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6-06「悩:詩コンプレックスと近代的人間の質」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は屋上屋稔「 印刷された音楽と、手紙のような音楽について」でした。

5、6巡目は「前の走者の文章の中から、一文を抜き出して冒頭の一文にする」というルールで描いています。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

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私には「詩」を書くことができない
というコンプレックスがある。それは形式的にも内容的にも、である。「詩」という形式の表現を読まないからなのか、理解していないからか、好き嫌いの問題なのか。私は音楽を作る人間で、音楽は詩的感性が重要な要素の一つのはずだが、音楽制作を通じていわゆる「詩」を感じた時は一度もない、とおもう。

「偉大な行為の再現だ」というのは、アリストテレスの有名な詩についての理論である。当時のアテナイ人にとって、詩(悲劇)と、それが演じられる劇場とは、自分たちの信仰を確認しあったり、思想を再生産したり、あるいは現実の事件を伝えあったりするようなメディアであったので、かなりの程度政治的な視点が含まれている。また、彼の師であるプラトンははっきりと「(詩とは)教育であるべきだ」と言い切っている。だがアリストテレスの分析は、こうした点を差し引いても十分に(純粋に、というべきか)作品としての「詩」という現象の性質を言い得ているように感じる。「偉大な行為の再現」とは、つまり、過去に関わる事をイメージとして現前させる事、とでも言えようか。

「詩」はこの時代において、ある特殊な「説明」の形態として存在していたことだろう。ペルシアとの戦争も、神々の起源も、おなじ劇場で同じ緊張感でうたわれていて、「現実か否か」の区別は、私たちが感じるような仕方でははたらいていない。彼らアテナイ人にとっては、どちらも重要な「現在を構成する要素」であり、詩はそれを人々に説明するものだった。プラトンはだから、彼の国家から詩人を追放しようとしたのだろう。「現実か否か」の区別を曖昧にしたままに鑑賞者を熱狂に巻き込んでしまう「詩」に対して、彼なりの誠実さで畏怖を表明したのだと思う(余談だが、彼は詩人になりたかったが、彼に才能がないことをソクラテスに見破られて哲学者になったという。出典は失念したが、あり得そうな話)。

アーネスト・ゲルナーの著書「民族とナショナリズム」によれば(多少乱暴に彼の理論を援用すれば)、「詩」は「国家」や、政治的中枢における、支配の道具である。プラトンの立場と同じく、ゲルナーの「詩」は人々を教育するもの、文化を再生産するための道具である。それもとりわけ、ナショナリズム的な感情に関係するという。同じく人類学者でバリ島を調査したクリフォード・ギアーツの著書「ヌガラ」も、「詩(的現象)」に対して同様の機能を見出している。それは島民全体に彼らの起源を説明するメディアであり、彼らの行動の規範を形成するものである。

私たちが「詩」といったときに想像するものに対して、古代ギリシアの人々やバリ島の人々の「詩」の機能は、少々、というか結構な違いがあるように感じる。私たちはもっと個人的な問題を考える時に「詩」という表現を用いたくなるが、前述したような場所や時間の中では、全体的な問題をとりあつかっているように思える。ところで「個人的」という感覚こそ、私たち(=誤解を恐れずに言えば、西洋文化に影響された共同体の一員としての私たち)を私たちたらしめるものである。すなわちそれは、「近代」という時代区分以降の人間の感覚である。フランシス・ハチスンや、その弟子であるアダム・スミスらが「内面」とか「道徳感情」といった、いわば「精神的な生活」の次元を発見したことによって、こうした感覚が芽生えた。またここで重要なのは「個人的な感覚が、社会的に芽生えた」という点である。私たちがよく知る「社会」の重要な一つの展開がはじまる(均一で、社会的畜群としての個人、この一点に強烈に噛み付いたのは、ニーチェである)。

近代社会を形作る「内面」としての「道徳感情」、この働きが現在の私たちの「詩」についての一般的なイメージを形成している、と言っても言い過ぎではないと思われる。これはまた、芸術表現全般に広く当てはまることで、それぞれの形式が近代の呪縛の上に成り立っている事を物語っている、とも言いたくなる。

さて、近代的で個人的体験である「作品としての詩」と、人類学的で全体的体験である「機能としての詩」という雑な区分を継続させて、私が「詩を書くことができない」と感じる事を掘り下げてみると、私は、個人的な内面、感情を表明する事に対して嫌悪があるのかもしれない。この嫌悪はそれこそ個人的なものであるが、「詩」という形式に対する苦手意識を生んでいるように思う。そして一方で、人類学者たちが説明してくれたものの方に納得がいくのを実感する。詩に関する解釈において人類学者たちと友人関係をむすんだプラトンやベンヤミンに私は同意する。彼らの「詩とは政治的であり、集団にとって薬でもあり、同時に毒でもありうる」という主張、両義性こそが詩という形式の魅力である、という主張に、おおきく頷きたい。「個人的にもなりうるし、全体的にもなりうる」という点をこそ、最大限に理論的に考える必要があるのではなかろうか。

ところで、「言葉」というものが「詩」の材料として重要な要素になっていることは言うまでもないだろう。言葉とは、為政者が支配のために作ったシステムであり、税金を測って報告説明するために数字から変形して生み出されたものだ、というのは、著書「ゾミア」のなかでジェームズ・C・スコットが述べていることだ。言葉は決して、人間の欲求に従順で、持ち主の自律性・自由意志に属するものではなく、政治経済的な道具として階級関係の中で生み出されたものである。長い時間のなかで支配される人々は無条件に受け入れていくわけだが(習慣によって。そのほうが、圧倒的に楽だからだ)、血生臭い歴史の上に刻まれた記号であることを、スコットから学ぶことができる。

こうした観点を踏まえたうえで、「詩は言葉をどのように評価しているのか?」こそが、「詩」について考える時の重要な問いであることは間違いないだろうし、一見理解を深めたかに思えた私の悩みも、この問いかけによってさらに困難な、しかし責任あるものになったように思われる。責任とは、この文章のなかで絶えず目配せし続ける、「近代とは?」というテーマについての責任のことを言っている。

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