見出し画像

相生橋をわたる風に【小説】

  都心から離れ墨吉川から引かれた水路と堀川の入り組んだ場所に下町がある。このあたりは湾が近いので、ときどき潮の香りが川面を伝って町に流れ込んでくる。
 その掘割の真ん中の曙町はぐるりと堀川に囲まれ、東西南北に架かる橋が外との境になっていた。西側に架かる相生橋の近くは曙町一丁目。十字路角にスーパー、並びの道沿いに電器店、寝具店、洋品店、蕎麦屋などがある。
 町には学校はなく、小学校・中学校は向こうの霞町へ。公立高校は薄墨橋向こうの真砂町へ通っていた。

              ※ ※
 

画像1

 五月の大型連休が終わり、梅雨に入るちょっと前のこと。霞町の福祉施設は朝からにぎやかだった。
五月の大型連休が終わり、梅雨に入る少し前のこと。霞町の福祉施設は朝からにぎやかだった。
「みなさん、おはようございます。今日から霞町中学校の生徒さんたちが《すずかぜ高齢者住宅センター・デイサービス》のお手伝いに来てくれました。三日間、みなさんと楽しくすごしましょう」
 淡いピンク色のエプロンをつけた女性センター長の飯塚が笑顔で、リビングルームに集まる高齢者に言った。
 紹介された中学生四人が職員の横に並ぶ。
「霞町中学から来ました。一年A組、内田舞です。よろしくお願いします」
「一年A組、佐々木美佐です。よろしくお願いします」
「一年C組、前田勇平です。がんばります」
「一年B組、市川浩正です。よろしくお願いします」
自己紹介が終わると職員の一人が前に出る。
「検温と血圧の測定が終わったので、これからレクリエーションをします。のびのび・かんたん体操から始めましょう」
 CDラジカセから音楽が流れだすと、高齢者が動き出す。無表情のまま手だけを動かす人。ずっとにこにこしている人。車いすに乗ったまま両手を動かす人。みな、さまざまなやりかたで体を動かしている。
 みんなの輪から離れて、窓辺のイスに腰掛けて外を見ている高齢女性がいた。舞は女性に近づいて声をかけた。
「あの、体操しませんか? みんな、やってますよ」
 すると女性はにっこり笑って、抱いていた白い犬のぬいぐるみを撫でた。
「今はミミちゃんとお話してるからいいの。ねぇ、ミミちゃん、今日はいいお天気よね」
 音楽が消え体操が終わると、かるた遊びになった。
 舞は女性を遊びに誘おうと手を取った。
「いやだ! なにするの!」
 女性の顔つきが変わり、ぬいぐるみを隠そうと身をそらし、怒って舞の腕を叩いた。
「触らないで! ミミちゃんをさらおうとするのか? 誰か、助けてください~! ミミちゃんを取ろうとします~!」
 大きな声で叫ぶ女性を見て、舞の脳裏によみがえるものがあった。
「三田さん、大丈夫よ。ミミちゃんは取らないから」
 包み込むような声がして、舞と女性の間に入ってきた職員がいた。
「えっと、中学生さん。三田さんはね、ここでいいのよ。ミミちゃんと話しているほうが一番落ち着いてるから。
 三田さん、ごめんなさいね。ミミちゃんは連れて行かないから大丈夫」
 女性の顔が和らいだ。
「さ、あなたは向こうで、みなさんの相手をしてあげてね」
 背中を押されて、舞はかるた遊びの輪に加わった。
 しばらくして窓辺に目をやると、ぬいぐるみを抱いた女性に、今は亡き人の姿が重なって、舞は慌てて目をこすった。

 夕方四時、送迎者が高齢者を自宅まで送り届けている間に、センター長が、舞たちに今日の良かった点と反省点などの申し送りをした。
「初めてのことで大変だったと思います。顔なじみではないので、なかなか言うことを聞いてくれなかったな、と感じたのではないでしょうか。その時は無理に何かをさせようとせずに見守ってくださいね。
 今日はお疲れさまでした。あと二日、がんばってまいりましょう」
「ありがとうございました」
《すずかぜ》を出ると勇平が伸びをした。
「なんか、疲れた。何かしたわけじゃないんだけどさ」
 美佐がうなずく。
「あそこに来るおじいちゃんやおばあちゃんって、ほとんどが認知症なんでしょ? 話がぜんぜんわからなくてショックだった」
「ぼくのおじいちゃんと同じくらいの人もいたけど、おじいちゃんは現役バリバリ働いてるのに、違っててびっくりした」
 浩正が施設を振り返った。
「舞ちゃん? どうしたの?」
 美佐に肩をつつかれ舞ははっとする。
「わたし、忘れ物しちゃった。先に帰っていいよ」
「そうなの? うん、わかった。また明日ね」
「明日ね」
 舞は三人と別れて施設に走っていった。
「あの……お邪魔します」
 舞はやさしい声の、相手を怖がらせないような雰囲気を持った 、あの時の女性職員を探していた。
「あら、忘れ物?」
 背中で声がした。振り返り声の主を見る。
「あなた、確か……」
「霞町中学一年A組、内田舞です。曙町一丁目に住んでます。家は〔スーパー あけぼの〕を経営してます」
「まあ、ご丁寧にありがとう。私は武田菜摘。ここの介護支援専門員をしてます。何か忘れ物があったかしら?」
「えっと、その。あなとお話がしたくて戻りました。ぬいぐるみを抱いてたおばあちゃんに話しかけてたのが忘れられなくて」
 菜摘は目を丸くして舞を見た。それから、ふわっと笑ってから腕時計を見る。
「私は五時に上がれるけど、待っててくれる?」
「はい、待ちます」
「そうね。相生橋の手前、霞町よりにある喫茶店〔ゆすら梅〕で待っててもらえるかな。大丈夫、すぐわかるから」
 菜摘に教えられた喫茶店は、本当にすぐにわかった。二階建ての古い民家を改装した店で、ビルや新しい建物の並ぶ周りから浮いて見えた。
 舞が引き戸を開けて中へ入ると、カウンター席に男性が一人、テーブル席には女子大生くらいの人が数人いた。
「いらっしゃい」
 右手のカウンターの中からハスキーな声の女性が言った。
「あの、待ち合わせなんです」
「ああ、菜摘のお客さんね? 聞いてるわ。あちらへどうぞ」
 奥のテーブルへうながされ、舞は席に着いた。
 女性が水の入ったグラスを置きに来た。
「ええっと。ミルクティーを」
「は~い」
 舞の母よりちょっと年上だろうか。ショートカットのすらりとした姿は、まるで宝塚歌劇団の男役のようだ。
 カバンから記録帳を出して、今日のことをまとめているとハスキーな声が降ってきた。
「そうか、職業体験なのね。わたし、ここの店のオーナー。細川藍子。霞中卒業なのよ。よろしくね。わたしのこと藍子さんって呼んでね」
 テーブルに紅茶カップと小皿のクッキーを置いて藍子が微笑んだ。
「といっても何十年も昔のことだけど。菜摘も霞中のはずよ」
「そうなんだ、先輩だったんだ」
 舞はちょっと嬉しくなった
「藍子さーん、コーヒーおかわり」
 カウンターの男性客が呼んだ。
「はーい、司郎ちゃん。すぐ淹れるわ」
 藍子がカウンターに戻ると男性客と話を始める。
「ただいま」
 引き戸が開き菜摘が入ってきた。
 舞は立ち上がり頭を下げる。
「待たせてごめんなさい。帰り際にちょっとトラブって。内田舞さんだったわね」」
「忙しいのにすみません」
「どうぞ、座って。あ、藍子さん、ブレンドちょうだいい」
 菜摘が席に着く。
「それで? 私に聞きたいことって、何かしら?」

