ガス室の世界

25歳より前のわたしにとって、世界とは、ガス室のような場所でした。

ガス室は、どこまでもどこまでも果てしなく続いていて、出口などないように見えます。いくら吸っても呼吸は苦しく、身体は毒にやられてしびれ、まともに動くことができません。ガスにはうっすら色がついていて、どこから発生しているのか、ぱっと見ただけでは分かりません。

小学校低学年のころぐらいから、わたしは「ここから出たい」「新鮮で綺麗な空気を胸いっぱいに吸えるようになりたい」と常に考えるようになりました。本を読むのが好きだったわたしは、ほどなくして「この世界には外側がある」と気づいたためです。
苦しいのは毒ガスのせい――意地のわるい教師たち、近所の大人と子供、ちょっとしたことで火がついたように喚く年寄り、幼稚園や小学校の同級生たち――彼らが発生させる気体である、ということが分かってきました。

しかし、幼いわたしには、広大なガス室を出ることができませんでした。
どこまでもどこまでも遠くまで歩いていき、川の向こうのジャスコまで行って親に叱られたりもしました。
それでも結局、わたしはガス室を出ることができません。

あきらめずに試行錯誤するうち、わたしは、そのガスが可燃性であることに気づきました。
それからというものの、清浄な空気を得るため、わたしは毒ガスに着火し、爆破しつづけました。火打ち石を動かせる間ずっと、わたしは毒ガスを爆破させつづけました。

読めないし吸えない空気は、発生源もろとも焼き尽くせばいいのです。

ガス室から出られないわたしは当然まきこまれる訳で、爆破すれば全身が大やけどを負います。しかし、爆発させればその直後、たしかに清浄な空気を吸えました。
わたしには決して辿り着けないどこかに外の空気があり、毒ガスを消し飛ばせば、そこから綺麗な空気を一時的にでも取り込むことができるからです。

爆破は1回2回では済まず、50か60回くらいは続けたと思います。爆発は、周囲の同級生や上級生、教師たちの物理的・精神的な集団リンチとして何度もわたしに襲いかかり、わたしに全身ひどい火傷をつくりました。
まわりの人たちも、わたしを遠巻きに見ていました。わたしを中心に、定期的に大規模爆発がおこり、近くにいれば同じく火傷するわけですから、無理のないことです。

しかし決して、まわりの人間すべてがガスの発生源ではありませんでした。
清浄な空気をもとめ、どれだけ非難されても着火をつづけるわたしに、すくなくない人々が応援してくれていたのです。
彼らもまた、毒ガス室に入れられる息苦しさに苦しんでおり、わたしがつくる清浄な空気で一時の安息を得ていたのです。
わたしは、できれば手伝って貰いたいとは思いましたが、彼らを不快に思ったりはしていませんでした。

空気はみんなのものです。きれいな空気が吸いたいのは当たり前です。
しかし、みずから爆発を起こして火傷を負うのは、それなりに勇気のいる行動です。
他人に強要すべきではありませんし、自身を含めて周囲を爆破しないからといって不快がるのはお門違いというものです。

悪いのは、きたない空気を垂れ流す奴らです。非難すべきは、倒すべきは奴らなのです。

毎日毎日爆破し、時には疲れ果てて学校を休み、それと平行して、わたしはガス室を脱出する道を模索していました。具体的には『良い学校に進学し、良い会社や良い住環境に行く道筋をつかむことで、呼吸すらままならない今の環境を脱出する』ために勉強していました。
さいわい、毒ガスでフラフラでも最終的に(※大学進学までには)難関校に合格できるくらい、わたしは天才でした。

高校からは安めの私立に入れてもらうことができ、そこでやっと、わたしは深呼吸できる程度に清浄な空間で生きられるようになりました。
もちろん、そこにも毒ガスはありました。しかし、幼稚園から中学校までの濃度にくらべれば、『爆破直後くらい清浄』な空気を吸うことができました。

