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二河白道
日曜日に出勤する時は、NHKの「こころの時代」を見てから家を出ています。
この番組はさまざまな宗教においての教えを説いたり、実践している方々について丁寧に伝えてくれるので、とても勉強になります。
「じゃ、出勤しない時も見れば?」と思われるかもしれませんが、自分はまだ"眠い"という「煩悩」に囚われているので、ご容赦のほどを😅
今日は歎異抄での「不条理の向き合い方」についてのお話しでした。
歎異抄とは、鎌倉時代後期に浄土真宗の教祖である親鸞の弟子である唯円が師の教えが誤って伝わっていることを"嘆き"、その本当の教えはなんなのかを説いた書です。
仏教は伝来して以来、学僧たちが"仏典を読み解く"というスタイルでした。
そのため仏教は徐々にエリートによる学問化、権威化が進み、やがて仏教自体が権力を持つようになり政治に影響を与えていきます。
そして自らも独立した自治勢力として朝廷や領主に対し、要求に従わなければ地獄に落とされると「仏罰」を盾に僧兵による強訴(ごうそ)等の実力を行使していくことになるのです。
この時の仏教は、いわば「唯我独尊」イコール「横暴」または「傍若無人」をまさに"絵に描いたような"状況でした。
そのような中、浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで「極楽浄土」へ行けるという、とてもシンプルでわかりやすいものであるが故に、仏典に触れることが出来ず、さらに理不尽な状況に常に晒されている、力を持たない民衆に受け入れられました。
しかし、シンプルでわかりやすいものは解釈がいかようにもできるため、極論を言えば「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば、何をしてもいい」という誤りに陥りがちです。
それを唯円が師の教えを正しく伝えたいという思いの下、歎異抄を書き上げました。
人間は生きている限り不条理な出来事を感じたり遭遇したりしてそれに対し、怒りや絶望などの負の感情に陥りがちです
また、自分がしたい事をやってしまう欲にも囚われてしまいがちです。
それらから救われる方法を例えたのが、題名である「ニ河白道」です。
ある旅人が西に向かい旅をしていると、後ろから盗賊や猛獣に追いかけられています。その旅人の前には百歩程度歩けば対岸に行ける川がありました。
しかし、その川の南側は「火の河」北側は「濁流」です。
その間に人一人がやっと通れる「白い道」があり、そこを通り抜ければ「浄土」へ行くことが出来るというものです。
ここで、火の河は不条理なものに対する「憤怒」、濁流は捨てられない自分の「欲望」、盗賊や猛獣は自分の「迷い」を表しているそうです。そこに浄土に至る白い道は極楽浄土を願う「清らかな心」があるという事です。
浄土真宗の教えは「悪人正機」です。
「善人なおもて往生を遂ぐ。ましてや悪人をや」という、あれです。
ここでいう「悪人」とは「罪を犯した人間」ということではなく、「様々な煩悩に囚われた人間」の事を指します。
心を持った人間で、煩悩がない者はいないのではないでしょうか。
浄土真宗は、そんな様々な煩悩に囚われた人間を「あまねく救う」阿弥陀如来の本願を教義としているのです。
他の宗教なら、「その白い道から落ちるな」と説くのでしょうが、浄土真宗は「落ちても阿弥陀如来が救ってくれるから心配するな」ということです。
ここで本当に大事なのは、その「白い道」は確かに「自分の中にある」という"思い"なんだと思います。
それがなければ、「空念仏」と言うことなんでしょう。
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