「ぬいぐるみを抱いてたおばあちゃん、明日も来ますか?」
「三田さん? 明後日の予定よ。職場体験最終日になるわね」
「そうですか。明後日は、もっとじょうずに話せるようになりたいんです」
 舞は菜摘を見て唇をかみしめた。
「何か、事情があるのかな? 相談したいこと、高齢者のことなの?」
「わたし……。思い出してしまって。去年の夏に、急に変わってしまった、大好きだったおばあちゃんのこと。おかしくなったって気づいても、なにをしたらいのかわからなくて」
 胸の奥にしまいこんだ思いを吐き出したい気持ちになって、舞は涙ぐんでいた。
「場所を変えよう。藍子さん、二階の部屋に行くね。コーヒーはあとでいいわ」
「じゃあ、部屋に持っていくわ」
 お店の奥にある従業員用ドアを開けて階段を上ると、廊下の右手に部屋があった。
「どうぞ。ここは私の部屋なの。藍子さんちを借りて住んでるのよ。在宅支援サービスセンターにも近いし、家賃も格安」
 片目をつぶって菜摘は笑った。
 2DKの和室に丸いちゃぶ台、タンス、棚など和風でまとめた部屋だった。
「さて、ここなら安心して話せるからね」
 すると藍子が新しく入れたミルクテーと、菜摘のブレンドコーヒーを持ってきてくれた」
「ごゆっくりね」
 菜摘と二人きりになって、舞は大きく息を吸った。
「わたし、もっといろんなことを知っておきたかった。今さらなんだけど、もう遅いけど。でもね。去年の夏にあのことがなかったら、職場体験の場所を《すずかぜ》を選ばなかったかもしれないです」
 舞はまっすぐに菜摘の目を見つめた。



画像2

1

 長かった梅雨が明けて、ようやく夏らしい日ざしになったのは、七月も半ばだった。終業式が終わり、いっせいに子どもたちが霞町小学校を飛び出した。
「舞ちゃん、明後日プールで会おうね」
「うん、明後日ね。有香里ちゃん」
 舞は有香里が大通りをはさんだ向かいの大きくそびえるマンションへ帰っていくのを見送り、足早に相生橋を渡った。川沿いの土手のお地蔵様に手を合わせている佐藤のおばあちゃんを見かけたが、声をかけずに通り過ぎた。

「ただいま~」
 ガラス戸を開けて舞が入ると、レジで母親とハヤシ寝具店の紀代子が話していた。
「こんにちは、紀代子さん」
「お帰りなさい、舞ちゃん。終業式おわったのね? うちの息子も帰るころだわね」
 時計を見て紀代子はため息をついた。
「佐藤のおばあちゃん、お地蔵様のところで見かけたよ。声かけないできちゃったけど」
「佐藤さん? 最近、よくお地蔵様のところでぼんやりしてるのよね。気になって話しかけるんだけど、あまりしつこくしても悪いから、そっとしておくの。敏子さんが嫁いでから、なんだか寂しそうで。ちょっと心配よね。それじゃ、お世話様」
「ありがとうございました~」
 紀代子が家族分のアイスクリームを買って、寝具店へ戻っていった。
 舞は店の奥の階段を上がり、二階の自宅へ上がる。仏壇の前に座ると通信簿を置いてお線香を上げる。
「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。おじいちゃん、おばあちゃん。六年生の一学期が終わりました。成績は、算数がちょっとダメだったけど、国語はよかったです。以上、報告はおしまい」
 冷蔵庫から麦茶を出して、扇風機をかける。
「あ~、気持ちいい。クーラーもいいけど、扇風機のほうが好きなんだよなぁ。有香里ちゃんには年寄りみたいっていわれるけど」
 麦茶を飲みながら佐藤のおばあちゃんを思い浮かべてた。
 内田家の裏に住んでいる佐藤花枝。七十六歳になる。
 スーパーを経営していた両親が忙しく、小さい時の舞の面倒をみてくれた。神社の森で遊んでもらったり、昔話や怖い話を聞かせてもらうのが楽しくて、いつも花枝にくっついていた。
 小学校へ上がると友だちと遊ぶ時間が多くなり、五年生の時に転校してきた有香里と仲良くなってからは、いつしか花枝の家に行かなくなってしまった。
「明日、おばあちゃんちに行こうかな」

 次の日の朝。
 舞は店のガラス戸上に掲げてある古い木製の看板を見上げた。
【八百屋 あけぼの】
 ひいおじいちゃんが八百屋をやっていたころの看板だ。以前、スーパーなのになぜ、この看板があるのかと両親に聞いた。古いお馴染みさんにはこの名前のほうが知られてるからだとか。
  古いお馴染みさんというのは、この町に住むお年寄りだ。堀川に囲まれた土地柄、大きな車やバス、電車も通れず、日用品を買いに外のホームセンターやデパートまで出かけなければならない。お年寄りが年中出かけるのは大変なこと。そこで要望を聞いているうちに、店にはちょっとした日用品を置くようになった。
 そして、お店の自慢は代々受けつがれているお惣菜。舞の母親が作る五目おからは評判が良かった。ごまの他にひじき、しいたけ、はす、にんじんが細かく刻まれ、ほんのり甘くて優しい味がお客さんを離さない。舞も五目おからが大好きだった。花枝はもっと大好きで、夕方になると毎日のように買いに来ていた。
「佐藤のおばあちゃんちに行ってくる。昨日、お母さんが作った水ようかん、持っていくけどいい?」
「いいわよ。いってらっしゃい」
 裏の佐藤家へ行き、ガラス戸に手をかけた。
「おばあちゃん、おはよう。舞だよ。水ようかん、持ってきたよ」
 返事がない。舞は運動靴を脱いで上がると、居間の襖を開けた。そこには花枝はいなかった。冷蔵庫に水ようかんを入れ、佐藤家を出た。もしかしたらお地蔵様のところかもしれない。相生橋へ行くと、お地蔵様に手を合わせる花枝を見つけた。
「おばあちゃん、何してるの?」
 花枝は顔を上げて舞を見た。
「ああ、舞ちゃん……。どうしたの?」
「おばあちゃんとこに行ったら姿がなかったから。お母さんが作った水ようかんを持って行ったんだよ。勝手に冷蔵庫へ入れてきちゃった」
「ありがとう、舞ちゃん」
「おばあちゃん、なんか元気ないみたいだけど。大丈夫?」
「元気、元気。そうだ、妹背山まで歩こうか」
「うん!」
 舞は花枝と並んで歩き出した。
  相生橋の北から南に向かって歩くと曙町二丁目に出る。その先に見えるのが妹背山だ。山と名がつくけれど、それは小高い丘で、石段を上っていくと白鷺神社が見える。春になると薄墨桜が咲き、淡いピンク色に染まるころには花見をし、紅葉が色づくころに白鷺神社の大祭がある。年末年始にはにぎわい、町の人とは深いかかわりがあった。
 舞と花枝は手をつないで石段を上り、神社の前で手を合わせてから顔を見合わせた。
「久しぶりだね、おばあちゃんとここに来るの」
「そうだったねぇ……。小学生の三年くらいまでは、いっしょに来たかね」
 花枝は手を当てて、腰をぐーんと伸ばした。
「そうだ、信太郎さんは元気かい? お酒を飲みすぎて、君江さんに叱られてないかい?」
「え? もう、なに言ってるの? わたしが生まれる前に死んじゃっていないよ。やだな、おばあちゃん。変なこと言って」
 舞の祖父母は舞が生まれる前に亡くなっている。
 花枝が知らないはずない。
「ああ、そうだった。そうだったね。やだね、わたしったら、なに勘違いしてんだろう」
 花枝の顔が曇った。
「おばあちゃん、帰ろうよ」
 佐藤家に戻ると、玄関先で怖い顔をした母が立っていた。
「舞! おばあちゃんちに行くと言ったきり帰ってこないし、おばあちゃんもいない。鍵もかけずにどこへ行ったかと心配したのよ? ああ、おばあちゃんもいっしょなのね」
「孝子ちゃん、すまないね。わたしが鍵をかけないで出かけて、舞ちゃんが探しに来てくれたんだよ」
「おばあちゃん、出かけるときは戸締りをしてくださいね。最近は物騒だから」
「はい、そうするよ。心配かけてすまなかったね、孝子ちゃん。ああ、水ようかん、いただいたみたで。ありがとうね」
 花枝は頭を下げて、家に入っていった。
「お母さん。おばあちゃん、お地蔵様のとこにいたの。そのあと二人で白鷺神社に行ったんだけど。なんか、へんなこと言ってた。信太郎さんは元気か、君江さんは?って。うちのおじいちゃんとおばあちゃん、もういないのにね」
 舞に言われ、母は驚いたように舞と佐藤家のドアを見た。

