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7-07 漫画「水は海にむかって流れる」について、あるいは、呪いとハッピーエンドについて

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回はS.Sugiura「”あれ”について描かれた、”あれ”を落とした時に聞こえた音」でした。

「前の走者の文章をインスピレーション源に作文をする」というルールで書いています。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

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高校生になった直達(なおたつ)は、進学を機に、高校近くにある彼の伯父の住むアパートで一人暮らしをすることになる。引っ越し初日は大雨だった。最寄駅に着くと、傘をひとつ余分にもった女性が立っている。同じアパートに住むOLの榊(さかき)が、忙しい叔父の代わりに直達を迎えに出てくれたようである。

直達の新生活に対する不安や、迎えに来た女性に対する好奇心を表現した心理的描写で充満した印象的な出会いのシーンから始まる漫画「水は海に向かって流れる」は、遠路遥々やってきた直達の空腹を満たすために榊が作る「ポトラッチ牛丼」を二人頬張るシーンをもって、物語のイントロを閉じる。

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「ポトラッチは北米の北西海岸に住んでた先住民が、冠婚葬祭に合わせて宴会をして、読んだお客さんとアホほど贈り物をしあう祭りなんだけど、自分の気前の良さを見せつけるために高いモノぶっ壊したりとか、乱暴なこともしたりしてたのね。榊さんは時々資材を投げ打ってかなり上等な肉を買ってきては、フツーの玉ねぎと一緒にふつーのめんつゆで、暴力的に煮つけたものを振る舞ってくれるので、この名がつきました」

叔父さんは「ポトラッチ牛丼」についてこのように直達に説明をする。しかし彼の説明には重要な点が欠けている。マルセル・モースは「贈与論」において、まさに「返礼義務」こそがこの祭りに用意された最大の力だ、と説明するのである。 返礼義務は何によって生じるか、と言えば、それは贈り物の元の持ち主が贈り物に付与したとされる「精霊(ハウと呼ぶ)」である。これがモノに呪いのようにつきまとって、例えば受け取ったモノを壊したりしようものなら、新たな持ち主に死に匹敵するような不幸をもたらす。「返礼義務」は呪い返し・呪い落としのような意義を持ち、「精霊」から被贈与者を救ってくれるものなのである。

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作者の田島列島は、この儀式における重要な「半分」を紹介しないことによって、この物語がどのような性質を持っているのかをあらかじめ・十分に説明する。それは、ある人間関係において、感情や人格を伴った交換行為は一対一・等価的交換(=贈与したのとまさに同じ分だけ、返礼がなされること)が不可能であり、かならず感情や心理的なモノの余剰分が現れ、それが場合によっては関係性を混乱へと貶める、というものだ。モースの説明に依拠すれば、「贈与—対抗贈与」は最も巨大になる場合、ある社会集団の誰かの財産が全てなくなるまで行われるという。これはすなわち、この交換行為が素朴な物々交換ではなく、贈与されたモノに対して「贈られたものよりも、さらに大きな価値のモノを!」という心理的な圧力が働くことに起因する。これが「等価的交換」ではないことの理由である。

偶然出会ったように見える直達と榊は、実は複雑な家族間事件の被害者である。直達の父と榊の母は過去に不倫関係にあったのである。結局のところ1年という短さで破局を迎えたが、直達の父は家族に許されて家に戻り、榊の母はそのまま家族を出て、現在は別の家庭の母となっている。直達はそれを知らずに、偶然に、伯父をたよってこのアパートにやってきた。榊は、彼の引っ越しの直前に、写真を見て知っていた。あらかじめ感情的には不均等な状態で二人の関係は始まり、不幸にも背負ってしまった過去の業を清算する物語が、始まる。

ところで、家族関係の曖昧さ、というのは田島列島の重要なモチーフの一つである。特に「不倫」については、例えば短編「ごあいさつ」でもたいへん丁寧に描いたように、家族関係の根本を描くために、好んで用いるモチーフであるように思われる。
榊は、自分を捨て、家族を捨てた母に対する「怒り」がおさまらない。この感情の正体について、直達は鋭く以下のように考える、「怒りしか、母親と繋がる術がないのだ」と。これは、榊と直達が二人で(事情を全て知った上で)榊の実の母に会いにいく場面での出来事だ。母は自らの罪を詫びながら、新しい家族という、自分だけ得てしまった新しい幸せを手放せないでいる。そこに突然現れた榊が怒りをぶつけるのであるが、母はその怒りを受け止める器をもう有していない。おそらくここで榊は、「(それでもまだ)家族である」ことへの理想を母のなかに見出していた。その怒りに対して、それと同じ量の別の感情が返ってくる、と、願っていたのだ。それが母との繋がりの最後の望みであった。

