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9-07「広告と人間らしさについて」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。

9周目の執筆ルールは以下のものです。

[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、[2]Loneliness,Solitude,Alone,Isolatedなどをキーワード・ヒントワードとして書く

また、レギュラーメンバーではない方にも、ゲストとして積極的にご参加いただくようになりました!(その場合のルールは「前の人からのインスピレーション」のみとなります)

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】


「人間らしさ」という言葉をよく耳にする。人間らしい生活、人間らしい立ち居振る舞い。定義はとても曖昧であるが、何かしらの規範が存在し、それに従って「人間らしさ」がぼんやりと形成されていっているように思われる。義務教育が押し付ける道徳や倫理は、その重要な基礎部分であるといえるだろうか。私は小学校生活を楽しく送ってしまった人間だという自覚がある。楽しく送ってしまった、その理由は、こういった規範を無反省に受け入れることができたからだと思う。こういう人間はとても多いと思うし、大きな問題だと思う。ここではふれないが。

「人間らしさ」、または、「目指すべき人間」の、いまの私たちが出会う身近なは、都市空間全体を覆い尽くすような広告媒体だと思う。ビルの屋上、通り過ぎる宣伝カー、駅に設置されたデジタルサイネージ、都市生活者が移動の最中にこれらを目にしないことのほうが不可能である。SNSにこうしたイメージが氾濫しているのはわざわざ言及するまでもないだろう。

脱毛、美顔、ダイエット、食生活、等々、「人間らしさ」を量的に表示するこれらの広告が私たちに与えるのは、それらサーヴィスの内容情報ではない。私たちの生活する社会構造ならではの、新しい様々な(ネガティブな)感情体験である。新しい「恐怖」新しい「寂しさ」新しい「恥ずかしさ」新しい「焦燥感」等々。すなわち、これらの「人間らしさ」からズレる事に対するお恐ろしさや、これと一致する事への幸福である。

思い出されるのは、映画「攻殻機動隊」において、記憶を捏造されたあの悲しい男である。嘘の家族写真を示しながら「おれにはこの生活があるんだ」と叫ぶ彼を、観客として見る時の寂しさと悲しさを鮮明に覚えている。この男が現在の私たち自身である。すなわち、わたしたちは種々様々な広告が捏造した「人間らしさ」を所有し、それとともに生きている。世捨て人や、完全なるアナーキストが私たちを見たならば、私たちがあの男に抱くような悲しを抱くだろう。

こうした「人間らしさ」において、身体はまさに、重要な要素である。美しさと健康こそが身体にとって最も有益だという広告の教えは、身体の自己管理を強いる。だらしがなく、管理されていない身体を持つ人間を見下すような傾向が充満する。例えば、これによって誰が得をするのか?広告を出しているいくつかのクリニックや健康食品やサプリの開発会社は自己管理を怠った人々から大きな利益を得るだろう。だがこれは問題の一部にすぎないように思われる。個別的な社会・経済の不均衡より一層奥に隠れている問題がある。

そのうち一つは、以下である。

「身体は私のものだ」というスローガンは、あらゆる権利運動の中心的な主張である。しかしながら現在、この言葉の力が歴史の中で最も大きく奪われているのを感じる。それは上述したように、「身体」という概念の意味内容を決定する条件が、完全に、このような社会のなか、広告という陳腐なもののなかに委ねられてしまっているからである。言い換えれば、「身体は私のものだ」という主張をするために定義付けなくてはならない「身体」という概念それ自体が、何か得体のしれない領域・組織・勢力によってあらかじめ定義付けられているからである。私たちはこのように定義付けられた「身体」という言葉を借りてきているにすぎない。だから、重要な権利運動の力が小さくなってしまう。

私たちの社会は、資本主義、民主主義、自由主義、などというシステムで呼ばれている。単独で見れば、重なりつつ全く異なった領域の利益を確保するためのイデオロギーであるが、この社会の中で機能するにあたり、お互いのあいだはかなり厳密なヒエラルキー関係で結ばれている。その頂点は資本主義である。すなわち、生産・競争・成長等々を養分にしたシステムで、このおこぼれを、自由主義や民主主義が頂戴している(=資本主義がなければ現在の2つのシステムは作られなかった、ということもできる)。

このシステムにおいて「身体」とは何か?まさに、生産・競争・成長を具体的に体現する、最小単位、資本主義の養分である。これを一つの言葉で表現すれば「労働力」となるだろうか。広告は知らぬ間に、私たちの身体を、より労働力に適した身体へと変化させる。「健康」は自分のためなのか?半分はそうだろう。もう半分はしかし、資本主義の養分である。

例えば(「身体はだれのものか」という議論が生まれたであろう)1960年代のような時代と現在との違いを考えると、私たちにとって誰が敵なのか、というのが不明瞭になってしまっている点が挙げられる。それが、’’現代の現代性’’を問う時に重要になってくる。都市中に、社会のあちこちに、デジタル世界の様々な場所に、しかも「美しさと健康」という、正しい仮面をかぶって存在するそれらは一見「味方」の風を装っているが、述べてきたように、こうした広告の誘導する「人間らしさ」と「身体」は、私たちが本当に自らが選択したものではない。雑な言い方をすれば、広告こそが私たちの時代の敵の1つの様相である。広告とは複製技術の結集した知恵の最新のものであり、手を変え品を変え、権力の量を減ずる事なしに広がっていくことができる。その主はサーヴィスの提供者たちではなくて(彼らもまた、従順な奴隷でしかない)、資本主義というシステムそのものであることは言うまでもない。

「私の身体を取り戻す」という事がどのようにしたら可能なのか。この問いがますます困難になった現在において、再び注目すべきはアナーキズム(=無政府主義運動)である。もちろん、これを生粋に行うには、世捨て人としてのタフさが必要であり、そのためにはおそらく、例えば「文字をすてる」あたりから始めなくてはならないだろう。しかしながらそんなことは無理な相談だ。まずはアナーキズムを解読しなおすところから始めてみる。例えば、システムが機能するための条件としての「言葉」に注目するのはどうだろう。「身体」の意味内容を問うてみるのはどうか。この文章で中途半端に展開したことだが、これを徹底的に行ってみる。この言葉の意味の根源にたどり着くのは困難かもしれないが、それと同時に、言葉というものがいかに恣意的に意味付け・価値付けされたものであるかが見出せるのではないか?アナーキズムはまさに、この意味・価値を無に帰すところから始まる。言葉の恣意性を暴いあと、再び重要な問いを始めるのはどうだろうか。

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