 二日後のお昼前に、舞が店番をしていると自治会婦人部の《かしましトリオ》がやってきた。命名したのは自治会長で、奥さん三人が来ると「かしましい」ことと、古い芸人の名前からもなぞらえたとかいないとか。 
「あら、舞ちゃん。店番? えらいわね」
「うちも商売してるけど、息子が一日中、部屋でゴロゴロで、かなわないわよ」
「夏休みに入って、毎日の食事に困っちゃう」
「こう暑いと何もする気が起きなくて。お昼も手抜き。ここが開いててくれて助かるわ。町にコンビニがないから」
 冷房のかかった店内でゆっくり涼みながら、しばらく話し込んでいたが、総菜を買って帰っていった。
 舞が三人を見送った視線の先に、通りを歩く花枝の姿を見た。うちに来るのかと思ったが通り越して三丁目の方角へ歩いていく。この暑い中、帽子もかぶらずどこへ行くのか。そこへ配達から戻ってきた父が店の前にオートバイを停めて入ってきた。
「ただいま~。どうした、舞?」
「お帰りなさい。今、佐藤のおばあちゃんがあっちへ歩いて行った。こんなに暑いのに、大丈夫かな?」
「その辺まで出かけてるんじゃないか。用がすめば戻ってくるさ」
 ヘルメットを脱いで、腹減った、と言いながら父は二階へ行ってしまった。
 ここ数日の花枝の様子がおかしいと舞は感じて、胸の中がもやもやする。

 夕方四時、母が作った筑前煮や肉じゃが、五目おから、鶏の唐揚げ棚に並べると、待ちかねたようにお客さんが来た。舞もレジを手伝い、父は電話注文を受けた人に配達へ行く。お客さんはいったん途切れた午後六時過ぎ、舞は母に聞いた。
「ねぇ、佐藤のおばあちゃん、買い物に来た?」
「そういえば、今日は姿を見てないわね。いつも四時半から五時の間に来てるのに」
「わたし、見てくる」
 舞は佐藤家に走った。ガラス戸に手をかけると鍵がかかってなかった。ドアを開けて声をかけたが返事はない。急いでお店に戻ると母に言った。
「え? おばあちゃんがいないの? お昼に三丁目のほうへ歩いて行ったのを見てるのね。お父さんに連絡してみる」
 母は父のスマートフォンに連絡した。
「お父さん、今からオートバイで回ってみるって」
 しばらくして母のスマートフォンが鳴った。
「はい、わかったわ。じゃあ、迎えに行くから」
 電話を切って舞を見た。
「おばあちゃん、見つかったって。四丁目の峰雲寺にいたって」
「お寺にいたの?」
 父がオートバイで見回っていると、峰雲寺向いの〔ひさご食堂〕店主の千代が、峰雲寺へ行く花枝を見たと言った。お墓を探すと墓前の前でポツンと座っている花枝を見つけ、母が連れて帰ってきた。
「亡くなったご主人の夢を何日か続けて見たんだそうだ。いるはずのない両親や兄弟たちのことを思い出すようになって、お墓参りに出かけたらしいけど……。帰り道がわからなくなったって」
「なにそれ? 帰り道がわからなくなったって。おばあちゃんの知ってる道だし」
「そうなんだよ。どうしてなんだろうって、お母さんも心配してる」
 二人がため息をついたとき、佐藤家から母が帰ってきた。
「あ、お母さん。おばあちゃんは?」
「食べるものも食べないで横になったわ。半日も外にいて疲れたんだと思う」
「おばあちゃんがお寺から帰る道がわからなくなったって、ほんとうなのかな?」
「そうらしいのよね。寝る前に、何度もわたしに言ってたから。よほどショックだったみたいで、悲しそうな顔をしてた。昔からなじんでいる場所なのに、知らないところに来てしまったようだったって。あまり気にしてなかったけど、おばあちゃんも年を取ってきたのよね。寝顔を見て感じた」
そういって母がため息をついた。

 七月も終わり、小学校のプール開放も最終日だ。舞と有香里は全日数参加したので、終わるのが寂しいような気がする。
 相生橋で立ち話をしていると、有香里が言葉を止めた。
「舞ちゃん、わたしね。あさってからお母さんの実家へ行くの。今回はちょっと長く泊まるかもしれない」
「じゃあ、墨吉川花火大会には間に合わないの?」
「う~ん、わかんない。あのね、舞ちゃん。わたしね……」
「なに? どうしたの?」
「やっぱりいいや。それより、夏休みの宿題、答え合わせできなくてごめん」
「わ~! そうかぁ。残念~~。わかった、一人でがんばる」
「じゃあね。八月の終わりに連絡する。バイバイ」
「バイバイ~」
 有香里が手を振り、走って行った。

画像3

 八月になったとたん、蝉がいっせいに鳴き出した。太陽が眩しさを強め、じりじりと焼けつくような日ざしが照り付ける。
 年々、暑さが増してる気がして、道路に揺らめく湯気を恨めし気に道行く人達が見ていた。
 そんな時、家がスーパーでよかったと舞は思う。いくら扇風機の風が好きでも、こう暑くては耐えられない。生暖かい空気を風でかき回している部屋より、冷房が効いてる店内で店番をするほうがいい。
 この頃になるとご近所の商店も夏季休暇になり、シャッターが閉まっているが、〔スーパーあけぼの〕とはす向かいの蕎麦屋〔松屋〕は年中無休で営業していた。
 舞は〔松屋〕から漂う出汁の香りをかいで育ったようなものだ。小さい時からなじんだ鰹節と醤油の甘辛い匂いが好きだ。
 お昼時になると〔松屋〕の若旦那の吾郎と、アルバイトのお兄さん早瀬が出前に行くのを見るのも日課だ。

