにある間は、パラドックスは追放されるのだろうか?」[X 592]
 「愛への私の激しい情熱(rage)は、窓が中庭に面しているがごとく、死に面している」[VI 76]。なぜなら、死は私たちが互いに深く触れ合う唯一の場所だからだ。「そして死は私だけのものではない。私たちは皆、‘絶え間なく’死んでいく。 空虚から私たちを隔てるわずかな時間は、夢のようにはかない」[VI 155]。内奥性は融合ではないが、融合のふちでなければ、それはなにものでもない。エロティシズムと同様に、文学は交流であり、交流は死によってのみ開かれる(しかし、結局はすべてが死であり、それを包み込む混乱でさえも死である)。だからこそ、愛することは血を流すことであり、欠乏の痛みによるものではなく、過剰によるものなのである。「エロティックな行為は、消尽が獲得に対抗するように、習慣的なものに対抗する」[X 169]。連続性の荒涼とした広がりに到達するのは、生きるための手段の制限のない放蕩においてのみである。「まるで傷口が私たちのなかで開くかのような、用途のない消尽をする以外に真の喜びはない」[X 170]。社会的なつながりという貧弱な絆は、深い共同体の礁の上で壊され、そこにおいて融合は不可能なもののなかで完結する。「エロティシズムがその真実である暴力を最終的に明らかにするのは、それを制限する合一を破裂させるという条件の下こそなのだ」[X 167]。生の裏切りのなかでのみ、溶け合いがある。「エロティシズムの真実は反逆である」[X 170]。
 この問題に対するサドの推論は、アクィナス的な清冽さがある。ジュリエットは次のように主張するとき、サドのおなじみの道筋をたどっている。すなわち、他の存在の苦悩がいかに並外れたものであっても、また、苦しみや死に陥ったそのような存在の数がいかに膨大であっても、それにもかかわらず、彼らは全くの他の存在であり、その痛みは無関係であると主張するときである。「あなたの隣人が苦しい感覚を受けても、あなたに結果として何もなければ、全く問題にならない」[サド IX 50]。このような不幸な生き物の苦悩が少しでも心に響くとすれば、それは慣習の影響──自己の隷属的次元──によるものに過ぎず、このような感覚を犯罪の即時的-直接的な(それゆえ自然な)官能性と誤って同列に並べてはならない。即時的-直接的な快感のほんの少しの兆しは、異質な苦しみの無限性を否定する。他人の痛みは、「良心」という慣用名を持つ自然の損傷に参加している範囲を除いて、まったく登録されない。これはサドの悪名高い「独我論」であり、彼が「無差異-無関心」と呼ぶ否定を通して他者の主観性を情動的に拒否することである。自分のものではない痛みは、冷たく無視されるべきである。というのも「それとあなたの快楽との間には何の比例もない」[サド IX 50]ためだ。彼はこの議論を劇的なクライマックスに持っていく。「砂糖をかけたアーモンドと全宇宙との間にさえ、釣り合うものは何もない。この推論は、美徳よりも悪徳の方が圧倒的に有利であることを示すのに役立つのだ」[サド IX 50]。
 残るのは、バタイユのように、サドが『ソドムの120日』を失ったときに流した「血の涙」[IX 243]に気を配りながら、こうした発言を交流として認めることである。
  サドの登場人物たちも、作者と同様に内的な独白に囚われているわけではない。ジュリエットが次のように宣言するのは、自分自身に対してではなく、エロティックに結ばれた美しい若い女性に対してである。
 

あなたの感受性の過剰さは極限に達しているのだけれど、あなたはその効果を、もはや悪徳以外のどこにも連れて行けないような方法で演出している。ある種の特異性を持つあらゆる外的な対象は、あなたの神経液の荷電粒子を巨大な刺激に変え、また神経の塊で受けられたその騒ぎは、官能の中心に接するものに瞬時に伝達されてゆく。すぐにあなたはそこにくすぐったさを感じ、その感覚があなたを喜ばせる。そしてその感覚に迎合し、更新してゆく。あなたは想像力でもって、その感覚の増加と詳細を考えるでしょう......。刺激はより活発になっていって、あなたは望むだけ快楽を無限に増やしていく。だから本質的な対象というのは、あなたにとっては拡張すること、いっそう悪化させることなのよ......。あたしは、もっと強いことを言うわ。なぜなら、あたしはあなたがしたようにすべての障壁を乗り越え、もはや何ものにも拘束されていないのだから、あなたが遠くに行くことが必要なの。これからあなたの想像力を掻き立てるものは、最も強く、最も忌まわしい、神と人間の法に最も反する過剰なもの以外にはないのよ。[サド IX 47]


 エロティックなものの究極的な分かりやすい条件は、自己満足のために他者を否定することではなく、むしろ、エロティックな接触を妨げる世界を侵し、愛する者の捕食的な‘力’の前にすべての執着を手放すことである。エロティックな愛とは、合一を阻むすべてのもの、つまりそれに立ちはだかるすべてのものに対する際限のない暴力であり、遠慮のない贈与の運動のなかで、神、宇宙、仲間、自分自身を侵す供儀的な痙攣なのである。バタイユが述べているように、「絶頂において、他者性の無限の否定は自己の否定である」 [X 173]。
 サドの文章の恐ろしさは、このような言葉で片付けられるものではない。もしも、離散した存在の檻が、彼のひどく不快な飽くなき欲求を唯一の審級とするならば、その非難の厳しさに疑いの余地はないだろう。おそらく、バタイユや私以外に、彼のように熱烈に生を裏切った者はいないだろう。サドはこう書いている。


