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【早川家住宅】「地下鉄の父」郷里に残した青年道場の夢

はじめに

 早川家住宅は、東京に東洋初の地下鉄を開業させた「地下鉄の父」こと早川徳次の生家に建つ建物であり、笛吹市一宮町で土偶で有名な釈迦堂遺跡にほど近いふもとの桃畑の中にあります。
 徳次は「のりつぐ」と読みます。シャープの創業者も早川徳次ですが、こちらは「とくじ」と読みます。
 この住宅は、1941年~1942年(昭和16年~昭和17年)に建築された昭和和風建築で、国の登録有形文化財に登録されています。個人の所有となっているため普段は公開されておりません。本稿も外観のみの紹介です。
 2021年(令和3年)は早川の生誕140年の節目でした。地下鉄博物館では記念展が行われましたが、生誕の地の笛吹市で大きく扱われることはありませんでした。
 ただし、市民グループ「早川徳次ふるさと後援会」が定期的に住宅の見学会を開催するなどして、10年前から功績を広める活動をしています。

早川徳次

 早川徳次(1881年~1942年、明治14年~昭和17年)は、御代咲村(現在の笛吹市一宮町)に7人きょうだいの末っ子として生まれました。父常富は村長を務めました。

早川徳次 出典 : 山梨近代人物館HP

 政治家を目指した早川は早稲田大学在学中より後藤新平(1857年~1929年、安政4年~昭和4年)の書生となり、卒業後は後藤新平が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社しました。その後、同郷で山梨市出身の「鉄道王」こと根津嘉一郎(1860年~1940年、万延元年~昭和5年)のもとで佐野鉄道(現在の東武佐野線)と高野登山鉄道(現在の南海高野線)の再建を成し遂げ、根津の信頼を得ます。

 根津嘉一郎については、拙稿も参照ください。

地下鉄への情熱

 1914年(大正3年)、ロンドンを訪問した早川は地下鉄の発達している街に衝撃を受け、東京に地下鉄を作ることを決意します。
 早川は、渋沢栄一ら実業家に出資を願い出るために地道な調査と裏付けを取りました。有名なのは豆を使って数えた交通量調査と、軟弱と言われた東京の地質調査でした。
 1920年(大正9年)、資本家や政治家たちの説得が実り「東京地下鉄道」の設立にこぎつけます。関東大震災や第一次世界大戦による恐慌など困難な状況に見舞われますが、1927年(昭和2年)に浅草-上野で東洋で初の地下鉄を開通させました。

地下鉄起工式で杭打機のひもを引く 出典 : 早川家蔵
東京メトロ、銀座駅日比谷構内にある早川の銅像 出典 : 山梨近代人物館HP

五島慶太との対立

 自動改札を導入したり、火災時の安全を考え鋼製の地下鉄車両にしたり、さらには百貨店の地下に駅を作る代わりに駅の建設資金を負担してもらう。また地下鉄ストアを営業するなどアイデアと多角経営で地下鉄を軌道に乗せた早川でした。路線は上野から神田、新橋へと延伸しました。
 多角経営は韮崎市出身で阪急の創業者小林一三(1873~1957、明治6年~昭和32年)から倣ったといいます。また、山梨県立博物館の学芸員O氏によれば「良い品をより安く」の宣伝文句は一三の阪急ストアからの拝借とのことです。
 しかし、東急グループの創設者五島慶太(1882年~1859年、明治15年~昭和34年)が地下鉄事業に進出し、新橋駅での路線の乗り入れを要求しました。数々の競合企業を買収してきて「乗っ取り屋」の異名を持つ五島からの要求を早川は断ります。そのため新橋駅は壁一枚隔てて2つの駅が並ぶことになります。
 五島との対立は5年に及びましたが、1939年(昭和14年)、五島により早川の東京地下鉄道の株を買い占められたことにより、早川は経営から退きます。59歳でした。
 ただし、五島にとっても勝利とは言い難いもので、1941(昭和16年)には帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)が設立されて、早川の東京地下鉄道と五島の東京高速鉄道は、営団に統合されています。新橋駅はひとつになりました。五島の新橋駅は「幻の新橋駅」として職員が利用する施設として残されています。