その日の夕方。お客さんが途切れ母が晩ごはんの支度をしに二階へ上がった時だ。店の前でぼんやり立っている花枝がいた。舞はガラス戸を開けて声をかける。
「おばあちゃん、いらっしゃい。しばらく見なかったけど、大丈夫?」
 花枝は舞の顔をじーっと見てから首を傾げる。
「ええと、なんだっけねぇ。何しに来たんだっけ。うっかりしたよ」」
 ひとり言をつぶやくと引き返してしまった。
「おばあちゃん?」
 呼び止めても振り返らなかった。舞の胸にもやもやは大きくなるばかりだ。
 それから三日間、花枝の姿を見なかった。心配になって母に断り、お昼に佐藤家を訪ねた。
「おばあちゃん、いる? 舞です。入りますよ~」
 玄関のガラス戸を開けて中に入る。居間の襖を開けた、その先の仏間に花枝がいた。仏壇の前に座ってじっと手を合わせている。
「おばあちゃん」
 そっと声をかけると、花枝は舞を見た。
「ああ、舞ちゃんか。おはよう、早いね」
「やだぁ、おばあちゃん。もうお昼だよ」
「え? もうそんな時間かい? やだねぇ、年寄りはなんでも遅くなって。お茶でもいれようね」
 花枝は苦笑しながら立ち上がり、台所へ行った。
 舞は仏壇の前に座りお線香を上げて、お鈴を鳴らして手を合わせる。花枝の座っていた場所に散らばっている古い写真に目を止めた。
「これ、おばあちゃんの若い時だ。あ、敏子おばちゃんもいる。これはおばあちゃんとわたし。ねえねえ、おばあちゃん、この写真さ……」
 花枝は台所のテーブルで、ぼんやり考えこんでいた。
「おばあちゃん、大丈夫? 具合悪いの?」
「いいや、なんでもないよ。お腹すいたね。何か食べようか」
 そう言いつつも動かない。舞はそばに行き断ってから冷蔵庫を開けた。中にはお新香や豆腐がいくつも入っていた。中には消費期限が切れているものや、カビの生えた餅もある。
「おばあちゃん、これ、腐ってる。捨てもいい?」
「まだ食べられるよ」
「ダメだよ。夏は食中毒が怖いってお母さんが言ってた。お腹を壊したら大変だよ」
 花枝は悲しそうな目で舞を見た。
「待ってて。うちから持ってくる」
 そう言ってお店に戻り、レジにいる母に事情を話した。
「じゃあ、上の冷蔵庫から何か持ってって」
「わかった」
 自宅の冷蔵庫から花枝が好きそうなものをタッパーに詰めて引き返す。
「はい、ナスの煮しめと五目おから。今、お茶をいれるね」
「すまないね。舞ちゃん」
 嬉しそうに食べる花枝を見て、ほっとした。
「夕方、買い物に来るよね? わたしが店番してるからね」
「うん、そうするよ。ありがとうね、舞ちゃん」
 そう約束したが花枝は夕方には来なかった。

 翌日も朝から暑い日ざしだった。
 夏休みの宿題をしてても、舞は昨日の花枝の様子が気になって仕方なかった。算数のドリルを閉じて、部屋を出た。
「お母さん、おばあちゃんちに行ってくる」
 佐藤家に行くとインターホンを鳴らす。しばらく待っても出てくる様子がない。舞はガラス戸を開けて声をかけた。
「おはよう、おばあちゃん。上がるよ」
 台所と居間を見たが姿がない。突き当りの襖を開けた。
「おばあちゃん!」
 畳の上に花枝が倒れていた。慌てて引き返すと店に飛び込んだ。
「お母さん、大変! おばあちゃんが倒れてる!」
 母は走って行ったが、すぐに戻ってきて父に言った。
「お父さん、救急車を! 早く!」
 そう言うとまた佐藤家へ行ってしまった。
 しばらくして相生橋向こうから救急車のサイレンの音が近づいてきた。橋の前で音が止むと救急隊員が担架を持って橋を渡ってきた。サイレンを聞きつけ近所の人たちが通りに出てくる。事情を聞いたハヤシ寝具店と吉田電器店の旦那さんたちが、あわただしく手伝うのを、舞は震えながら見ているしかできなかった。
 毛布に包まれた花枝が担架に乗せられて、舞の前を通り過ぎていく。
「舞、お母さんはおばあちゃんに付き添っていくから、お店をたのむわね」
 母はそう言い残し、担架に付き添い救急車に乗り込んでいった。
 ざわざわしていた通りが静まると、舞は父のそばに行った。
「ねえ、おばあちゃん、大丈夫だよね?」
「ん……。元気で帰ってきてくれるといいんだが」
 母が病院から戻ってきたのは夕方だった。夕食の支度をしていた舞が飛びつくように聞いた。
「おばあちゃん、どうだったの?」
「今は大丈夫よ。軽い脱水症状だったらしいの。血圧も高かったようで、大事をとって入院することになったわ。
 でもね、お医者さんに言われたの。高齢者は夏でも汗をかきたくない、トイレが近くなるからって水分を控えてしまうらしいの。それで本人が自覚しない間に、脱水症状を起こすって。だから気を付けてくださいって。
 あ、そうだ。敏子さんにも連絡しておかないとね」
 母は急いで電話を取った。
(気を付けてくださいって言われてもさ。おばあちゃんとうちは家族じゃないのに?)
 舞はしっくりしなかった。

「佐藤花枝さんが稲荷町病院に入院した」
 ということが次の日には曙町に広まった。情報の出処は《かしましトリオ》だ。午後に〔スーパーあけぼの〕へ来て話し込んでいる。
「暑いからお年寄りにはこたえるのよね。うちもおばあちゃんがいるから気をつけなきゃ」
「あれ、おたくのお姑さんなら、なにがあっても大丈夫そうよ。それより、黒田さんとこのおじいちゃん、危なさそう」
「だけど、佐藤さん。舞ちゃんが小さい時、よく手を引いて歩いていたわよね。本当のおばあちゃんと孫のようだった」
「女手一つで敏子さんを育てて、これからっていうのにねぇ。佐藤さん。七十半ばだったかしら? 気の毒よねぇ」
 今日ほど《かしましトリオ》のさえずりが重く感じたことはなかった。
(まるで、おばあちゃんが死んじゃったみたいな言い方。感じ悪いよ。もう、帰ってくれないかな)
 きゅっと唇を噛みしめながら、舞は三人を睨んでしまった。
 日が傾いたころ、母が病院から帰ってきた。そこを《かしましトリオ》が待ち構えて、あれやこれやを聞いてくる。
「もう大丈夫よ。来週の初めには退院が決まったって。敏子さんにも連絡したから、都合をつけて来てくれることになったの」
「まあ、そうなの。本当によかった。お見舞いに行こうかと、今、三人で話してたところなのよ」
「退院するのね、そう、よかった」
「ほんとによかった、よかった」
 顔を見合わせて三人はそそくさと帰って行った。
「ふ~んだ。べつにお見舞いのことなんか相談してなかったのに。勝手なことばかり言って」
 見えなくなった三人に、舞は思い切り舌を出した。
「こら、そんなことしないの」
「だって……」
「おばあちゃんも敏子さんの顔を見れば安心するわよ」