個人の死が一般大衆に影響を与えたことがあるだろうか?そして、最大の戦いで敗れた後、私は何と言っているのだろう。世界の半分、なんなら全世界が消え去った後、わずかな生存者がいたとしても、物事のわずかな違いに気づくだろうか?いや、残念ながら気づかない。また自然にしてもそれに気づかないだろうし、すべてが自分のために創られたと信じている人間の愚かなプライドは、人類が完全に絶滅した後、自然界には何も変化がなく、星の運びが遅れることもなかったとわかったら、本当に打ち砕かれることになるだろう。[サド III 517] 


 これは冷ややかな一説であり、普段の彼の文章にふんだんに見られるような毒々しさはない。しかし、その深遠な非人間性は疑う余地もない。サドに親しい死の特有のスケールが、乱痴気騒ぎを大虐殺に変えるような数的肥大がある。彼の物語に登場する比類のない残虐シーンを目の当たりにすると、もちろん恐怖を感じるが、恐怖に身を縮めることは、エロティックな執着へと不安に駆られて屈することである。また、これは文学的な問題であるだけではない。
 一つの死体に触れたとき、特にそれが腐敗の進んだ状態であったり、無意味な極限の苦しみ(特に拷問)の痕跡が残っていたりした場合に、感じ得る反感がどんなに大きなものであろうと、死体の‘山’や‘塚’に直面したときにはその反感は大幅に──とはいっても単に量的にではなく──増大する。その死体の山というのは例えば、納骨堂の積み上げられた亡骸、絶滅収容所の人間の残骸、頭蓋骨の山、ウガンダの密林やカンプチアの水田の端にある無名の絡み合った死体である。失われた人格としてではなく、死という脱人称化されたごみのなかで崩壊する塊としての死体。サドの文章にはそのようなイメージがないわけではないのだが、20世紀社会のマスメディアにはそのようなイメージはない。人が切望する不潔で無意味な死を垣間見ることができるのは、そのような底知れない屈辱のふちにおいてのみ、ヘラクレスの糞という顔のない塊として身体が吐き出されるときのみである。
 サドの奇怪さがどうであれ、彼はアウシュビッツのなかを指しているのではなく、アウシュビッツの外を指していると言った方が正しいだろう。ナチスによる皆殺しの痕跡がもたらす身体的ショックに道徳的解釈を与えようとする私たちの試みには独特の絶望感があるにもかかわらず、私たちの知的良心は、その後に続く聖人ぶった馬鹿げた行為に不快感を覚えている。私たちはヒトラーを、教会が発明できなかったある形象、口の上手いサタンとして扱い、またそのサタンのなかで私たち自身のの悪を生きているいるのである(あたかも雑誌で自慰行為をしているかのように)。総体的に見て、私たちは犠牲者から卑しくも離れているため、古臭い自己満足に陥っている。無垢を求める私たちは合一に対して自身らを封じ込め、また私たちは、彼らの運命が私たちの運命でもある場所から、まるで死そのものが彼らの苦悩によって汚されたかのように、追い払われる。私たちが除去できない仕方で抹殺可能な動物種であることは、厳密には私たちを印づけない。我々は死者のアパルトヘイトを行っている。これは、私たちの社会に蔓延している、死体、ユダヤ人、ジプシー、同性愛者に対する恐怖感に半ばよっている。これらの要素はすべて、道徳性によって、欲望、無責任性、現実との深い接触と同じように、遠吠えの響く窒息しそうな監獄に追いやられている。私たちの道徳的本性は、1940年代のポグロムという浄化を完了させ、肥大した身体と、それらが引き起こす問題のある影響の排除に貢献するだろう。私たちは、強制収容所の看守と死の工場の端を歩く若いユダヤ人の間で、最も深く檻に入れられているのは後者であると信じるほど愚かでさえあるのだ。
 最終的な解決策の技術的核心は、単に大量殺戮のための装置ではなく、死体を有効に処理するという必要性に導かれた装置であった。解放された時点で収容所に散らばっていたやせ衰えた死体の山──虐殺システムの崩壊中に伝染病で絶滅した人々の死体──と、システムが円滑に機能するなかで消し去られた人々の縮小された灰や影とを混同するとき、私たちは不安から抜け出して単純化してしまうのである。排除されない死体は、このような、あるいはほかの「最終的な解決策」のなかの従順な要素ではなく、それに対する非人称的なレジスタンスであり、原初的な共同体の印である。惰性的身体の御しやすやは、それ自体がファシストの神話である。
 最終的な解決策は、一つの神話であり‘また’一つの事実である。その痕跡の一つ一つが複雑なリビドー的力に支えられている。人間の皮膚から作られたランプシェード、細心の注意を払って回収された義歯や義足の山、ナチスの大量殺戮官僚の冷静な効率性など、すべてが強力な影響力を持つ自由に循環している印であるのだ。これらのイメージのなかで、虐殺させられた人々の体脂肪から作られた棒状の石鹸ほど、虫の這う肉から白く艶やかで柔らかく惰性的な衛生を保つ用具になるという全質変化ほど、我々の宇宙の秩序に対する感覚を比類なく傷つけるものはない。ファシストの‘不潔さ’を主張する同盟国のプロパガンダ機関の気の抜けた言葉は、喉の奥で麻痺している。ここにいるのは‘純粋主義者’たちであり、清潔で従順な男たちであるが、我々は彼らよりももっと潔癖であるのだろうか?
  そのようなものの餌食になること──ビルケナウの外にある排水溝の粘液や灰が、我々自身の肉の残骸であるかもしれないというようなこと── から我々を守るものは何もないということは、好運の野蛮さであり、我々がつながろうとするならば、それを‘歓喜する’ことが必要である。このような深刻な恐怖と私たちの間に立ちはだかる壁は、やはり壁であり、またもしヒトラーの犠牲者の絶滅を防ぐ神が存在したならば、生全体が収容所となるだろう(ナチスにとってはそうなのだが)。痛み、劣化、死は一つの事態、ほかの何かへの欲望の奴隷化である。私たちの体が弱くて死ぬからこそ、完璧な檻が存在することや太陽がファシストの健康に延々と固定されることは不可能なのだ。ゼロ以上の何かに守られることが、投獄の最終条件である。
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 アウシュビッツのなかに詩があったように、そして‘あったという理由だけで‘、アウシュビッツの後にも詩はある。(どれだけ危険であろうと)触れることを恐れない太陽の飛沫があるところには、どこにでも詩がある。運命に翻弄された人々の間には、笑いさえあっただろう。思考が不可能であるような地球の影の空間がかつてあった。しかし「思考の可能性を超えるものを考えなければ、真実とは何を意味するのか......?」[Ⅲ 12]。孤立した存在の惨めさが切り開かれるのは、不可能の縁においてのみであり、「詩とは不可能なものである」[Ⅲ 520]のだ。
 バタイユが「私は自分の歩みの痕跡を消し去りたい......」[Ⅲ 161]と書いているのは、無垢からではなく、抹消によってあばたとなった歴史のなかからである。


