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慶喜公とは(2)

この方は幼少の頃から聡明だったようで、本来なら7男の身の上では家来や家格が下の家の養子に出されるのですが、国許で跡継ぎの候補として育てられました。

前に言った通りそのまま水戸藩に留まれば将軍になることはなかったのですが、その優秀さを買われ、御三家とともに将軍職につける"御三卿"の内の一つ、一橋家の家督をわずか9歳で継ぐこととなりました。

またその際、彼の父親は彼が将軍になるよう働きかけしています。

この経緯は利発な本人からすれば、「大人たちの都合で、僕の人生がコロコロ変わる」と内心思っていたかもしれません。

水戸家家訓である「尊皇」と、親元での暮らしも叶わず、政争の元になっている自分という「シニカルな物の見方」が、人格形成の土壌となったかも。

と、僕は彼の"その後の振る舞い"から想像してしまいます。


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