たまのいる場所
イカ天キングとして、「さよなら人類」のバンドとして。特に後者のおかげで、たまは今でもかなり知名度の高いバンドだ。ちょうど私が小学生の頃に大ブームで、少し後になってから友人が貸してくれた「さんだる」「きゃべつ」の2枚のアルバムだけを妙に聴き込んだ。当時ヒットチャートを賑わせていた音楽よりも少し古いユーミンやサザン、それからビートルズなどを好む小〜中学生だった私にとって、たまの音楽は最初かなりへんてこな印象だった。まあそりゃそうだろう、お年頃の女の子が憧れるのは、どちらかといえばユーミンが歌う、切なくきらめく恋の世界である。それに比べてたまは、変な格好だし、変な声だし、変な歌詞だし、全体的にコントみたいだし、全然かっこよくないな〜と思いながら、でもなぜかその奇妙な世界観にじわじわとはまった。最終的にはアルバムの曲を全部歌えるぐらいになり、弟と二人で「学校に間に合わない」をフルコーラスで歌ってはゲラゲラ笑ったものである。
https://www.youtube.com/watch?v=-zDBjRqpmCQ
聴きたい音楽は他にもたくさんあって、特に洋楽のロックにしっかりとはまっていった10代だったし、たまの方もメジャーな仕事をしなくなったので、ひとときはまった後、たまを聴く機会は自然となくなった。そして数年後には解散した。
ロックの後はパンク、10代の終わりからはR&Bやエレクトロをたくさん聴いた。ヒップホップも好きだった。新しいフォークも好きだし、沖縄民謡も好きだ。浄瑠璃も好きだ。
私はもう40代である。
最近ふとたまが聴きたくなってApple Musicで検索してみたら、後発のベストアルバム的なものがアベイラブルになっていた(Youtubeにもいろいろあがっています)。で、何の気なしに部屋でかけた。懐かしさをひととき楽しむ以上の気持ちは持っていなかったのだけれど、何曲かかけているうちにじわじわと気づいた。
私がたまの音楽に再び触れて感じているのは、懐かしさではなかった。彼らの音楽は私が最初に出会った時とそっくり同じサイズだった。古いアルバムを眺めるような距離感ではまるでなくて、ひとりでベンチに座っていたらふいに隣に腰を下ろして、そのままじっと座っているようなリアルさだった。あるいは、私の内側にはたまのための場所がずっと空けてあって、そこに何食わぬ顔で戻ってきたみたいな感じだった。
「さんだる」「きゃべつ」に入っていなかったので、以前聞かなかった曲に「そんなぼくがすき」がある。作詞は知久寿焼さんです。
かなしい夜には 腕時計ふたつ買って/右手と左手で 待ち合わせて遊ぶ
かなしい夜には 留守番電話を買って/かなしいおもいでを 留守番電話に話す
情けないような、悲しいような、さびしいような夜に聴く曲として、あまりにふさわしすぎて泣き笑いのような気持ちになった。たまの音楽は慰めない。慰めないが、否定も肯定もせずただそこにあって、彼らの世界を存分に生きている。ヒットチャートをいっとき賑わわせて解散してしまったのだけど、いっときを駆け抜けて行った音楽というより、世界のどこかで気楽に鳴り続けているみたいに。繰り返される小さいお祭りの音楽みたいに。そういう場所がきっとどこかにあるんだと思う。あるいは私の内側には確実に。
たまのランニングこと石川浩司さんが著された『「たま」という船に乗っていた」、現在は石川さんのサイトから全文読めるようになっているので、興味のある人はお読みになってみて下さい。
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