 私は抹消する
 歩みを
 私は抹消する
 世界を
 空間
 そして呼吸は
 欠如している[IV 28]

 アルコール
 詩の
 それは沈黙
 [死体が]壊す沈黙だ[Ⅲ 372]

✳︎
 ファシズムは、政治的絶望の症状というよりも、リビドー宗教的な無感覚の症状であり、街頭での反詩のようなものである。政策にとらわれたあらゆる行動パターンと同様に、それはヒューマニストの行き詰まりに根ざしており、自治のためのヒステリックな闘争を特徴としている。その闘争とはすなわち、自主決定、国家の自主管理、支配民族、自給自足経済......水ぶくれを内側から塞ぎ、海から隠そうとするあらゆる試みである。ファシズムへの政治的対応があるかもしれないという考えは、私を笑わせる。我々の小さなファシズムを、彼らの大きなファシズムに対抗させてみようではないか。自分たちを組織化し、規律を守り、スマートな制服を作って街を闊歩しようではないか。政治は人類の最後の大いなる感傷的な道楽であり、次のこと以外には何も達成していない。すなわち、愚かさを深め、仕事を増やし、抑圧を増やし、服従を要求する尊大なクソバカどもを増やすこと以外には何も達成していないのだ。当然のことながら、私たちは病気になるほど政治に飽きている。私は、水ぶくれのなかで権力を手に入れようとすることには全く興味がない。重要なのは、壁に穴を開けることだ。
 バタイユは政治的な茶番劇と無縁ではなかったが、1935〜6年──このとき彼は雑誌『コントル・アタック』とその人民戦線を急進化させるプロジェクトに深く関わっていた──にかけての彼の短い現実過程の政治的な期間でさえ、迷宮のなかに描かれているのである。ファシズム、軍国主義、資本主義に対する戦闘的行動に動員されたコントル・アタック、「街頭の人民戦線」[I 402]は、構成と分解の迷路でつまずく。ドイツとの戦争は無駄だ。なぜなら「先の戦争の過程では遅かった分解のプロセスが、次の戦争の始まりからフランスで始まる」[I 330]ためだ。1933年に発表された『ファシズムの心理的構造』というエッセイの中で、バタイユは、再燃する神学的衝動を概説している。そこでは、異質なもの、あるいは分解的な要素が、社会統合の操作者として逆説的に展開され、世俗化された神的秩序としてのファシスト国家へと向かっているのである。彼自身の政治的な作品の準ファシスト的な流れ──彼はこれを1958年の文章で嘆いている──は、暴力の歓喜というよりは、反規律への譲歩と関係している。


今日、社会の運命を決定するものは、規律正しく、狂信的で、来るべき日に無慈悲な権力を行使することができる力の巨大な構成の有機的創造である。このような力の構成が、頭と目のない資本主義社会の──破滅と戦争という──奈落の底への道を受け入れないあらゆる人々をまとめなければならないのだ......[Ⅰ 380]
 

資本とは、頭のない奈落への跳躍であり、無頭的破局である。この瞬間にバタイユがひるむのは、資本の閉所恐怖症的な管理上の冒涜ではなく、その破滅への精神病的な流れである。
 

私たちは次のことを見る。すなわち、人類が説明のつかない大災害へと自分たちを捧げる盲目的な力の自由さ(disposal)に委ねられたままであることを見るのだ......[I 402]


 このような文章の語彙は、彼の聖なるものへの滑落の深い流れに逆らうものではないのだが、その評価衝動はほとんど完全に反応的なものだ。つまり、統制に固執した薄汚いレーニン主義の主意主義である。私はこの1930年代のテクストをパロディ的なものと考える。これらはユーモラスで生き生きとしていて、左派で流行っている厳格な説教よりも明らかに進歩している。いずれにしても、せいぜいジョークだ。バタイユほど、マニフェスト、プログラム、政策宣言、コミットメントの発表の空しさに注意を払っている人はいないのではないか?


