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「何から自由なのか」という前置きを教えていただきたい。

多分雨が降るっぽいのでずっと頭がいたい。キーンとする痛さではなく鈍痛。視界もぼーっとする。12時間、横になっていたからか。

何度か起きてはまた眠りにつき、その度にきっと夢を見ていた。覚えているものは少ない。覚えている夢が映し出すのは、今望んでいること——

何かの取材に来ていた。知り合いがいたので、隣に座るように前から3列目くらいに座った。あれやこれやと思うことを語る。共感する部分もあれば首をかしげる部分もある。ひと通りお互いの意見を口にして、まるで相手を通して自分のことを確かめるように、ただそれだけで終わる。結論を出さないという行為は無駄なように見えて心地良い。

何かを伝えるという行為には、大きな声が必要だと思っていた。でもそうじゃない道を作っても良いのかな、と肩の力を抜くことにした。自分の信念を貫き、リーチが少なくてもコンバージョンレートが高ければ良い、という結論に至る。とはいえ文章で書くのは容易いが、ハードルはべらぼうに高い。しかし私みたいに不器用な生き方しかできない人間は、ハードモードの選択をせざるを得ないのだ。

自由に生きてるよね、と言われがちだけれど、「何から自由なのか」という前置きを教えていただきたい。いわゆる決められた「社会人像」とか「キャリア女子像」からは自由なのかもしれないが、私自身はちっとも自由だとは思っていない。確固たる理想と反するように芽生えた信念が自由を阻む。

「自由の裏には責任が必ずある」これは小学6年生の時の担任が教えてくれた言葉だけれど(今思うとなかなかに早熟)、その対面(トイメン、と読んでいただきたい)には理想や信念が構えている、ということを付け足そう。私の自由はこういう構成なのだ。横並びに理想や信念があればさぞイージーだったことか。

今は自由ではない。自分を縛る理想や信念と、ゆっくり対話して距離を考えなければいけない時期だ。おそらくとても苦しくて、惑わされて、逃げ出したくなる時期。人生は20代で決まる、なんて言葉もあるけれど、社会構造や生物学上の女性としての抗い難い事象とうまく折り合いをつけながら、自分の人生は自分で責任を持って選択していきたい。そういう意味では人生は毎度の選択で決まってしまうから、年齢は関係ないのだと思う。

今までしてきた選択をひとつひとつ愛していくにはまだ幼すぎるけれど、これからの選択に関しては、自分だけではなく周りの人や環境に対しても愛を持っておこなっていきたい。もし私が自由を得たその時には、その翼で誰かを包み込んだり、望みの地へ連れて行ったりしてあげたいから。

#コラム #自由

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