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「倫理」について、考えてみる。
もし、「危険」に立ち向かうとしたら、それには自分の身がどのようになろうとそれは厭わない「覚悟」が必要でしょう。
でもそれ以上に大切なのは、自分の身を危険に晒したとしてもそれを乗り越えていけるだけの「準備」をすることだと思います。
国を守るために戦う兵士や、火事や遭難の時に救助に向かう消防隊員、抵抗する犯人を取り押さえる警察官は、「その時」のために訓練を欠かしません。
このように、「危険」に対しても、それを覚悟し準備を怠らなければ、それは「適正な行為」とされます。
「適正な行為」とは、その行為が"自分の能力に見合う"ということであり、それを持ち得るにも拘らず行わないのであれば、それは「怠慢」で、それに満たない能力であれば「怠惰」と呼ばれます。
では「危険」に立ち向かうことを、なんの訓練も受けていない一般市民が行ったとしたら、どう思われるでしょうか。
「勇気」は買われるでしょうが、"自分の身の丈に合わないほどの行為"であれば世間では、それは「無謀」と呼ばれます。
このことからおそらく「倫理」とは、「勇気を自分の身の丈に合った行動で示す」ことを指すのではないかと思われます。
「危険」に対してそれが自分で対処しきれないと思えば、それを回避するのも「倫理」的なのです。
「三十六計逃げるにしかず」です。
誰かが襲われていたり、溺れている人を見かけたら、自分の身は安全を保って誰かに連絡して助けを待つ。戦禍に見舞われたら、志願して武器を持つ気が無ければそれから逃れる。
これらも「倫理」的なのです。
さて、「怠慢」だ「怠惰」だ「無謀」だと思われる行為でも、自分の中で「納得できる」のであれば、どう思われてもそれは構わないでしょう。
という事で、人間は「倫理」的に振る舞わなければ社会的には非難を受けますが、強制出来るものではありません。
その選択は"自分の中"で「許されている」のですから。
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