言語の破壊は、私の行為(fait)ではなく、私を破壊すること以外に私のなかに場がないのである。私の破壊とは、私を抑圧した瞬間の行為のようなものである(私は今語っているが空しい)[IV 167]。


 「不可能性とは存在の基礎である」[III 41]。書くということは、もし不可能性の上にある残骸でないならば、貧困と監禁である。なぜなら、不可能性とは余白や亀裂、境界線ではなく、莫大なものであり、これと比べると可能なものが無の淵に縮んでしまうようなものだからである。「私は、ある意味で私の物語が明らかに’不可能なもの‘を至っているとさえ信じている」[III 101]。バタイユの物語が重要なのはこのためであり、また『空の青み』がコントル・アタックの姿勢よりも計り知れないほど重要なのはこのためであり、──「不可能な自由」[IX 242]を求めた──サドとは対照的に、レーニンがわめき散らすドワーフであるのはこのためである。「不可能性!彼女は叫んだ」[Ⅳ 51]、「読む?働く?それは不可能だ」[Ⅳ 59]。『詩への嫌悪』は『不可能性』と名を変え、ボードレールやランボーを可能性という狭い箱に身を任せる言葉の自己満足から解放する。無味乾燥なリリシズムは、もう一つの可能なタイプの言語、つまり高尚で美しくエーテルのようなタイプの言語として自負している。真の詩は法の外にある。「しかし、詩は最後には詩を受け入れる」[III 218]。バタイユは嘔吐するが、「ボードレールの詩も、ランボーの詩も、私に嫌悪を抱かせることはない」[III 513]。また、バタイユのニーチェ読解は最初から次のことを主張している。すなわち、ファシズムの言語とは異なり、ニーチェのテクストは迷宮であり、’導き‘のヒントもなく、政治性もなく[I 450-2]、不可能性への航海、好運への意志だけがあると主張している。全くの混乱だ。「彼は言った。すべてが不可能であるがゆえに、すべてが神的なものである瞬間、と。(とりわけ’説明する‘こと、’語る‘ことの、不可能性)」[Ⅳ 146]。唯一人間関係が暗闇と痛みのなかで崩壊するとき、そこに真価がある。「彼女と私の間には何の可能性もなかった」[IV 233]。


 最初は、島が水に囲まれているように、死は果てしない静けさで私たちを囲んでいる。しかし、そこには、まさに売れないものがある。この沈黙を貫かない言葉に何の重要性があるだろうか[?]それぞれの言葉が無に等しいとき──それが言葉の彼方に到達しない限り──「墓という瞬間」(moment de tombe)を語ることに何の重要性があるだろうか[?] [IV 166]。

✳︎
 死は不可能なものという現実であり、私たち全員のフィクションを作り、フィクションのなかでのみ私たちは死から自分自身を切り離すことができる。迷宮のなかを彷徨うと、一ではないものは地形の複雑さによってのみ距離を置くことができ、可能なものの外につながる通路は決して壁で囲うことができないということに気づく。文学が哲学に取って代わられない理由があるとすれば、それは一なるものであり、それはたとえ非理性そのものであるにもかかわらず、そうなのだ。「私たちは想像できるだろうか。この無秩序にとって適している場所を、洞窟の失われた深みを...」[X 597]、すなわち「エロティシズムと死によって我々のなかに開かれた深淵」[X 596]として大口を開ける深みを。これは迷路や竪穴、ラスコーの洞窟のような深みでもある。「今日では「竪穴」と呼ばれているほどアクセスが困難な割れ目の底で、私たちは最も印象的で最も奇妙な想起(evocation)の前に自分自身を見出す」[X 597]のである。ラスコーの壁に描かれているシャーマン的な図像は、成長して失われたり昇華されたりするものではない。迷宮の上に成り立っていない住居はない。「大胆さがあるならこの家で夜を明かすが、死が宿っていることを忘れてはならない...」[IV 123]。家の外、箱の外、檻の外には、ゼロの荒廃から隠れる場所がないわけではない。というのも「死の雷鳴が/宇宙を満たしている」[III 212]のだし、人は彼女の腕の中に逃げ込むしかない(「死という私の恋人」[IV 22]、バタイユは叫ぶ)のだから。その反対側には、自分の飛翔である愚かさが証明されている。


 黒い死 おまえは私の糧
 私はおまえの心臓に齧りつく
 恐怖が私の快楽
 狂気は私の手中にある。[Ⅲ 88(創文社『大天使のように』生田耕作訳p.46)]


 物語は生を祝福し、詩は死に歓喜する。物語が苦痛と混乱のなかに崩壊するところであればどこでも詩は始まり、吠え声のなかから不具のように這い出てくる不完全な臭いがするものは何であれ詩なのである。バタイユは、ブレイクが「聖なるものはすべて詩的であり、詩的なものはすべて聖なるものである」という簡潔な宗教的受容をしたと評価している [IX 226]。
 

 私は死者のあいだで話す
 そして死者は口をきかない。[IV 19]

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 現実をテクストとみなす人々は──パロディとまではいかないまでも──問題のある意味でのみ「作家」であると言える。彼らにとって、「思考」や「様態」と呼ばれる高揚の潮流と、集合的に推定されたマークの直線的な系列への転写との間の苦悩に満ちた’不連続性‘はない。彼らが夢見る「一般的なテクスト」とは、文章という喜劇のための舞台である。そしてその舞台はすべてのフラストレーションが即座に独り言になり、情動がその表明の尺度まで切り詰められ、──鉛の足の下で犠牲者を打ち砕く、恐ろしくて惰性的な’書くことへの強制‘である──無言の恐怖の亡霊が、柔和な道化師の仮面を被って現れる均衡のとれた空間なのである。
 「沈滞、沈黙」[IV 134]。書くことができないということは、それ自体が発話となり、したがってテクストとなるべきである。この最も夜めいた思考は、作家が静めることも抱きしめることもできない落ち着きのない亡霊である。その訪問によって呼び起こされる感覚は、絶望的に深い夢の犠牲者を苦しめる感覚と同じで、──目覚めている時に思い出すと──空虚さへと分解されてしまうフレーズで完結する。暗闇、沈黙、孤独の神秘的な仲間である、冷たく広大な不可能性という枯れた残骸は、眠った後に再発見される。そして簡単なパズルに、さらに──日の光が最後の影が吸い取った後には──単なるパラドックスに作り替えられるのだ。
 作家のレベルにまで堕ちるということは、創造のための資源、必然性である方法の産物によって常に魅了されることであり、そして裏切られることである。詩が散文にとってそうであるように、これは詩自体にとってもそうであろう。詩自体、つまり頂点、そこからテクスト性の氾濫原が永続的に再氾濫し得る頂点であり、完全な肥沃さの象形文字である。しかし「方法」という言葉は哲学的すぎる。ここで問題となっているのは、未知の領域を横断するための地図であって、それを家畜化するための地図、すなわち世界の謎を強調するような発見のための図ではないからだ。明晰な準備としての「方法」ではなく、譫妄の点への、過剰を通した無意識への通路としての「方法」。航海と見分けのつかない地図としての方法、自身が示す異国趣味をすでに証明している図像においてなぞられ、獰猛に’上流‘にあるものへと向かって進んでいる軌跡としての方法。恍惚の長い夜を通して切望されているのは、大洪水の源流で抹消されることである。「平凡な死を免れるために!」。しかし、泡立つ大河があるはずの場所には......埃があり、さらに悪いことに、古代の貝殻の粉が残っている。「’必然性‘を剥奪し、人を裸で砂漠に入らせる運動」[II 242]と同じ遺物である。興奮してそのような場所を引っ掻き回した後、絶望して膝をつく者たちには、少なくとも神の残忍さの、つまり地球の平らな地面の上で見られるどんな笑いよりも鋭い笑いのビジョンが与えられている。