 退院の日は晴れて、それほど暑くない日だった。
 母は朝から病院へ行っており、舞は店番をしながら花枝を待っていた。
 相生橋からにぎやかな声が聞こえてきた。舞が表へ出ると、母と紀代子が花枝を支えて歩いてくる姿が見えた。
「おばあちゃん、お帰りなさい」
「もしかして、舞ちゃん? 大きくなったから、すぐにわからなかったわ」
 花枝の後ろから出てきた女性が、声をかける。
「敏子おばちゃん……?」
「そうよ! 久しぶりね、舞ちゃん」
 三十半ばでお見合いをした相手と結婚して、曙町から他県へ嫁いで五年になる。敏子を見てすぐにわからなかったが、笑った顔は今も変わらなかった。
 佐藤家に行くと花枝を寝かしつけてから、敏子は舞の家に来て相談に来た。
「舞、おばあちゃんを見てきてくれる?」
 店番をしている舞に母が言った。
「今日はお店、閉めるから大丈夫。お願いね」
 舞はうなずいて佐藤家に行った。
 寝室の襖を開けると花枝が布団の上に座っていた。
「敏子?」
 顔を上げて舞を見ると顔つきが変わった。
「誰だ? 敏子はどこ? いないの?」
「おばあちゃん、どうしたの? 敏子おばちゃんはうちに来てる。大事な話があるんだって」
「敏子は? 敏子はどこだ? おまえは誰だ? 帰れ!」
 舞が花枝に近づくと、ぷうんとアンモニア臭がした。花枝は必死に布団を被せている。もしかして、お漏らししたのだろうか。
 いったんその場を離れることにした。
「おばあちゃん、お漏らししたみたい。敏子おばちゃんを探してた」
 両親と話し合いをしてた敏子が少しうつむいた。
「ごめんなさいね、舞ちゃん。ありがとう。入院して少し気持ちが不安になってしまったみたい」
 頭を下げて敏子は帰って行った。
「なんか、おばあちゃんが変わってしまった感じ。わたしを見て、お前誰だって言ってきたし」
 両親は顔を見合わせつらそうな表情を見せた。
「おばあちゃんね、少し体が弱ってきてるみたいなの。今すぐどうこうってわけではないんだけど、かなり気持ちが落ち込んでいるようで……。この夏が境になりそう」
 二日後、敏子は一度、自宅へ戻った。

画像6


 お盆になると四丁目の峰雲寺にはお墓参りに人たちが行き交い、お線香の煙とお花に埋もれるようになる。
 舞の家もお墓参りをして、先祖を迎える準備をした。
 その次の日のこと。有香里から珍しくハガキが届いた。
『 残暑お見舞い申し上げます

 舞ちゃん、元気? 宿題がんばってる?
 わたしもこっちで必死だよ。
 八月二十九日に帰るから花火大会には行けないんだ。
 ごめんね。帰ったらいろいろ話そうね。
            前沢有香里  』
 有香里の母親の故郷だろうか。ご当地絵はがきに書かれた文字が、元気そうに見えて少しうらやましく思える。
「そうかぁ。有香里ちゃんと花火大会、見れなんだ」
 ハガキを机の前の壁に留めて、宿題の続きをした。
 しばらくして舞はノートを閉じ、台所へ行った。冷蔵庫から麦茶のポットを出し、コップに注いで飲んだ。
「舞、ちょっと少しだけ店番たのむわ。倉庫から品物を持ってくるから」
「はーい」
 店に下りてくるとガラス戸が開いて花枝が入ってきた。
「君江さん、いるかい?」
「え? 君江さんって。ねぇ、おばあちゃん? 今は、もういないよ?」
「そうか、いないのか? 声が聞こえた気がしたんだけど。またあとで来る」
 しゅんと背中を丸めて花枝は出て行ってしまった。
 そこへ母が品物を持って戻ってきた。
「ねえ、お母さん。今、佐藤のおばあちゃんが来た。へんだよ。君江さんの声が聞こえた気がしたからって、お店に来たんだけど」
 それを聞いた母の顔が曇った。
 花枝の言動がさらにおかしくなったのは、次の日の夕方だった。
 店番をしている舞のところへ花枝がやってきた。
「いらっしゃい、おばあちゃん」
 すると舞の顔をじーっと見つめてから
「ええと、どちらさんだっけ?」
「やだな、ふざけて。舞だよ。内田舞。知ってて言ってるの?」
「舞ちゃんか。店番してえらいね。さてと」
 ぶつぶつ言いながら花枝は右奥の総菜の棚に歩み寄った。手を伸ばし総菜のパックを取ったと思ったら、ふたを開けて手づかみで食べ始めた。
「何やってるの、おばあちゃん! そんなことしてダメだよ!」
「敏子がいなくなったんだよ。ずっと、なにも食べさせてもらってないんだよぅ」
 舞の手を叩きながら花枝は大声でわめく。
「買って帰って、家で食べればいいじゃない?」
「離しなさいよう!」
 騒ぎを聞きつけ、母が二階から下りてきた。
「どうしたの、舞? 大きな声がして」
「お母さん、おばあちゃんが……!」
 話を聞いて母の顔色が変わる。
「おばあちゃんを送ってくるから、ここ、片づけてくれる?」
「うん。わかった」
 母が花枝を抱きかかえるようにしてお店の外に連れ出す。
 舞は床に落ちた総菜の食べこぼしを箒ではいて片づけた。
「おばあちゃん、どうしちゃったんだろう。何も食べさせてもらえないって。いつも自分で料理してたはずなのに」
 何よりもショックだったのは、お店の品物をいきなり食べだしたことだった。舞の知っている花枝ではなかった。
 母が花枝を送って、難しい顔で戻ってきた。
「おばあちゃん、ボケが始まったみたいなのよ。敏子さんに連絡して、これからのこと相談しないと」
 舞の胸に広がり始めたもやもやが不安に変わっていった。

 送り火の夜、営業が終わった店の前で、花火をしていた舞は両親に聞いてみた。
「ねえ、佐藤のおばあちゃん。これからどうなるの?」
「敏子さんにおばあちゃんの様子を電話で話したの。霞町の包括支援センターへ電話してほしいって連絡先を教えた。こればかりは家族が相談しないと難しいから」
「うちは見守ることしかできないからなぁ」
「ねえ、どうしておばあちゃんのこと、そんなに心配するの? 敏子おばちゃんがこっちに来て、おばあちゃんのこと見るのが一番いいんじゃないの?」
「それはそうだけど、敏子さんはお嫁に行って、家庭もあるし。すぐにこっちへ来られない事情もあるから」
「それにな、舞。曙町は戦争の時も終わった時も、お互いを助け合ってきた。隔離されたような町なので、助け合って生きないと大変だったと、お父さんのおじいちゃんたちが言ってた。
 舞が生まれる前、お父さんの両親は亡くなって、佐藤家にはずいぶんお世話になってたんだよ。ほら、舞の遊び相手にもなってくれてただろ? 今度はうちがお手伝いできることをやる」
 しゅっと、線香花火の火玉が道に落ち、煙と臭いが暗闇に漂った。


