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「敦盛の最期」が特別視される理由

 「敦盛の最期」こそが平家物語No.1の名場面である ― これが今回の主張である。

 ※生々しい描写を含む部分があります。

 「平家物語」における一番の名場面を挙げるなら、皆さんはどのエピソードを選ぶだろう。源義経の鵯越か、壇ノ浦の平家滅亡か、平清盛の壮絶な最期か、あるいはラストの大原御幸か。何事も「一番」を選ぶのは難しい。何かしら人に説明できるしかるべき理由がなければならない気がするからだろうか。

 「敦盛の最期」を平家物語で一番の名場面だと宣言する人は少ないと思う。

 一ノ谷の戦いで散った絶世の美少年・平敦盛の悲劇は平家物語の成立以降、人々の心を捉え続けてきた。歌舞伎に能に童謡に、あるいはゲームに、様々な形で受け継がれてきた。しかしながら、敦盛が熊谷直実に討たれる場面が平家物語随一のクライマックスかといえば否定的な声が大半を占めるだろう。

 何といっても平敦盛は登場場面が少ない。いや、少ないどころか、その最期の場面が敦盛が生きて登場する唯一のシーンだ。覚一本だろうが延慶本だろうがその点は変わらない。吉川英治の「新・平家物語」では敦盛の登場場面が大幅に増やされており、顔の美しさのみならず一人の人間としての敦盛の内面が見事に描かれているものの、それでも物語の中枢人物と言うには程遠い。

 また、敦盛が数えで16歳の生涯を閉じた一ノ谷の戦いでは、敦盛以外にも多くの若い公達が源氏方に討ち取られた。平知章と平業盛の2人は敦盛と同じ16歳。敦盛の兄・経俊が18歳。平師盛に至ってはなんと14歳だったとされている。ただし師盛については24歳の間違いではないかという説があり、生前の任官・従軍の記録から類推して私は「24歳説」を推したい。

 他にも琵琶・青山の逸話で有名な敦盛の長兄・平経正がおそらく20代、愛妻・小宰相の悲劇で有名な平通盛も30歳過ぎ・・・と実に多くの若い公達を平家は一ノ谷で喪った。

 つまり「若い」というだけでは敦盛に特殊性はなく、むしろ同い年で、平家の事実上の主将たる父・平知盛を逃すために自ら盾となって源氏の軍勢相手に少ない手勢と共に奮戦した末に討ち取られてしまった平知章の方が何の戦果も挙げていない敦盛と比較しても遥かに立派だと言うこともできるだろう。事実、私も知章の知名度の低さはどうにかならないものかと思う。井伏鱒二が「さざなみ軍記」で主人公に据えたり、佐久間智代という漫画家が平家物語シリーズとして何篇か描いた漫画で知章を愛情込めて描くなど、分かる人には分かるのだが。

 しかし、それでも私の中の事実として、平家物語を私の心に永遠に刻み付けたのは何あろう「敦盛の最期」なのだ。最初に接した平家物語の本は児童向けの平易なものだったが、子供だった私は、決然として首を討たれる美少年の姿に強く心打たれたのだった。その美少年が最期まで大切に笛を抱えていたという話はダメ押しだった。

 そして今に至って、実は敦盛の最期こそが平家物語随一の名場面だと、真面目に考えるようになっている。

 ー 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ。ひとえにに風の前の塵に同じ。

 あまりにも有名な平家物語の序文である。

 「諸行無常」「盛者必衰」

 これらこそが平家物語を貫くテーマだ。輝かしく栄えていたものが無惨に滅びゆくという「落差」こそが平家物語の主題なのだ。

 栄華を極めた平家一門の都落ちから壇ノ浦での完全な滅亡そのものには勿論、大きな落差がある。物語前半の俊寛のエピソードも落差を描いた物語だ。都で華やかな生活を送っていた俊寛の鬼界ヶ島での哀れな最期・・・。そして敦盛の最期の場面こそ、美醜の落差の最も象徴的なシーンなのではないだろうか。

 敦盛の美少年ぶりはしばしば「女にも紛うばかりの美しさ」と称される。「新・平家物語」では敦盛の容姿を「女にもまれな眉目のよさに加え姿体もしなやかな美少年」と書いている。

 延慶本での描写はそれらを更に上回り、唐の国の白居易が長恨歌で絶世の美女・楊貴妃の容姿を称した部分まで持ち出して敦盛の美しさを形容している。すなわち「嬋娟(せんけん)たる両鬢(りょうはつ)は秋の蝉の羽を並べ、宛転(えんてん)双蛾(そうが)は遠山の色にまがへりなむ」