 きみは虚 そして遺灰
 首のない 夜を羽撃く翼ある鳥
 宇宙はきみへの僅かの希望でできている

 宇宙はきみの病んだ心 そして
 希望の墓場で
 死すれすれに羽ばたく私の心

 私の苦悩は歓喜
 そして遺灰 炎。[III 87(『大天使のように』p.40-41)]


 文章という暗黒の心臓に比べれば、絶望はほとんど誘惑である。とはいえ、文章によって不具になった運命が自らに黒い茶番劇の残骸をもたらすにもかかわらず、そのような運命には、壊れずに残る何かがある。少なくとも、それによって断罪された個人のすべての痕跡よりも長持ちする何かがある。ランボーは10年かけてエチオピアの太陽の下でそれを溶かそうとした。しかし彼は、言葉の狂気から人間性を救い出した者としてではなく、長い間沈黙していた詩人として死んだのである。
✳︎

ランボーの偉大さとは、詩を詩の失敗へと導いたことである。[III 533]

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 ランボーは、1871年5月13日付の手紙で、詩的な譫妄と冷静さの喪失という迷宮からジョルジュ・イザンバールに宛てて書いている。デカルト的主観主義の古典的な公式をもじって、詩は砕け散るような幻影(vision)の乱調と自我の脱臼として描かれている。
 

 いま僕は放蕩無頼の限りをつくしています。なぜなのか?ぼくは詩人になりたいし、そして自らを見者(visionary)たらんと努めているのです。あなたにはさっぱりおわかりにならないでしょうし、僕だってほとんどあなたに説明できないのです。問題は、’すべての感覚‘の乱調によって未知なるものに到達することです。並大抵の苦しみではありませんが、強くあらねば、生まれつきの詩人でなければならないのです、そして僕は自分が詩人であると認めたのです。僕の落ち度などではまったくありません。われ思う、などと言うのは誤りです。人は私をして考える、と言うべきでしょう。[『Rimbaud Collected Poems』 5-7(鈴木創士訳『ランボー全詩集』p.469)]


あたかも詩の混乱したサイクロンが分節のリソースをすでに廃棄してしまったかのように、ランボーは2年後の『地獄の季節』で次のように書く。「俺にはわかっている、異教徒の言葉がなければ自分を説明できないので、できれば俺は口を噤みたい」[同上 304(訳書p.22)]。これは、言葉が一つの終わり-目的に至ると言っているのではなく、言説が言葉を支配することがなくなると言っているだけである。モーターは言説的能力ではなく、嵐の空虚な目なのだ。同じ月の15日に書かれたポール・ドゥメニーへのさらなる手紙の中で、ランボーは「’すべての感覚の[...]乱調‘」[同上 10(訳書p.478)](強調点のみ変更)というフレーズ、’私は一人の他者である‘というフレーズ、そしてイザンバールの手紙に出てきた呪われた詩人(poète maudit)のレトリックを繰り返し、酩酊、苦しみ、亡命の必要性を強調している。


「詩人」は、すべての感覚の、長きにわたる、途方もない、考え抜かれた乱調をとおして見者になるのです。愛や、苦悩や、狂気のすべての形です。彼は自分自身を探し求め、自らのうちであらゆる毒を汲み尽くし、その精髄だけを保持するのです。筆舌に尽くしがたい責め苦であり、そこで彼は信念のすべてを、超人的な力のすべてを必要とし、とりわけ大いなる病者、大いなる犯罪者、大いなる呪われたものになるのです、──そして至上の「学者」に!──というのも彼は未知なるものに到達するからです!どんなものよりすでに豊かな自分の魂を育んだのですから!彼は未知なるものに到達します、そして彼が気も狂わんばかりになって、ついに自分の諸々のヴィジョンについての知的理解を失うときに、跳躍のただなかでくたばってしまえばいいのです。他の恐るべき利労働者たちがやってくるでしょう。彼らは他の者が斃れた地平から始めるでしょう。[同上 7-17(訳書p.478-9)]


 方法または反方法、好運への意志、制御の喪失への航海、この不可能性は詩の荒涼とした核心であり、横滑りの空間である。滑るということは、計画することでも、働くことでも、闘うことでもない。「俺はすべての職業が大嫌いだ。親方と職人、どいつもこいつも百姓だし、ぞっとする。ペンを持つ手は鋤を持つ手と似たり寄ったりだ」[同上 301](訳書p.19)。ランボーは、自分は「ヒキガエルよりのらくら」[同上 301-2](訳書p.20)で、良識がなく、労苦の文明とは無縁の人間だと告白している。「俺は一度だってこの民衆の一員だったことはない。一度だってキリスト教徒だったことはない。俺は拷問のさなかに歌をうたっていた人種の出なんだ。法律のことなどわからない。道徳感も持ち合わせてはいない。俺はけだものだ。あんたらは間違っている...」[同上 308(訳書p.26)]。聖なるものの探求者として、敬虔さや分別を超えた荒野を旅し、不可能なものの炎に焼かれながら、ランボーは迷路の端を踏みしめ、そのヨーロッパ的な窮屈な皮膚を削り取っていく。
✳︎

