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救急車の匂い

「救急車ってさあ、車の匂いなんかなあ?それとも病院の匂い?」

職場の先輩と「車内の匂い」の話になったときの言葉である。

確かに言われてみれば見当もつかない。
車内は他人の家ほど匂いが違うものだ。

しかし救急車などそう身近なものではない。
父が指を皮一枚残して落としかけた時と、父がヤクザと交通事故を起こして頭をカチ割ったときにしか緊急搬送されていない。

「それめっちゃ気になるね笑」

共感はしつつ自分には縁遠いと笑っていたのに、わたしはこの数日後答えを知ることになる。


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当時のわたしの仕事は「何でも屋」だった。
与えられた仕事を淡々とこなす。
実に簡潔明瞭なものであった。

その日のわたしの仕事は「ポスターのトンボ切り」。

ポスターは写真のように白枠ができないよう、規格より大きくはみ出させて印刷し、「トンボ」という印を頼りに余白を切り落とす。
コツは、定規を動かさず、なるべく一太刀で切ること。

この時のわたしはこの「一太刀」にこだわりすぎて手元をよく見ていなかった。

オルファしたてのカッターでスーっと切った、ポスターではなく定規を押さえる人差し指を。

1.5cmほどの傷口から血が滲み出るのを見た。
一大事だった。


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一大事だったのは指を切ったことではない。
出血の瞬間とその量を目視してしまったことだ。

「迷走神経反射」という言葉をご存知だろうか。

何らかのストレスにより急上昇した血圧を、無理やり急降下させる反射である。
簡単に例えると、ドラマで感情的な中年女性がショックの余り失神するアレである。

急降下した血圧では脳に血液が行き届かなくなる。つまり脳貧血状態だ。
吐き気、立ちくらみ、失神などの症状が起きる。
以前から何度か経験はしていたが、その時は溢れ出た血の量への恐怖心が尋常でなかった。

デスクに戻り、ティッシュで固く傷口を押さえ、総務に緊急救護の依頼をして、うずくまった。
異変に気づいた上司に声をかけられたが、答える間もなくイスから転げ落ちた。


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目を覚ますと上司の腕の中だった。
周りは他部署の人たちと事務局の偉い人に囲まれていた。
救急車の手配がされているが、わたしの年齢がうまく伝わっていなかったことをおぼろげに覚えている。

「あれ?わたし寝てました?てか鼻血でてます?」

顔面にじわじわと感じ始めた痛みと、鼻の下が湿っていることが気になったのだ。
みんな心配してくれているのに、なんと間抜けな第一声だったろう。

「顔面から落ちちゃったんだよ。鼻血は出てないけど、擦り傷と、その…おでこのたんこぶがすごい…」
そう説明をしてくれた上司に「そりゃ当分出勤できないっすね笑」と答えたわたしは間違いなく best of AHO だ。


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救急車はものの15分ほどで到着した。
2名の救急救命士は、あまりにもケロっとしたわたしをみて、無の表情だった。

事情聴取ののち、諸悪の根元「人差し指の傷口」を見せることになった。
「絶対こっち見ないでゆっくり手を開いて~」
そう促されるが、恐怖の余り手が開けない。

「はい開いて~」
「…」
「開いて~」
「…」
「開いて~!!!」

最終的に無理やり開かれた。
「あ、もう血止まってるね。」
失神中もがっちり止血し続けていた成果だった。


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頭部を強打しているため、救急外来に搬送され、CTを取ることになった。

しかし、ここで究極の問題が発生する。

ストレッチャーで移動させたいのだが、職場が超絶バブリーデザイナーズ物件のため、ストレッチャーを搬入できないのだ。
しかし、わたしも不用意に動けない。

最終的に選択された方法は、デスクチェアでゴロゴロ救急車に運ぶものだった。
忘れもしない、人生最大の屈辱だ。


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搬送先は職場から激近の総合病院だった。
もはやガソリン代の無駄である。

病院に到着してから処置を待つ間も、明らかに「緊急搬送」の患者さんが次々と運ばれてきた。
場違いにも程がある。

どうにか順番がきてCT検査も異状なし、指の傷の処置に移った。
担当は研修医だった。
わたしの傷口を見たとたん、困惑した。
こそこそっと先輩医師に教えを仰ぐ。

「これ、縫合ですか…?」
「…これは、がっちりテーピングすればくっつくね…」

今後の人生、これ以上の恥はないだろうと悟った瞬間だった。


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頭部強打の経過観察のため、後日緊急外来への再診が指示された。
正直初耳だった。

予約日、受付で「緊急外来の再診です」と伝えた。
この言葉、たぶんもう言う機会はないと思う。

緊急外来の前で待っているのはわたしだけだった。
しかし、どうしたことか、一向に呼ばれる気配がない。

どうせ休みだし、と思って緊急外来を見ていた。

「◯◯さーん!わかりますか!?!?」
響き渡る絶叫。

「も、もも、も、申し訳ございません…!!!」
交通事故の加害者家族が、鬼の形相で怒りを抑える被害者家族に涙声で謝罪をしている。

めっちゃ「緊急外来24時じゃん」。

確実に頭が悪いのは強打のせいだろうか。
そんな頭でも、この状況で自分の優先順位が最低であることは感じ取っていた。


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3時間待ってから、さすがに思い腰を上げて受付に呼び出されないと伝えた。

秒で呼び出された。

「大分待たせてすみませんでした!その後頭痛や吐き気はないですか?」
「はい」
「傷口診ますね。…これならもう大丈夫です!お大事にしてください!」
「ありがとうございました…」

恥が累々と重なっていくことにも、もう既に慣れていた。


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後日、先輩から事情聴取を受けた。
体調管理不足ゆえの貧血だと思われたらしい。

「血を見たショックで倒れたんです」
「…???」

あらゆる方から「漫画にしかいない人種だと思ってた」という感想をいただいた。

そしてそこから数ヶ月、わたしにはカッター使用禁止令が出された。


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救急車に乗るとき、デスクチェアに乗って移動するわたしを、あらゆる部署の偉い方々が笑うことなく見送ってくださった。

救急車の中では
「緊急連絡先に連絡!」
「バイタルはかります!」
「受け入れ先決まりました!」
と医療ドラマさながらの光景が広がっていた。

付き添いで同伴してくださった総務さんはとても優しい方で、わたしの余りの弱さに「なんて気の毒な…」と涙してくださった。

そんな状況でわたしはひとつ、実感したことがある。


「救急車って、病院の匂いだわ。」


おしまい

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