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田島が描く家族像は徹底的に不均衡であり、等価的なものではない。「ポトラッチ」を冒頭に紹介した理由はまさにここにあり、いわば「強迫的な契約」に基づく—しかしそれが、家族とか恋人とかいう、あたかも愛情や信頼に基づく純粋な関係の外観をとって現れる—人間関係を、構造化する目的のためだ。そもそも家族とはなんだろうか。そのゼロ地点である婚姻とはまさに、法的な(合意に基づく)契約関係であり、私的であると同時に公的でもある。さらに言えば、表面上は「法律」という文字の羅列の中に刻み込まれているが、(極端な切り口ではあるが)ソースティン・ヴェブレンがいうように、婚姻は「略奪した女性を自らの所有物に変えるような、未開・アルカイックな人々の行為」にこそ起源がある、とも言える。あるいはわざわざこの言葉を借りずとも、極めて人工的関係であることは、様々な学問の示すところである。表向きはピュアで私的な相互扶助的関係、その内実は、公的(=社会的)で不均衡な所有的契約関係。この二面性こそが、家族の脆弱さである。

田島は家族制度への懐疑から、擬似家族という形態にこだわるように見える。叔父をたよってやってきた榊と出会ったアパートの住人たちは、榊と直達の擬似的な家族として、公的でも私的でもない、その間の領域に住う。他人たちの集まりである、という事実こそが、2人に安堵を与えるのは言うまでもない。

自分たちの家族の問題がつきつめたところで宙吊りにしかならないことを知った直達と榊は、互いに強い愛情をもって接していることを自覚しはじめる。恋愛感情による人間の繋がりの脆弱さや、それがいかに不幸をもたらすかをさんざん見てきた2人だった。にもかかわらず親密になっていく。苦しみに対する予防線として榊はアパートから出ることを決意した。
1年が経った。直達はおろか住人たちに対する連絡も一切なかったのだが、ふと催されたバーベキュー大会の折、彼女は突然現れた。サンダルに柄シャツ、似つかわしくないサングラス姿である。食材担当のミスによって大量のカボチャで溢れる宴会会場には、以前のような軽妙な掛け合いが飛び交う。やりとりの末、(いつものように)オチを引き受けた榊が捨て台詞を吐きながら会場を去る。「直達君、榊さんに余ったカボチャ、持っていかせて」カボチャを片手に榊に近づく。「これ、重いから今度持ってきて?」と榊。「明日でもいいですか?」と直達。

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ポトラッチ牛丼に対する返礼は、1年という時間をかけ、カボチャという形でなされることとなった。ここにはポトラッチにおける、以下の2つの重要な効果が潜んでいる。「全体的給付」という言葉でモースが表すように、この交換は物質のみならず、観念(宗教的、道徳的)の行き交う場でもあること、そしてポットラッチにおける義務の支配が、時間を超えて存在し続けることである。つまり、どれだけ複雑な様々な領域にまたがった要素の交換を、時間のなかで持続し続けることができるか、ということが、2人のポトラッチにおいては重要だった。むしろその交換の媒介として、2人が背負わされてしまった過去についての様々な意見の話し合いや、榊の母親への突撃イベントが存在した。「最高の人生にしようぜ」と榊が述べた時に彼女が感じたのは、過去を清算したり、背負っていた業や荷を下ろした爽やかな気分では決してない。そうではなく、それらが、現在の生き生きとした交換のための、単なる儀礼に過ぎなかった、という事を知り、新しい気分になったのではなかろうか。

2人の関係にハッピーエンドが似合うのか?それはなかなか難しい問いだと感じる。しかしそれが、旧来の恋愛や家族という観念に囚われている限りにおいて、「難しい問題」なのだと感じる。「最高の人生」という、皮肉屋の彼女らしくない表現のなかに、歴史や制度を超えて、私たちが安堵するための独特な人間の関係性が見出せるのかもしれない。

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