 俺は永劫の昔から劣等人種に属している[同上 304(訳書p.22)]。

 宗教。

✳︎
 迷宮特有の可動性──つまり真の宇宙的な動きや流動性──は、スケールによって閉じ込められることはなく、代わりにあるものから別のものへと移行する促進の軸、「横滑り」(glissment)を見出し、その完全な結果として、層を越えた無制限の分散、つまり死による交流を得る。ゆえに奇妙に静止した可動性。バタイユの文章に旅が欠けているということではなく、単に旅は深さの変遷から放射されるものであり、無益さや中絶性はそれに由来するということなのである。このような静的な航海は、寝たきりの病人によって行う行われる。『空の青み』[III 425-39]の「母の足」の最後の二つの章に登場するトロップマンや、『ジュリー』[IV 57-114]のアンリがそうである。また、『C神父』[III 316-19]の「待ち時間」では、シャルルとエポニーヌがベッドのなかで、エポニーヌが恋人のなかに入れている「屠殺の巨人」(もう一人のアンリ)にシャルルが殺されそうになっているという恐怖で二人が夢中になっている様子が描かれている。『不可能なもの』の第一部の語り手は「自分のベッドのなかでは恐怖の餌食になる」と宣言している[III 113]。
 拡張における蛇行は、「死への盲目的な横滑り」[III 29]、「この横滑り、死が作用するときに必然的に自分自身を生み出すようなこの自分の外への横滑り」[II 246]に渡らない限り、迷路に閉じ込められたままである。「横滑りはそれ自身を生み出す」[V 113]。私たちはそうせず、裂け目が開き、カオス(=0)、その深さにおいて恐ろしいもの、「不可能なものへと大きく滑りゆく」[III 77]地獄の季節、「ある感覚の強度と内奥性は、何ものも失われない深淵で自らを開いた。深い傷が死へと自らを開くように」[IV 248]。詩とは、詩の終わりに破られ、「死のように美しい」[IV 18]砂漠のなかで消されたこの横滑りのことである。そこには、肯定、達成、獲得といった問いはなく、すべてが貧困と監禁であるということに比べられる緩和のない破局があるだけだ。「私は、自分自身が堕落に向かって滑り落ちていくという、把握しがたい状態を忘れたいと思っている」[III 227]。「堕落とは、事物の深みに君臨する精神的な癌である」[IV 261]。


 私の心臓は黒いインク
 私の性器は死んだ太陽[Ⅲ 87]


 生は、宇宙の身代わりの死を探求しながら、汚物へと分解していく。異質なものはどのようなスケールにも属さない。というのも、それは「まさに」分解可能性の崩壊だからである。異質な(低次-基底)物質── 「血、精子、尿、吐瀉物......」[I 24] ──は、基本的組織のあらゆる可能な層との関係において否定的に特徴づけられており、それゆえに事物に関する言説に抵抗するのである。吐瀉物、排泄物、腐敗した肉は、問題を提起しない堅固さや理解可能な形態を提供するのではなく、むしろ準流動的な分割可能性、不明確な一貫性、複数的で不十分な、消滅しつつある凝集のパターンを提供するのだ。そのすべてが、聖性に覆われた言葉と混ざり合っている。「書くこととは好運を探究することである」[VI 69]のだが、詩の黒い泡沫のなかで壊れる爆発的な過剰さは、単なるリスクなのではない。なぜならリスクは無害な結果の可能性を暗示するのだから。それは「限界なき破滅」[III 75]であり、「[空白]への人間の服従」[II 247]なのである。過剰とは毒なのだ。
✳︎

 冬の風
 ああ死にゆく妹よ
 狼のきらめき飢えの噛みつき
 裸の心臓に貼られた霜の石
 
 ああ、無差異の唾液
 ああ、すべての心臓に対する侮辱の天
 ああ、死よりも冷たい空虚 [IV 26]