 現代語訳するなれば「左右の髪(鬢)は一対の透き通った秋のセミの羽の如く艶やかで、なだらかな弧を描く二つの眉は遠き山を映したかの如く細くて長い」。「宛転蛾眉」という言葉もある。

 その絶世の美少年が豪華な鎧と直垂に身を包み、そのうえ笛が好きで大切に携えている・・・まさに「理想の美の化身」の如き少年が鋭利な刀で首を切り落とされて殺されてしまう。

 打ち首であれば一瞬で事は決するかもしれないが、敦盛は仰向けに組み敷かれての首取りである。直実が握りしめる短刀はこの日の功名を期して、触れただけで指が落ちんばかりに鋭く研がれていたことだろう。決然と死を受け入れようと目と口を閉じて凛とした表情をした少年に向かってその刃を喉元に一突き。そして首を掻いていく。痛くないはずがない。凛とした表情が苦悶に歪んだ瞬間がなかったとは到底思えない。

 そして飛び散り広がったであろう真っ赤な鮮血。黄金で彩られた豪華な大鎧には無数の血の飛沫が飛び散り、直垂の襟元は真っ赤に染まったことだろう。そしてやがて、須磨の砂浜に広がった血の海の中に女と見紛うばかりの整った顔を真っ赤に濡らした首が転がる。

 美の極致とでも称すべき存在が残酷の極致とでも言うべき壊され方をするという落差・・・。平家物語随一の美醜の落差が描かれる場面こそ敦盛の最期であり、それゆえ作中で最も代表的な場面だと確信するのである。

 最後に敦盛の首の末路についても触れておきたい。

 敦盛の登場は首を切られたあと、首実験の場において正体が判明する(延慶本では組討の時点で敦盛は名乗っている)が、その後の首の行方については様々に語られている。

 屋島に一門とともに落ち延びた父・平経盛のもとへ直実が手紙を添えて敦盛の首を送り届けたという話を聞いたことがある人は少なくないだろう。類似の話としては落ち延びる途上の淡路島の福良で経盛は敦盛の首を届けられ、小島で首を荼毘に付したというものがある。福良湾内には「煙島」という小島がある。また、戦場近くにある須磨寺にある敦盛の首塚は有名である。

 しかし、天下分け目とでも言うべき合戦に勝利した源氏方にとって平家一門の首級は喉から手が出るほど欲していたものである。そもそも世界中、西から東に至るまで昔の戦では敵の首を取ることに拘ったのは生首を衆目に掲げることで自らの勝利と相手の完全な敗北を知らしめる意図があったからに他ならない。万一直実が敦盛の首の返還を希望したとしても、源範頼も義経も、ただの一つも首級を手放したとは考えられない。

 だから敦盛の首は他の平家一門の首と同様に、京に送られて晒されるに至ったと推測するのが自然だ。

 一ノ谷の戦いは寿永3年2月7日(旧暦)。玉葉や吾妻鏡によれば首が京に入ったのは2月12日。そして翌2月13日、平家一門の首は獄門にかけられる。一門の首は源義経によって彼の六条室町の館から八条河原まで運ばれて検非違使に引き渡される。大逆の罪人たちとして。

 そして首には各々、姓名を書かれた(あたかも血を連想させるような)赤い木札を取り付けられ、鉾に首を貫かれて掲げられる。そして人々の好奇の目に晒されながら都大路を渡されて獄舎の木にぶら下げられる・・・。

 敦盛も例外ではない。かつて宮中の女御たちの胸を射抜いたであろうその美しい顔からは薄化粧が流れ落ち、血が流れ出たのと死後6日の経過時間でもとより白い頬は一層青白くなっていたことだろう。笛を吹いていた蕾のような唇はすっかり干からび、澄んだ両眼は瞼で固く閉ざされている。乙女のように長くて艶やかだった髪はボサボサに乱れ、白磁のようだった首は鋭く切り裂かれている・・・。生前の彼を知る者はどのような思いでその首を見つめたことだろう。

 「新・平家物語」での敦盛は一ノ谷の戦いの前、まだ一門が屋島にとどまっているときに陣抜けし、密かに京に戻って恋人(右大弁の姫)との逢瀬を果たしている。敦盛は今生の別れと言っていたが、きっと姫は敦盛がまた京に戻ってくることを切望したことだろう。

 その願いが最悪の形で果たされることとなり、姫はどうなってしまったのだろうか。この目で敦盛の首を見るまでは彼の死を信じないと言って密かに獄門を訪れたのかもしれない。そこで変わり果てた恋人の首を目の当たりにして泣き崩れたのか、それともただ茫然と敦盛の長いまつ毛が動いて優しい眼差しを向けてくれるのを待ち続けたのだろうか。

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