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No.01 「ポッポについての野暮な話」

「ポケットモンスター」は、1996年に任天堂から発売されたゲームソフトである。ポケットモンスター(通称ポケモン)と呼ばれる架空の生物を飼い慣らし、野生の、あるいは別のプレイヤーのポケモンとの対戦のなかで成長させ、物語を進めてゆく。ドラクエやFFのように「ボス」という存在はあまり強調されておらず(「伝説のポケモン」という形で、ダンジョンの奥で出会う場合もあるが)物語進行を決定付ける戦闘は、「ジム・リーダー」と呼ばれる人間と、彼らが育てた強力なポケモン達を相手に行われる。

野生のポケモンを飼い慣らすためには、一定以上のダメージを与えた後に、モンスターボールと呼ばれる、捕獲用の道具を投げつける必要がある。飼い慣らしが成功する確率はポケモンの種類によって異なっており、例えばポッポという鳥型のポケモンとピカチュウというネズミ型のポケモンでは、出現率の違いも相まって、後者の方が高難易度だ、という認識が一般的である。

ところでこの2種類のポケモンとは、最初の街=マサラタウンの草原で出会う事ができるのだが、忍耐力とこだわりが無かった私は、出現頻度が高く簡単に飼い慣らす事のできるポッポをまっさきにパートナーに迎え入れた。もちろん「手軽さ」という理由だけではなくて、進化(何種類かのポケモンは、一定のレベルを超えると進化し、形態が変わる)した姿が好みだから、というのもあるし、ゲームを進める際のプレイスタイルに関わるような理由もあった。一応しっかりした事情によって、私はポッポをパートナーとして選んでいた。

1度目の完全クリアを成し遂げた後、2周目3周目とプレイを続ける中で、こういった理由を度外視して、ポッポに対する素朴な「愛着」が発生するようになる。「可愛く見えてくる」だけではなくて、なんというか、ペットがいたらこんな感覚なのだろうな、など感じていた。「感じた」事の中でもっとも巨大だったのは、「私はポッポと同じ時間を共有している」という感覚だった。私が3時間という時間を経験するとき、ポッポもまた同じ経験をしているはずだ、と。そして、「時間の感覚」にたいする執着が、プレイするごとに強くなっていった。例えば、ゲームを中断して(スタートボタンを押して)手洗いにでも行こうものなら、ソワソワしてしまう。同じ時間が流れているはずなので、待たせて申し訳ない、という具合である。

私とポッポのあいだにおいて最も大きなな問題は、「電源」を切る事だった。電源がOFFになってしまったとき、ポッポ、および、彼の時間はどうなっているのか、彼らの世界はどうなっているのか、という問いが押し寄せてくるのである。これはある意味で「恐怖」であった。愛着の対象がこの瞬間だけ、消えてしまっているような感覚があるからだ。恐怖に打ち勝つために別の事実を考えた。まずは「電源を切る」というアクションについての、素朴な連想を始める。私たちの世界においては「電気を消す事」がこれにあたるだろうか。そこから、電源を切ったあとの彼らの世界は、暗い、「夜」になっている、「夜」の時間が、ポッポの周りに流れている。このように考える事によって、私は、この事態に対して溜飲を下げていた。

ところで、ある論争を思い出す。私たちが目をつむったとき、世界はどのような姿になっているのか、というものだ。直感的には、私たちが通常目で見ているように世界はあるはずだと考える。しかしながら、それを目によって確認できない以上、その答えには‘‘確からしさ’’しか見出せない。いや、むしろ(と、論争は続いてゆく)、私たちの認識をめぐるあらゆる感覚は‘‘確からしさ’’から抜け出す事はできないのではなかろうか?「それが、あるように、ある」という素朴な事実に対して確信を持つ事は、できないのではないか?

ポッポはゲームのデータである。小学生の私は、この単純な事に、大変遠回りしながら気付いただけであった。ポッポの成長(レベルやステータスの変化)は私がプレイした時間に依拠している。その事実は確かに「私の(プレイ)時間=ポッポの(プレイされた)時間」という等式を成り立たせるに足る要素だ。しかしながら、ゲームの時間が現実の時間と同じはずはなく、電源をOFFにする事によって起きているのは、私がどのように解釈しようと、ゲーム世界の完全な停止であって、私の時間との関わりはいかなる意味でも存在しない。

「愛着」は、「自然らしさ」をポッポに求めた事によって生まれた感情であった。ここでの「自然らしさ」は、連続性のことだと考えられる。この瞬間と後の瞬間でポッポが同一の存在であり続ける事、とも言えるだろうか。ここから、電源をOFFにした際に感じていた恐怖は、自然らしさ=連続性の切断についてのものだった事が理解できる。ある意味でこれは、私が現実に感じている強迫観念なのかもしれない。すなわち、「自己同一性」と言われる事柄にたいして、時間の中の連続性=「自然らしさ」をその必須条件と捉え、それが切断されないように努力する事こそ、人格的な責務だ、と、私は考えているのかもしれない。そうだとしたら、それは、なんというか、あまりに窮屈な考え方である。

ポッポと私の関係は、「電源OFF」の状態に対して、適切な評価を与えられず、結局ポッポに対する私の愛着が消滅するかたちで終わりを迎える。その後いくつかの「育成ゲーム」をプレイするが、当時のように真剣になれずに終わってしまった。

この出来事において重要だと感じるのは、「ピカチュウ」ではなく「ポッポ」がこの話の中心にいる事である。その意味は、よくわからないのだが。

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