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だったら壁にでも話してろよ(2)

老害への目覚め

同じ会社にて勤め人を10年以上続けているので、最近は若い社員たちと関わることが増えてきている。技術職ということもあって、じぶんたちの担当している製品について教えることが多いのだが、「この子年数の割にはあんまり身についてないな…」と思うことがある。そしてそう思う自分自身を「老害」じみてきているなあと感じている。

生き残った数少ない同期とのとりとめのない雑談になったとき、彼はよく部下のパフォーマンスに対する愚痴を口にすることがある。その場ではまぁまぁとなだめ役に回るのが常ではあるが、俺たちの10年前はどうだったのだろうかと思い返すことがある。幸いなことに、私は配属当初から海外赴任までのほとんどの期間の業務日報(当時の上司との交換日記のようなもの)があったため、満8年くらいはやってきたことが詳細に記録されているし、年に一回は自身の業務棚卸の一環で自己紹介用のパワーポイントを更新するようにしているので、今までの足跡をたどることは容易でもある。それを見返しつつ、今の年次の浅い若手の子と私、そして私の上司たちとの違いを考えてみる。

負荷に対する考え

負荷量に関して

年次の浅い若手の子、たとえば今の2年目の子と私の2年目を比較してみると、基本給は物価上昇が加味されているので、私が入社したころよりも数万円上がっている。そして、勤務時間も時間管理が厳しくなっており、残業時間もあまり多くならないようにコントロールされた状態であることが多い。客先に出されることが滅多にない今の若手と、問題が解決するまで帰ってくるなと言われて英語の通じる人が少ない欧州の地方工場にひとり2週間飛ばされたり、開発案件のために月イチのペースで中国の客のところに出向きボコボコにされたり、客先の技術者と直電でその場での回答を求められた日々を過ごした基本給20万円の2年目の私。CADのやり方をゆっくり教えられている新人と、今日中に◯枚描けと言われて必死でやり方の模索からしていた2年目の私。実験は手取り足取りじっくりとやり方を教えられている新人と、検証事項と実験方法から自分で全て書いて上司に承認をもらいに行った2年目の私。

簡単に言えば、「今の若手の子は大事にされている」と言える。ただでさえ人手不足の中、簡単の辞められてしまうと困るから、あまり負荷をかけすぎるなという風潮がある。負荷がかからない分、当たり前だが伸び幅はそれほど上がらない。定時帰りで負荷が下がったからといって、仕事終わりの余暇の時間を自己研鑽に使う「酔狂な」人はそうはいないから、結果として全体としての平均値が下がっているようにも思える。

さて、自分たちよりも上の人たちに目を向けてみる。いわゆる昭和のモーレツ世代である彼らは、定時ナニソレ?残業代ナニソレ?午前様は当たり前という世界で仕事をしていたことを、飲み会の場や残業で遅くなり人がまばらになった事務所などで、エピソードトークとして聞くことができる。午前二時に実験室に行くフリをして駐車場へダッシュして帰ったとか、逆に部下が午前一時過ぎからこれやりたいから今からやってきます!と言うのを止められず、午前3時まで帰れなかったOBの話。会議室で段ボールを敷いて寝ていた話…今となってはこれらを笑い話にしているが、当時同じような立場だったら間違いなくドロップアウトしているだろうなあと思う。伊達に会社で30年生き残ってきた人たちだ。絶対的な負荷量が違いすぎる。

負荷量の絶対量が高い世代が私たち中年世代を見ていると、「ぬるい」と感じていることは多く、それを如実に表す指標として「資格試験に対する取り組み方」にあると言う。「昔は、資格試験に落ちるなんて許される行為じゃなかった」と多くの偉い人が言うのだが、私ら「ゆとり世代」あたりでそのパラダイムに明確な変化があり、普通の資格試験に普通に不合格になるケースが増えたという(恥ずかしながら、私と同期がその風潮をつくった側である)。プレッシャーを与えられることなく取り組んでいること自体に、違和感があるようだ。私たちがつくった風潮は近年の若手にもしっかりと浸透しており、最近は偉い人たちもすっかりとあきらめ気味なのは見ても良くわかる。

話をもとに戻すと、年次に対して踏んでいる場数や負荷の絶対量は今の勤続30年クラスのひとたちから見れば年々下がっていることは間違いないし、後述の事情でこの差を埋めるのは今の時代はなかなか厳しいのではないか。と思う。