 数日後、敏子と舞の母が稲荷町病院へ花枝を連れて行った。診断はやはり軽度の認知症になっているとのことだった。少しずつ体力も弱っていることもあり、念のため介護申請をして認定を受けるほうがいいと提案された。一人暮らしのため、このままだとさらに悪化することも考えられる。
その後、自治会長と舞の両親が佐藤家で敏子を交えて話し合った。認定が決まるまで、近所の人たちで見守ることを敏子に約束した。

 日曜日の午後、舞がきんつばを持って花枝を訪ねた時、踏み台をつかってタンスの上の箱を取ろうとしている所だった。
「あぶないよ、おばあちゃん。わたしが取るよ」
「大丈夫さ。体が丈夫なのが取り柄なんだから。確かここにあったと思ったんだが」
踏み台で背伸びをした時に体が傾いて、そのままゆっくり崩れた。
「おばあちゃん!」
 舞は駆け寄り起こした。
「いたたた、あああ、しまった。しまった」
「もう、だから危ないって言ったのに。わたしが取るよ」
「すまないねぇ、敏子」
「だ、か、ら。わたしは舞なの。ねえ、痛いところない? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫さ。腰を打ったみたいだけど」
 そう言いながら畳の上に座り腰をさする。
 舞は踏み台に上がりタンスの上の箱を取り、花枝に渡す。
「これでいいの?」
「ああ、それよ。ありがとう、敏子」
 にっこり笑って花枝が箱を開ける。
 舞は台所へ行き、もってきたきんつばをお皿に乗せ、お茶を入れて居間に行くと固まった。花枝が座ったままうつ伏せになり、うなっていたのだ。
「おばあちゃん、どうしたの? ねえ」
 花枝は痛いと言い続け、どんどん顔色が悪くなっていく。
「お父さん、お母さん!」
 あわてて家に戻り両親を呼ぶ。
 すぐに父と舞が花枝を稲荷町病院へ連れて行った。
「骨折してます。左太もも。手術するかどうか、ご家族を話し合わないと」
「そうですか。じゃあ、佐藤さんの娘さんに連絡してからということで」
「できるだけ早めにお願いします」
 緊急入院した花枝を病院に残し、舞と父は家に戻ると敏子に連絡すると、驚いて電話口で泣いていた。短期間でこんなに花枝の身の回りが変わるとは考えていなかったと。そして敏子の判断で手術をすることになった。


4

 川面から流れてくる潮の香りが涼しい風を連れてくると、相生橋の草地から虫の声が聞こえるようになった。
「すっかり夏が行っちゃったって感じ」
「ほんと、夏休みもあっという間だったね。さびしい」
 二学期の始業式が終わり、相生橋真ん中で立ち話をしている舞と有香里が、何度目かのため息をつく。
 ふと、有香里が言った。
「ね、舞ちゃんのお父さんとお母さんって、ケンカする?」
「そうだなぁ、ケンカしてるとこ、見たことないかも」
「えー! そうなんだ。うらやましい」
「有香里ちゃんちは、ケンカするの?」
「何年か前からケンカばかりしてる。っていうか、お父さんが一方的に怒鳴ってる感じかなぁ。はぁ~、たまらないよ」
 有香里は大きく息を吐いた。
「帰る。じゃ、また明日ね」
「うん。明日ね、有香里ちゃん」
 橋の上で別れると、舞は家に帰った。

 晩ごはんの時、舞は両親に聞いてみた。
「ねえねえ。お父さんとお母さんて夫婦げんかしたことあるの?」
 突然の質問に両親は面食らった。
「なに? どうしたの?」
「なんか、ちょっと気になったことがあって。ねえ、どうなの? ケンカしたことある?」
「そりゃ、あるわよ!」
 母が強く言った。父はおろおろした顔をしている。
「結婚したてのころよ。こう見えても、お母さんは家出したことあるの」
 自慢気な母に舞はびっくりした。
「お父さん、それって本当なの? お母さんが家出したって」
 ゴホゴホと咳き込んで父は顔を真っ赤にした。
「ああ、本当だ。お母さんがお嫁に来てすぐ、親父が倒れて入院したんだ。お袋も看病疲れてまいっちまってね。店のことやら何やらをまかされて大忙しだった。家のことも町のこともまだよくわからないお母さんは、疲れとイライラがたまってたんだと思う。ささいなことで言い合いになって、ふらっといなくなった」
 ちらっと父が母を見る。
「お母さんの実家へ電話したり、町中を探したけど見つからなくてさ。どこへ行ったのかと心配になった」
「それで、どこにいたの?」
「佐藤のおばあちゃんの家さ。さんざん探し回ってみたら、裏の家にいたんだ。ほっとするやらあきれるやらで、腰が抜けた」
 母は照れたように言った。
「勢いで飛び出したけど、行く当てもないし、困ったのよ。それで、佐藤のおばあちゃんのところを訪ねたってわけ。わたしの話を黙って聞いて、背中をずーっとさすってくれた。体中に力が抜けて気持ちが落ち着いたの。それから家に戻って、お父さんと話すことができたわ」
 家族にとって佐藤家は大きな存在だったことが、舞はようやくわかった気がした。
(明日、お見舞いに行こう)

 翌日、学校へ行くと始業ベルが鳴っても有香里は来なかった。
 昼休みに担任の関口洋子先生が舞を呼び止めた。
「内田さん、前沢さんから何か聞いてないかしら? 電話をかけても留守電なの。あなたと仲が良いので何か聞いてなかったかなと思って」
「いいえ、何も。昨日は変わりなかったです。あとで、連絡してみます」
「そう。先生ももう一度電話してみるわ。ありがとう」
 有香里の席を見ながら、舞は昨日の別れ際の大きなため息を思い出した。
 放課後、有香里の住む〔霞町ビュー・スカイハイツ〕に向かった。小学校の先、大通りをはさんだ向かい側に高層マンションがある。地下駐車場・地上三十階のオートロック式の新しいマンションだ。近くまで来るとさらに大きく見える。有香里の部屋番号を押したが返事はなかった。スマートフォンを出してメールを打つ。
『 有香里ちゃん、今日はどうしたの? 学校、来てなかったから心配した。明日は来れる? 』
 ふっと息をつき、マンションを出ると稲荷町病院へ向かった。
 ナースステーションで面会許可をもらい、花枝の病室へ行った。病室近くまで行くと中から大きな声がした。
「うちに帰るんだよぅ。ここから出たいんだよ」
 舞がのぞき込むと窓際のベッドの上で花枝が、看護師に訴えていた。
 「佐藤さんね。足を骨折して手術したばかりなの。今は起きられないの。わかってね」
「わたしは大丈夫。敏子が待ってるから帰るんだよ」
 ベッド柵をつかんで揺らす。
「おばあちゃん」
 舞が呼びかけると花枝は黙った。
「あなた……だれだっけね?」
「おばあちゃん、舞だよ。忘れちゃったの?」
「舞ちゃん? ええと……?」
 花枝の視線は舞を通り超えて、遠くを見ていた。
 落ち着いた花枝を見て、看護師は舞に会釈をして病室を出て行った。
「おばあちゃん、帰りたいの?」
「ああ、帰りたいねぇ。敏子が待っているから」
「今はだめだよ。ケガしてるんだもん。もうちょっとだけここにいようよ。よくなったら帰れるよ」
 花枝の手を握り、すっかりやせてしまった顔を見て舞は涙がこぼれてきた。
 目の前でティッシュペーパーが揺らめいる。花枝が片手で差し出していた。 
「ありがと、おばあちゃん」
 ティッシュペーパーをもらい涙を拭いた。


