見出し画像

5-06「ジャスト・チリン! 〜癒しの経済学序説〜」

9人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回はS.sugiura「かつては歩いていた男」でした。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

----------------

「チルっていったらそれは、わかるだろう?だから一本巻いて持っていったんだけど、その女子大生は、カフェにいってコーヒーを飲む事だ、って言うんだよね(出会い系アプリで知り合った女性について、友人Oが話してくれたエピソードより)

生きるとか死ぬとか、
というテーマが日常を支配してしまうと「人間らしさ」が失われてしまう、という意見がある。生存の配慮、つまり、空腹を満たしたり、寒さをしのいだり、外敵から身を守ったり、そういう配慮を終えて、余った時間をつかって何かを行うことが、「人間らしさ」のための条件だ、と。労働の時間をこえた「余暇」の時間こそが人間を人間たらしめる、という。「人間らしさ」の反対はなにか?それは、「動物的」である。彼らは空腹を満たすために、手や足を使って肉を食う。私たち人間は、「味わう」ために、洒落たレストランで、ナイフとフォークを使って、よく調理された肉を食う。「味わう」という言葉こそ、「人間らしさ」の象徴である。

テレビ番組「王様のブランチ」は、余暇の使い方を的確にアドバイスしてくれる番組である。現代の幸福論は、ブランチとか、類似した情報番組、さまざまな広告に支えられて作られている。そしてそのすべてが、余暇を気分良く過ごすのが幸福だ、と表現しているのである(この幸福観は「味わう」ということの意味の持つ豊かさを示している。それが持つバリエーションの豊かさ=選択の自由さこそが、幸福の潜在性である)。

さて、一人の人間の生活を想像しよう。サラリーマンAは月曜から金曜までをフルタイムでその会社のために働く。土曜の朝9時30分からブランチをみて、なるほどここに行けばいい気分になるらしい、と情報を得る。さっそくその日の午後に彼女とそこに出向き、幸福な一日を過ごし満足する。夜、就寝前の余った時間にYouTubeをみようとノートPCを開く。Aのために(試聴履歴からアルゴリズムによって)カスタマイズされた馴染みのホーム画面が立ち上がり、お気に入りのYouTuberの更新された新しい動画をクリックする。彼の趣味に彩られたホーム画面はサムネイルだけでも十分彼の時間を消費してくれる。目が疲れてきたので、やさしい動物動画をみよう。YouTube上には「癒し」を与えてくれる動画がたくさんある。知らない国の街角をリアルタイムで写し続ける動画、水族館の固定カメラ、ASMR、作業や勉強の様子を優しい音楽とともに配信する動画、などなど。

現代の「癒し」について調べることは、私たちを束縛する幸福観とか人生観を考える上で重要であるように思われる。まず、どんな状態から癒すのか。そして何によって与えられた疲労を、どのような手段でもって取り除くのか。Aの疲れは職場からくるものが大きいだろうか。プライベートの人間関係でも疲れているかもしれない。彼はインターネットからから与えられる「癒し」の効用によって、優しい眠りにつつまれる。

インターネット上の「癒し」として有名なのは、「Lofi HipHop」というyou tube上のチャンネルであろう。ジブリ風のタッチで描かれた女性がひたすら勉強するアニメーションの背景に、アナログノイズまみれでBPM遅めの心地よいヒップホップサウンドが流れている。もともとはある属性の人たちのスラングとして使用されていた「チル」という言葉を普通の人間が使うようになったのも、YouTubeでこのチャンネルが広がったのと同じ時期である。この二つは同じ現象だと解釈すべきだろう。YouTubeは「チル」の宝庫である。「Study with me」「集中2時間」「Relax Yoga music」「Relax 2 h」これらを是非、検索してみて欲しい。

「癒し」や、「チル」のためのコンテンツ、これらの言葉自体が広がっている現在の状況は何を物語っているのだろうか。それほどまでに現代の人間は疲れているのか?そう考えるのはもっとも簡単であろう。「幸福のために、余暇を充実させよ」という要請が、王様のブランチや同じ種類の情報番組、そしてあらゆる広告から発せられている、と書いた。生存への配慮や労働を終えて、余った時間でさえ、私たちは何かに従っている。

こうした「多忙さ」を作り出した原因は、冒頭の「人間らしさ」の定義である。この意見によれば、良い趣味をもつこと(「味わう」ための舌がたくさんの情報を得られること)、また、労働という、動物に近い循環(=生きるとか死ぬとか)をこえたところに人間の条件があり、それが全て余暇にかかっている、としている。そのせいで多忙になっているとしたら、「癒し」や「チル」の必要が生じたのがまさに、人間が自分たちについての定義の中にバグを仕込んでしまったから、ということにならないだろうか。

バグ、すなわち不具合、誤り、システムエラー、これは古代から引き継がれてきた有名なパラドックス(「クレタ人は嘘つきだ」と、クレタ人が言う)、言葉と実在をめぐる決定的な行き違いのバリエーションの表象の一つであるように思われる。私たちが信じてやまない諸々のシステムはとても脆弱であるが、システムはたった一つではなく、複雑で、いくつものタイプのものが複雑に絡み合っている。しかしながらそれら全てに共通する下部構造は「進歩」という概念、そしてこの概念の前提としての、単線的な時間の流れ、過去から未来へと通じる、因果関係に縛られた一本の時間軸の存在である。個人も社会もこの時間の上で生きており、「あのとき勉強したからこそ、いい大学に入れて、いい会社に就職できた」というサラリーマンAの言葉と、「あのとき医療制度を整えたおかげで、私たちの社会福祉は充実したのだ」というある国家に属する人物の言葉は、同じ時間軸、同じ性質の過去と未来とを共有し、それゆえ同じカテゴリに属することになる。

「進歩」という概念をメンターとして、私たちはどんどん結束力が強くなっている。良くも悪くもだ。「癒し」への願望は、現代においては、こうした結束力からの逃避のための願望である。また、インターネットにおける癒しとは、これの倒錯した形に他ならない。癒しの本質は、疲労を生じさせた状況の外部へと逃れることだと思うが、まさにここは外部ではないから。

さて、無理に結論を結ぶことにする。私たちが本当に癒されるためには、「進歩」という共通善のようなものを、いったん打ち崩さなくてはならない。人間らしさもまた、ここから獲得されたイメージではなくて、なにか別のものを作り直さなくてはならないだろう。これら全てが終わったところで、改めて「幸福」についてまた話し合わなくてはならない。そのヒントはどこにころがっているのか。そもそも「進歩」という概念が引っ張り出されたのは、一つはダーウィニズムが大きいだろう。「生産性こそが人間の価値」という馬鹿げた発言をした議員の話は記憶に新しいだろうが、あの意見は残念ながら、世論の潜在的な一般意見だと感じる。これは明らかな社会ダーウィニズムの残党であるが「100年以上前の時代遅れの思想がいまだに残っている!」と、「知性の発展」を嘆くのではなく、この社会システムとダーウィニズムが、時代に関係なく相性がいい、という事実をこそ嘆くべきだ。システムとは、経済主義であり、それを「同意」として(した、と偽り)編まれた、自由主義・民主主義である。外部なきシステムに外部を見出すためにどのようにすればよいのか?システムを壊すこと?私はアナーキズムは決して望まない(人間の性質について、トマス・ホッブズに賛成するからだ)。一つ考えられるのは、私たちが使用する言葉、語彙を慎重に考え直すことだろう。これらの言葉がいかにシステムにおける「バグ」であるか、考えることが求められているように感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?