「形而上学」的正義(3)
人間は、常に「変化」します。
身体のみをとっても、代謝の程度により「成長」と「老化」が科せられています。
思考についても、経験や知識の蓄積により、より「深化」していきます。
それらが"相互に作用"しながら人間は「行動」しているのです。
僕が考える「正義」とは、変化する自分を持ってしても"譲るべきものでないもの"を見つけ、それを"護ろうとする"「意思」と「行動」のことをいいます。
ですので、それらが伴わなければそれに意味はないと思っています。
例えば、新撰組が掲げた正義は幕府への"忠義を尽くす"という「意思」と、薩長という"官賊を討つ"という「行動」が、人々の"心を打ち"、数多くの「作品」として表現されているのです。
しかしそれは"新撰組の意思と行動"であって、それを「全ての人の正義として当てはめることは出きない」のです。
「形而上」とは、理性的存在が"共通して認識できるもの"であるものを指します。
正義のあり方が"人によって違う"ならば、それは「形而上」とは言い難いのではないかと思います。
ましてや「神から賜ったもの」などではあり得ません。
意思と行動は、あくまで「自分で決めるもの」です。
"人の掲げる正義に乗る前"に、自分は「何をしたいのか」を、考えることが大事だと思います。
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