 翌朝、登校すると有香里がいた。
「舞ちゃん、おはよう。メール、ありがとう」
「有香里ちゃん、大丈夫なの?」
「なんとか、ね。いろいろとあってさ。お母さん、最近、少し具合がよくなくて。今度、話すから何も聞かないで」
 そう言うと席に着いた。
 その日、有香里は元気いっぱいだった。舞には無理しているように見えて心配になる。でも、今は何も聞くなと言われたので、黙ってみているしかない。授業が終わると有香里はすぐに帰ってしまった。

画像6

5
 九月中旬のは白鷺神社大祭がある。曙町内に祭りちょうちんが飾られ、祭囃子の音がスピーカーから流れると、お祭りが待ち遠しくて大人も子どももそわそわし始める。
 
 いよいよ白鷺神社大祭の日。朝から祭囃子が鳴り響き、舞の父を始め青年団が御旅所に詰めている。浴衣や町会の半纏を来た人たちが町にあふれる。
 相生橋で待ち合わせをしていた舞は、有香里が来ると家に戻って母に浴衣を着せてもらった。
「さあ、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
「行ってきます」
「おばさん、行ってきます」
 カラコロと下駄の音を鳴らしながら、舞と有香里は白鷺神社へ向かった。
 神社下の道はたくさんの露店が並び、にぎやかだった。二人はまず、石段を上って神社にお詣りした。それから石段を下りて露店のところへ行くと、
「有香里ちゃん、何買う? わたし、あんず飴にする」
 たくさんの露店の中から一軒の店に行く。
「笹子おねえさん、こんにちは」
 あんず飴を作っていた年配女性が顔を上げる。
「おや、舞ちゃん。一年ぶりの再会だね。元気だった?」
「はい。笹子おねえさんは?」
「元気だよ。おや? 花枝さんはいないのかい?」
「おばあちゃんね、入院してるの」
 舞は夏の間に起きたことを笹子に話した。
「そうだったの。大変だったね、舞ちゃん。残念だけど、仕方ないよね。毎年、ここで会うのを楽しみにしてたんだけど。こればっかりは仕方ない。敏子さんも心配してただろうね」
 ぐすんと鼻を鳴らし、エプロンで目元を押さえる。
「今日は、友だちと来たの。有香里ちゃんです」
「前沢有香里です。よろしくお願いします」
「おやまぁ、ご丁寧に、どうも。あたしは笹子っていうのよ。笹の葉の子って書くの。舞ちゃんが小さいころからのお馴染みさん。これからはごひいきに」
 笹子はからからと笑った。
「笹子おねえさん、あんず飴ください」
 舞はお金を払って言った。
「あいよ、待ってて」
 手際よく笹子はあんず飴を作り氷の台に置いた。
「有香里ちゃんは、どうする?」
「わたしもあんず飴にする」
 急いでお金を払った。
「あいよ」
 有香里はできあがったあんず飴を受け取ると、じっと見つめた。
「どうしたの、有香里ちゃん?」
「やっと、あんず飴を食べられるな、って。うれしくて。お父さん、露店の食べ物は好きじゃないんだ。一度も買ってくれたことないの。かくれて買っただけで、ものすごく怒る。今、出張中だからお祭りに来れたんだもん」
 舞はおどろいて有香里を見た。
「今日は、ほかにも食べたいものある。回ってみたい」
「うん、いっぱい見てみようよ。それじゃ、笹子おねえさん、またね」
「あいよ。行ってらっしゃい」
 笹子のあんず飴屋から離れると、二人はほかの露店をのぞきに行った。
 人の流れが変わり始めた。舞は時計を見る。
「そろそろお神輿が出る時間だ。有香里ちゃん、行こう」
 自治会館のお旅所へ行くと、お神輿の周りに担ぎ手の人たちが集まっていた。自治会長があいさつが終わると、三本締めのあとに担ぎ手がお神輿に着いた。拍子木を打ち鳴らし、脚をどかすといっせいに声が上がる。

わっしょい わっしょい
 わっしょい わっしょい
そいや そいや
 そいや そいや

 掛け声とともにお神輿の綱な鳳凰が揺れる。
 お神輿が進むと人垣が割れた。
 子どもも大人も集まって、練り歩くお神輿にくっつくように、ぞろぞろと流れていく。
 相生橋まで来ると、舞はお地蔵様に目を向けた。
「舞ちゃん、お神輿、行っちゃうよ」
 お地蔵様に手を合わせると、有香里の後を追った。
 三日間の大祭が終わると、いよいよ秋が来る。妹背山の木々が色づき始め、川下から冷たい風は曙町に流れてきた。

 秋色が濃くなった日曜日に、花枝が退院した。敏子も来ていっしょだと聞き、舞は両親と佐藤家へ行った。
「聡さんと孝子さんには、ほんとにお世話になりっぱなしで、助かりました。舞ちゃんもありがとうね」
 敏子が深く頭を下げる。
「そちらは大丈夫なの?」
「夫と義母が、少し母のところにいてもいいって。一人じゃ心細いし、相談したいことたくさんある。霞町包括支援センターのことで……」
 難しい話を始めたので、、舞は寝室の花枝の顔を見に行った。
「おばあちゃん、お帰りなさい」
 久しぶりに見る花枝は一段と小さくなった。今にも消えそうで涙が出る。  布団から出ている手をそっと中に入れたとき、目を覚ました。
「おや、どなた? 敏子は?」
「敏子おばちゃん、わたしのお母さんと話してる。もうすぐ、来るから待ってて」
「そうかい、ご親切にどうも」
布団から両手を出し、舞に向かって手を合わせる。
(こんなに近くにいるのに、おばあちゃんが遠くにいるみたいだ)
 息苦しさをおぼえ、舞は部屋を出ると妹背山に向かって歩いた。夏休みに花枝と並んで歩いたのが遠い昔のことのようだった。
 大祭が終わった神社の境内は、人影もまばらでにぎわいがうそのように静かだった。
 桜の木の下で昔話を聞かせてくれたり、神社の森でかくれんぼしたり、秋祭りであんず飴を買ってくれたことなどが頭の中に押し寄せてきた。
(ねえ、おばあちゃん。どこへ行っちゃったの? 出て来てよ。わたしのこと思い出してよ)

 勢いよくお店に駆け込んできた舞に、父は驚いた。
「なんだ、どうした、舞?」
「お父さん、おから! 五目おから!」
「五目おから? なにするんだ?」
「おばあちゃんが好きだった五目おから、持っていくの。食べれば思い出すかもしれないよ!」
 そう言うと舞はおからのパックを持って佐藤家へ走った。
 敏子と母が、まだ話をしているため、台所のテーブルにおからのパックを置いて家に戻った。
 夕方になって母が帰ってくるなり言った。
「おからを届けてくれたの、舞ね?」
「うん、そうだよ」
「敏子さん、おばちゃんが食べるかと思ってスプーンで口元に持って行ったら、ほんの少し食べたの。『ああ、孝子ちゃんの五目おからだ。おいしいね』って喜んだのよ」
 舞の胸が熱くなる。

 花枝が退院したのをきっかけに、敏子は霞町包括支援センターから事業所《すずかぜ》を紹介され、毎日、身の回りをヘルパーに介護をしてもらえるように契約してから、自宅へ帰って行った。