さすがに、生まれついて毒ガス漬けで頭のおかしくなっているわたしでは、高校で出会ったマトモな大多数の人に仲良くしてもらうことはできず、まるで馴染めませんでした。
とはいえわたしも、もう友達をたくさん作ろうという意志はなく、「とにかく毒ガスを吹きつけられなければそれでいい」と気楽に構えていましたし、その水準でいえば、前例のない比類なき大成功をおさめていました。

わたしは、高校に進学して初めて『勉強や部活動を一生懸命がんばる生徒を応援し、あたたかく見守ってくれる教師』という、本や創作の世界でしか見たことのない生物をこの目で見ることができました。やはり、毒ガスがあるのとないのとでは、生きている生態系からして全く違います。

超高濃度の毒ガス室から脱出したわたしは、たっぷりのきれいな酸素を胸いっぱいに取り込み、それまでとは比べものにならないパフォーマンスを発揮しました。
ストレス過食で80kg以上だった超肥満体の身体は、60kg代にまで劇的ダイエットに成功しました。
学業成績は、通っていた某T予備校の理想線を描いてメキメキ上昇し、はじめは予備校の先生すら期待していなかったランクを何校も合格するに至りました。
この成果があまりにも劇的であったため、わたしは当時の学生インタビュービデオの校舎代表に抜擢され、高校でも予備校校舎でも顔を知らぬ者がほとんどいないのでは?というくらい、知られるようになりました。と、いっても、わたしは誰とも会話しようとしない(というか、やり方がよくわからなかった)ので、めっちゃくちゃ二度見されるくらいの変化しかなかったのですが。
受験終了後は、母親が予備校新聞のインタビュー取材を受け、桜蔭高校(※めちゃくちゃレベル高い高校)出身東大合格者の女子学生の母親と並べて掲載されました。予備校が出している刊行物で、卒業生6人ほどの座談会に参加させてもらったところ、それから5年・6年経っても現状インタビューの依頼を頂きました。(※使っていないメールアドレスに年1の頻度で連絡をいただくため、ずっと見落とし続けています)

しかし、華々しくハイレベル大学に入学し、成績にも問題なく卒業し、無事に内定を頂いて有名企業に就職させていただき5年、あらたな問題にぶち当たりました。

ガス室育ちが、わたし以外にいないのです。

生まれつき当たり前に清浄な空気の中で育った人しか職場におらず、彼らと同レベルの超高度なパフォーマンスを求められてしまいます。
「職場改善のために問題をみつけて」などといった、例えるなら『人体に害のないちょっとした悪臭の原因や出所をつきとめろ』のような課題がわたしにも課されるのです。
致死レベルの毒ガスの中を長年生き続けてきたわたしにとって、それは無理難題でした。毒ガスを吸い続けると死んでしまうので爆破するか逃げるしかありませんが、悪臭なら我慢できるし、誤差範囲というか、正直まったく感知できません。

わたしは、つかえるかぎりの表現でそのことを上司やトレーナーの先輩に伝えようとしましたが、まったく通じませんでした。
わたしの表現がつたないのも一因でしょうが、それ以上に、彼らには、そのような特濃の毒ガス室に閉じ込められた人間が生きている現実を想像できず、言葉で言われたくらいでは到底理解できなかったのです。

仕事なので、できないからといって断れません。「できない」とは言いましたが、断らせてもらえません。しかし、できないものはどうしたってできません。できないことを「やれ」と言われ、できなかったから責められ続ければ、いずれ心を病んでしまいます。

そうして、わたしは現在、とうとう休職するに至り、傷病手当金を貰って生き長らえています。
働かなくてもお金が貰える身分になれたのは収穫ではありますが、病気になるために頑張ってきたわけではありません。やはり、元気に働きつつ適度に余暇をもってお金を貰いたいものです。

一体全体どうしたらいいのか、今のわたしにはまだわかりません。
休職から約半年、現在28歳・独身・一人暮らし。もしかすると乗り越えられず死ぬかもしれない障壁へのわたしの挑戦は、今後もまだまだ続くようです。

以上

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