幻と消えた青年道場

 早川は東京地下鉄道の社長を退いてから、故郷である笛吹市一宮町へ帰り、若者の育成のための私塾「青年道場」を開く計画を進めていました。
 早川は社長時代から人材育成を重視していて、かつて社員に対しても逗子に研修施設「聖智寮」を建設して社員教育に力を注いでいました。
 早川は「凡そ如何なる世にも、仕事をするに大切なるものは人である。一も人、二も人、三も人であると思ふ。」と言っていました。前出の学芸員O氏の調査によれば、この言葉は師と仰いだ後藤新平の言葉が初出であったといいます。
 青年道場の建設は、甲府中学校(現在の甲府第一高校)の後輩であり後に東京タワーを設計を担った内藤多仲(1886年~1970年、明治19年~昭和45年)に依頼し準備が進められていました。しかし、社長退任からわすが2年後に早川は急逝します。61歳でした。

早川家住宅

 「青年道場」は実現することはありませんでした。生家の跡に建てた建物は講師舎として新築した母屋です。住宅の裏は池のある庭園があったそうですが、現在は桃畑になっています。住宅の西側(向かって左隣)に青年道場を建設する予定地でしたが、未着工のまま終わりました。

現在周辺は桃畑です

 早川徳次ふるさと後援会により、年2回(春・秋)建物内部の見学会が開催されています。ただし、昨年と一昨年は感染症対策で開催されておりません。

母屋の概観 (出典 : 文化財オンライン)
母屋の玄関 出典 : 文化財オンライン

 構造形式は木造純和風平屋建、入母屋造、一部切妻造である。外壁は漆喰壁または板張で、屋根は桟瓦葺、一部銅板葺の仕様となっている。
 住宅中央には中庭があり、東側は主に客間で、西側が生活空間である。床の間や欄間、円窓、下地窓など数奇屋風の意匠的特徴がみられる。建具や照明、棚などに細かな装飾があしらわれ、設計者の心意気が感じられる意匠となっている。

出展「山梨の文化財ガイド」

 木造平屋建、入母屋造一部切妻造で、玄関から西寄りを内向き諸室、東寄りを座敷などを配する。東寄り南北両側には広い廊下を通し、南面東端部はサンルームとする。座敷廻りの数寄屋風意匠も質が高く、部分的に洋風意匠を取り入れた近代和風住宅の好例である。

出典「文化財オンライン」

 笛吹市一宮町にこのように生家が残っているのですが、旧一宮町の時代から自治体として早川徳次の功績はあまり扱われて来なかったようです。ふるさと後援会の要請を受けて市教育委員会がやっと設置した登録文化財の紹介版があります。

笛吹市による紹介板

七転び八起き

 早川徳次ふるさと後援会は、幾多の人生のピンチを乗り越えた早川の人生を「七転び八起き」として2018年より「徳次だるま」を作りPRしています。徳次のヒゲが特徴の顔を模ったどこか愛敬のあるミニダルマです。パンフには見学会の紹介もあります。

徳次だるまと見学会の案内


早川の多難の人生を紹介

 笛吹市市民活動応援サイトに「早川徳次ふるさと後援会」の紹介記事があります。

おわりに

 地下鉄に東京の交通の未来像を描いた早川徳次、「いまに東京の地下は、蜘蛛の巣の様に地下鉄が縦横に走る時代が必ず来る」という言葉のとおり、東京メトロが195km、都営地下鉄が109km、のべ304kmの線路が地下に延びています。また日本各地にも地下鉄が採用されています。
 本稿は、早川徳次の人物の紹介になってしまいましたが、ここにも甲州人の足跡があると心に留めていただければ幸いです。
 2022年はこれで筆を置きたいと思います。お付き合いいただきありがとうございました。
 


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