✳︎
 粒子は減衰し、分子は分解され、細胞は死に、生物は滅び、種は消滅し、惑星は破壊され、星は燃え尽き、銀河は爆発する......全宇宙の底知れぬ渇望が暗黒と破滅へと崩壊するまで。輝かしく苛酷な死は、すべての太陽を超えて広大に広がり、静寂と炎の鋭い揺らぎの端に守られている。すべての神々の冷たい母、彼女は深い降伏をしている。私たちが何も──無さえも──恨まないようにするには、死に対するあらゆる抵抗をやめることが必要だ。私たちは、生き延びようとする貪欲さによって病気になり、その病気のなかには、どこにも帰らない、どこにもつながっていない糸がある。なぜなら、私たちは宇宙の終わり-目的に属しているのだから。瀕死の星の痙攣は、我々の梅毒を受け継いでいる。「バタイユ」という名前は、現実の死んだ心臓からのメッセージを大まかにまとめたものであり、人間的なものはここでは全く付随的なものである。物質は迷える旅人たちに、その探求が無駄であること、そして彼らの故郷はすでに彼らの背後で灰になっていることを伝えている。
 終結があるとすれば、それはゼロだ。沈黙。言葉は何か別のものとして、いずれにせよ何かとして、あるいはせいぜい何かの(あらゆる事物の)縁として続く。しかし、そこにはカオスしかない、たとえカオス(だけ)が抑圧されたものだとしても。一方的な差異。だからこそ、革命は、燃えるような狂気の上に核を置いた能力の頂点でなければならない。というのも、アナーキーと完全な降伏は、死の宗教のなかでしか接触しないからだ。死権政治(thanocracy)、アナーキーはゼロにおいては差異化不可能であり、絶望のない人間は私の理解から逃れてゆく。神に似せて作られた存在である私たちは、自分自身には何の意味もなく、非人間的なものだけを求めている。次の言葉の取引において(in trafficking)、私がニーチェの最大の嫌悪感のゾーンに対応していると彼らが言うのは正しい。害虫、病気、狂気、アナーキー、宗教がそれぞれの空間を通り抜けるように私を通って流れてゆく。
 バタイユをも通って。
✳︎
 ここ、内的な縁の屋根裏空間では、言葉に終わり-目的がない
 それらの言葉は雑然としたストリップのなかを彷徨う
 この突然変異した昆虫たちは、暴力的に盲目にされ、追い立てられる
 暗闇のなかでハミングするモーターによって
 かつては理性の死骸から立ち上がるウジ虫だったが
 今は翼を持ち
 毒で肥える
 そして虫どもは私のために叫ぶ。
✳︎
 バタイユのように、私もまた「もはや存在しないために這う」[III 91]。他の人が、私が知っているよりも深いおぞましいものへと這っていった可能性はあるのだが、私にはそれを信じる理由がない。屈服の終わり-目的を超えると、地球の低次-基底部分を貫く地盤沈下であり、自身の解けた幽霊にしがみつく死の破片を残して、地獄で裸のまま静寂に包まれるのだ。
 私にとって死はもはや思弁的な問題ではなく、何か他のものに属する記憶であり、ゼロの上にある痕跡なのだ。私は自問する、’バタイユもまた、一線を越えて、終わり-目的の前に死んでしまったのだろうか?‘、と。この生のなかに深く壊れながらしゃがみ込むこと、それは耐え難く、しかし美味な恐怖の入り口と化した。私は自分を無にすることを嘆願して、死へこれらの言葉の供儀を捧げる。
  ヨーロッパはアジアの人種的ゴミ箱であり、イギリスはヨーロッパの焦げた泡をかすめ取っている。私の祖先は浮浪者であり、売春婦であり、人殺しである。毒キノコに溶かされた心、彼らの心は修道院の灰に喜びを感じ、北の海の岩の上で痩せ細ったヒトという動物の基線なのだ。「俺がずっと劣等人種だったことは俺にはしごく明白だ。俺には反抗が理解できない。俺の血筋は略奪するためにしかけっして蜂起しなかった。自分たちが殺したのではない獣に群がる狼のように」[『Rimbaud Collected Poems』 302](訳書p.20)。血のなかに多くの灰が含まれているため、私には平和のチャンスがなかった......何年もの間、疲労と嫌悪感で倒れるまで、金属の棒をかじったり引っかいたりしていた。生によって言葉を失うほどの(inarticulate)残骸にまで切り刻まれることから逃れてきたかのような、優美な生き物を理解するのは難しい。真っ白な脆弱性にねじ込まれた、白熱した刃物のように真っ白な不満が、インクのよだれと固まった痛みで不条理へと横切る。私は、一線を越える前から、自分を呪われた者のなかに数え入れる必要性を長い間理解していた。
 私にはいま次のことがわかる。私の地上の原-母は、荒野から来た牙の生えた正気でない何かに犯されたということが、また私は人間性をみすぼらしくまとった吸血鬼であり、死との不浄な内奥性-親密さによって生まれながらにして堕落したのだということが。私を抱く熱は地球の全的健康を過度に引き伸ばし、私を呪われた双子とともに星の貯蔵庫の向こうのがらんどうへと運ぶ。非実在という冒険は地獄においてのみ始まるのであり、そこに恐怖はなく、ただ畏敬の念と航海への狼男の燃えるような渇きだけがあるのだ。この下の海岸のどこかの入り江には、完全に完成されたエロティシズム──自然に対する契約──が横たわっており、それはその蒸発への融合を通して張られている。またそのエロティシズムは深淵の前で裸形となる。すなわちこれは喪失と始まりの輝く水滴なのだ。
 願望の涙を流すロマン主義者ほど、哀れなものはないだろう。エロティシズムの毒々しい果実は、最も空っぽの夜よりも鮮明で、より静かだ。地獄の境界線の内側には、底知れぬものに対する壁はない。すべてが穏やかで、奢侈で、理解できないほどに荒涼としている。浅瀬には自己の亡霊が漂っている。それは半狂乱の夢の喧騒から消えていく反響だ。一人が一人でないところへ難なく泳いでいく。河口を越えて下ると海が待っている...。
✳︎
死の天使へ私はこう書いた
私はどうやって思い出すだろう、それが虚構の群れのなかに身を隠した君とともに、落ち着くところがなく、消滅に浸された眼、異化した夜のなかで失われた眼だったということを、この夜は待っている
膨大な病人を
河口の向こう側で
私たちが浮かぶ空洞
私たちの眠りのなかで移り変わる
先見的な
これほど病的なものはないだろう、それでも線の向こう側で
私たちは恍惚に身を浴そう
燃え尽きるまで
そう、どんどん言葉が増えていく。私の熱は地獄そのものよって肥やされている。理性の塔においても、死んだ太陽から放たれた忌まわしい事物たちがお前を後ろから追い立てる。向こうの地下世界で我々は自分自身を待っている。忍耐の苦悩は我々を沈黙のなかに浸す。焦がされる。変貌させられる
地獄めいた才能が我々の精神の根を黒焦げにする
今、私たちは世界の内側に閉じ込められているが、私たちの奇妙な痛みは、私たちが出入りする地下室を窒息させ、私たちを狂わせる
私たちは外へと駆られる...