負荷量とセンス

私はビデオゲームを趣味とする人間で、よくゲームを○○時間プレイしたとnote記事にも書いているが、負荷の絶対量(=ゲームのプレイ時間)はある程度ゲームがうまくなる指標でもあるし、勉強にせよ、スポーツにせよ、先ずは絶対量をこなすことが重要である。野球におけるキャッチボールや素振り、ピアノにおけるハノンなど、基本的な動作の繰り返しによりそれらを身体にしみ込ませていくことは絶対的な時間が必要となる。ただし、基本的な動作を身に着けられたところで、野球でレギュラーを張ることはできるわけでもない。あなたの学校のエースや4番は、果たして練習の虫だっただろうか?それは得てして違うことを、ある程度の人生を歩んできた人間ならわかるだろう。量をこなすことと、その力に能うことは別問題である。

私はよく「センス」という言葉を使う。この場合の「センス」は「やりこみ量に応じて身に着けられる能力量」だと解釈してくれれば良い。なぜ同じ授業を受けていても彼は成績が常に一桁なのか。練習をさぼっていても140km/hをバンバンキャッチャーミットに叩き込めるの彼はどうやってその能力を身に着けたのか、理論値平均勝率50%(必ず勝ち負けが決まるという意)の対戦ゲームで70~80%勝てる人はどうしてそこまでの強さを身に着けているのか。これは凡人の目線から見たら「センス」の3文字で納得するしかない。センスの高い人間は何もせずとも勝手に何かしらを得はじめ、自らの力でどんどんと前に進んでいく。大阪大学に通ってた私は、そういった「センス」の違う人たちをたくさん見たおかげで、自分自身のセンスのなさを自覚して、謙虚な姿勢を持ち続けてられていると思っている。え?老害が始まったってさっき言ったじゃないか。

そして今の時代、この「センス」が非常に重視されているように思える。働き方改革で残業なく効率よく業務を終わらせることは、それこそある程度「やりこみ」が済んだ年次の進んだ立場になって初めて考えられるようになるものであって、2年目やそこらの新人が効率よく業務を終わらせることなんてほとんど無理に等しい。定時という概念がなく、主要な連絡手段が電話とFAX、郵便書簡だった昭和のモーレツ世代は、「待ち」の時間がたくさんあったし、製品と向き合い、やりこむための時間がとにかくあった。対して今の若手はメール、Web面談ツールといった情報伝達の速度が上がり、定時内で仕事をしろという「正しい」運用と複雑化した業務フローにより、やりこみ時間およびセンスを培う時間がとにかく乏しくなっている。センスはもちろん人それぞれに違いがあるのだが、仕事の世界はプロスポーツの世界ほど良いセンスを持っていなければ生きていけないということはなく、仕事を通じてセンスを磨くことが大事だと思っているし、現に自分自身も仕事をこなしたり自学自習をする中でそれができてきたから今の立場があると思っている。でも今は「センス」がないと3年やそこらで頭角を顕せずジョブローテーションの対象となり、何もかも中途半端になってしまう。そして、そのセンスを最初から備えている人間は、私が所属するような一流企業でもない一般企業では、数年に一人出ればいい方である。

効率につぶされたバッファ

これは非常に心苦しいことなのだが、今の若手には「じっくりと考えさせる機会」をとにかく削ってしまっていることが多い。自分自身のことを振り返ると、技術職というのもあって、一日がかりで何かを検討し悩んだ結果特に何も進展しなかったということが許されている環境でもあったし、結果を出すためには必要な時間だったとは思う。今は効率とセンスが求められている以上、じっくり考える時間というバッファが与えづらくなっているし、仮に若手がディスプレイの前でうんうんと唸っていたら「どしたん話聞こか~」という理解のある上司君ムーブをかまし、舵取りをしてしまう。そうでないと業務が回らない状況だからだ。そう思うと、昭和のモーレツ世代から聞くエピソードトークの中で「こんな試験を思いついてやった」とか「試験のついでにこれも確かめておいた」みたいな知見がポンポンと出てくるのは、まさに多くあったバッファに由来しており、無駄かもしれないその時間が後々大事な財産になっていくのだろう。

最初に述べた負荷の絶対量の少なさと、それに伴うバッファの無さを重ねて、今の若手の人は非常にやりづらいだろうなあと思う。そんな中で、私たちにやれることは、頭数を減らさないようにできる限り負荷を感じさせない仕事の割り振り、成長を促す適度なプレッシャーを与えること、そして、抜群のセンスを持つ外れ値のような人間が来ることを待つこと…かも、しれない。ほっといたら育つ時代は終わったとけど、ほっといたら育つ人間ほどありがたいものはない。

そろそろちゃんとゲームの記事を書きたい(まだ1つしかクリアしてない)

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