 何年も引きずられる
 天国の狭間を
 家父長たちの彫像に囲まれて
 あの場所に至るまで
 太陽に引き裂かれた場所に
 太陽の光を浴びて
 父の崩れ落ちた頭蓋というチンキ剤を飲むために
 僧侶の灰、彼らの叫び声は石灰化され
 蜘蛛の毒と混ぜられ
 消滅して久しい

新たな恐ろしい怪物が登場する。
我々は、彼らが理解できないどこかから神の国に至り、地面に向けてそれに放火する
我々の精神という地獄の焼き場から炎を垂らしている死は我々にとってなじみ深い
瞳の奥には星々の彼方の空間がある
我々がこの世界にとって唾棄すべき存在であることに疑いはない...
私は今、狂気の屋根裏部屋で書いている、至福の想像を絶する絶望によって言葉の向こうへ汚されながら。この柔き地上の夜は、私の譫妄のなかで燃える地獄の残火を鎮めることができない。恐怖と強迫観念が私の肌に癩病を殴り書きする。
私の喜びはその荒々しさにおいて計り知れない。影が私をミイラにする。
死の錠前がお前の耳を探る
そしてお前の書く言葉の一つ一つが
世界の縫い目を解いていく
私が壁を通り抜けたように感じるまで
すべてが完璧になるように
そして病気になるように

病気が私の言葉を導く。
 
 病と死、私の愛しい分裂症の母
 あなたの子供はあなたへと奪われ
 あの世で発見される
 そこにあなたは実在しない
 
 ああ、このような病の深淵が私の前に開かれている。私は衰弱する。全滅に釘付けにされて。
 崩壊を熱望して、私は内側の縁にある腐った都市を探索する。アヘンの臭いがコウモリの糞やカビの臭いと混ざり合う。月は廃墟へとその電気的賛歌をつぶやき、私は、湿った愚かさをこじ開けている自分の生という墓を見つめる。ここは、世界の外へと続く迷宮である。
この場所──劣化で豊かとなったこの場所──では、あなたの拷問者の沈黙さえも恍惚である。

 聖なるものに包まれたあなたを見る
 凶暴な何かが私の思考の逆流を通る
 狼が雪の荒野を徘徊するように
 あなたの言葉に飢えて
 そのため骨だけになってしまったように見える
 死と糸で繋がれ
 掴まれる
 黒ずんだ神経に
 解き放たればら撒かれる
 ゼロの狂った遠吠えのなかで
 
事物は断片へと漂流するが、私はとても緊張していて、それを渇望している。
私は内的なものの荒地に潜み、来るべき痙攣のざわめきに酔いしれている。我々は狼の糸と戯言に絡め取られた死の断片である。
フィクションだけが我々を隔てる。
血の彼方で結ばれた私たちは、地獄のなかで意味を超えて結ばれている。
✳︎
 抜け出そう
 夜のなかへ
 魂の爪を外して道を辿ろう
 恐怖の中心を抜けて
 そこには生体解剖の子らがいて
 まばゆいばかりの機械から這い上がる
 正気の影の縁を通るために
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 線の彼方があなたの心のなかで暗闇を横切るところで
 私は苦痛の砂漠を航行したい
 銀河の崩壊のただなかで
 夜になると糸が切れて
 頭のない烏は痙攣を起こす
 麻痺した飛行の
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 ヒューマニズム(資本主義家父長制)は、投獄されることと同じである。迷路に閉じ込められて、あきあきさせる同じ輪を歩く。ゴミのなかをぐるぐると。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐると(神は傷ついたレコードだ)、私たちが前進していると思っている時でさえも、より知を得ながら。ぐるぐると、聖なるものを逃して、完全に頭のなかに追い込まれるまで。しかし、少なくとも私たちは死ぬ。
 個人主義は罠だ、なぜなら、ある人が意志において抱えていたものの一部が他の存在によって担われると信じることは、無宗教なのだから。重要なのは私たちの献身的な信仰ではなく、降伏だ。川の下にある喪失には終わり-目的がない。諦めることさえできれば。「生は死に、川は海に、既知のものは未知のものに溶けていく」[V 119]。
 ’誰が権力を持っているのか‘という馬鹿げた問いかけが延々と続く政治ほど、神学的なものはないだろう。革命は違う-差異だ。一神教は改革することができず、洗い流さなければならないが、それは正気の地平でもある。放棄。
  そう、私は耐えがたいほど自分を甘やかしているのだが、しかし私はバタイユの私(je)でもあり、というのもそれは彼のものでもなく、誰のものでもないからだ。「私は歴史上のあらゆる名である」[ニーチェ III 1351]と言っても、それはまだ始まったばかりなのだ。
  ゴミの中に閉じ込められたままだと、一線を越えるとはどういうことなのか、日に日に少しずつ忘れていく、いや忘れるということさえ死んでいる。そして死んでいるということは一線を越えるということなのだ。死は真理である。なぜならば、誤りはそれに付着することができないからであり、あらゆる夢はそれに溶け込むからである。しかし、死は「死」という言葉でもなければ、他のどんな言葉でもない。言葉のゼロは「ゼロ」という言葉ではなく、言葉についての言葉でもない。
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 焦げた影から顔が浮かび上がる
 激しく青ざめた夜は静かに
 片目を溶かした
 血が流れる、ドロドロと
 そしておびただしく
 大きなためらいのせいで私の指は迷いこみ
 空窩へと
 擦り切れた神経の裸体を探しながら、というのも暗闇のなかに凝縮されたギザギザの苦痛の焦点でなければならないのだから
 そしてそこの話す言葉はない
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 逆さ吊りで眠ること
 納屋のなか
 昼から守られて
 そうして暗くなるとき
 あかりが消える(flapping out)

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