 花枝は自宅に戻り落ち着きを取り戻した。骨折した足が完全に治るわけではないため、家の中では杖をついて歩いているが、外へは一人で出られなくなっていた。心配した老人会の人たちが、お茶会や催し物に誘うが、遠慮して出ようとしないため、しだいに誘いも少なくなっていった。
 その代わり、舞は学校帰りや休みの日に、花枝のところへ行く時間が増えていった。昔のことを楽しそうに話す顔は穏やかで楽しそうだ。

 その日は十月の終わりの、とても寒い朝だった。
 夕方に用事があったため、舞は学校に行く前に花枝を訪ねた。
「おはよう、おばあちゃん。起きてる?」
 寝室の電動式ベッドにいない。
「おばあちゃん、どこ?」
 トイレに行く廊下を見ると、ドアが開き杖が転がっている。いやな気持がする。舞はトイレに近づくとそっと中を見た。
「おばあちゃん!」
 花枝が倒れている。
 何をしたらいのかわからなくて、急いで家に引き返した。そのあとどうしたか覚えていない。気づいたら自分のベッドに寝ていて、母が舞の顔を心配そうに見ている。
「お母さん、おばあちゃんは? おばあちゃんが……」
「救急車で運ばれて行った。救急隊員の人がね、心筋梗塞らしいって言ってた、危険な状態だって」
 舞の胸が激しく鳴り出した。
(やだやだ、そんなの、やだ)
 その日、舞は学校を休んでしまった。
 連絡をもらって敏子が夫とともにやってきた。挨拶もそこそこに、入院した病院へ向かっていく。
 それから四日後の夕方。敏子は舞の家に来た。
「母の具合が、あまりよくないの。お医者さんに会いたい人がいたら伝えてくださいって。面会に来てほしいの……」
 父と母は顔を見合わせうなずいた。
 母は敏子と先に病院へ、父は自治会長のところへ知らせに行った。
 一人になった舞の胸に、重い塊のようなものが沈んでいく。
「舞、いらっしゃい。おばあちゃんに会ってきて」
「……でも」
「もう、会えなくなるかもしれないから、早く」
 ぐっと唇を噛みしめ、舞は顔を上げた。お店から五目おからのパックをつかみ、病院へ走った。病室へ行くと窓際のベッドのそばに、敏子の夫と敏子が付き添っている。
「舞ちゃん。今、眠っているところ。顔を見てやってね」
 そっと枕元に近づき、花枝をのぞき込む。目を閉じて寝ている姿は、前よりももっと小さくなっている。
「これ、おばあちゃんの好きな五目おからだよ。元気になって食べてよね」
 花枝の前に差し出すと敏子が目を丸くした。
(やだ、わたしってバカだ。おばあちゃん、食べられる状態じゃないよね。こんなの持ってきて、敏子おばちゃんもびっくりしてるよね)
 恥ずかしくなって下を向く舞に、敏子は涙ぐみながら言った。
「ありがとう。母が喜ぶわ。このおから、大好きだもの」
 パックを受け取り花枝の耳元にささやいた。
「お母さん。舞ちゃんがね、おからを届けてくれたのよ。よかったね」
 すると花枝のまぶたがぴくりと動いたように見えた。
「わたし、帰ります」
 布団の上の手を、そっと握る。固くてしわしわの、力のない手だけど、温かかった。
 翌朝四時、電話が鳴った。
 舞たちは飛び起きて、真っ先に母が電話に出た。しばらく話していて、静かに電話を切ったあと、
「おばあちゃん、亡くなったって……」


 舞には初めてのお通夜だった。
 何をすればいいのかかからず、じゃまにならないように自治会館の裏から堀川を見ていた。誰かに見られているような気がして振り向く。会館の壁を背にして花枝が立っていた。かげろうのように薄く、ゆらめく姿を舞は見つめた。
(舞ちゃん、ありがとうね。五目おから、おいしかったよ)
 そのあと、すっと消えた。
「舞、ここにいたの? 中に入って」
「お母さん、今、おばあちゃんがここにいた。おから、おいしかったって言って、消えちゃった」
「さっき、敏子さんから聞いたの。舞がおからを持って行った夜、意識が戻って、お腹すいたって言ったそうよ。おからをひと口だけ食べて、おいしいって。それが最期の食事だったって」
 それを聞いて舞の胸につかえていたものが一気に噴き出した。母に抱き着いて大声で泣いた。
「ちがう! わたし、何もできなかった。おばあちゃんに、ひどいこと言ったこともあった。おかしくなっていくのを嫌だなって思ってたことだってある」
 母は黙って舞の背中をさすってくれた。 

 お葬式から一週間が過ぎ、佐藤の部屋が片づけられた。
「舞ちゃんが手伝ってくれて助かったわ。夫が仕事で来られなかったから。そろそろ行かなくちゃ。子どもたちを夫の母にお願いしてきてるから、これ以上はいられなくて。これから、この家のことどうするか決めないといけないの。あ、そうだ。これ、舞ちゃんに渡そうと思って」
 敏子は小さい紙袋を手渡す。
「もらってほしいの。それじゃ、舞ちゃん。またね。元気でね」
「敏子おばさんも、元気でね」
 荷物を持つと、手を振って敏子は出て行った。
舞は紙袋を胸に抱き、妹背山に向かって走った。石段を駆け上がり、白鷺神社の境内まで行った。大きな桜の木を背にして紙袋の中を見た。花枝の作った、ちり緬の巾着袋の中に、見覚えのあるお手玉が入っている。一枚の写真もあった。裏に書かれていたのは。
【 花枝 六十六歳 舞ちゃん 二歳 】
 花枝に抱かれている舞の姿だった。

 駆け足で季節が過ぎ、十一月半ばを迎えようとしていた。
 二学期の終業式が終わり、明日から冬休みだ。
 相生橋の上で舞と有香里が立ち話をしている。
「海が近いから、けっこうここも寒い」
「真冬になると、もっと風が強くなるよ。そんな時って橋を渡るのも大変」
「舞ちゃん、裏のおばあちゃんが亡くなってから元気なかったけど、少し落ち着いた?」
「うん、なんとなくだけど。人が亡くなるのって初めてだったし、わかんないことばっかりだった」
「そっか……。でもさ、舞ちゃんすごいがんばったよ」
「そうかな、そうだといいな。
 それより、有香里ちゃんのお母さんの具合はどう?」
「う~ん、うまくいかないっていうか。お母さん、気が弱くなってて、よい時とそうじゃない時と差があって……。難しいね。舞ちゃんとぜんぜん遊べなくてごめんね」
「いいよ、有香里ちゃんも大変なんだから。スマホで連絡しあってるから、がまんする」
「わたしも、がまんする。でも、ときどきは会おうね」
「そうだね」
「あのさ、舞ちゃんちのお父さんとお母さんみたいに仲良いの、うらやましい」
「前にね、お母さんに聞いたら、昔ケンカして家出たことあるんだって言った」
「え~! それ、ほんと? 舞ちゃんのお母さん、家出したことあるんだ? すごいね」
 有香里が目を丸くした。
「でも、今は仲良くしてるんだね。うちのお母さんもお父さんに言い返せればいいんだけど。あ~あ、うち、どうなっちゃうんだろうな。お互いに性格があんなに違うのに、なんで結婚するんだとうって不思議。大人ってわからないよね。このままだと別居とかになるのかなぁ……」
「え? 有香里ちゃん、それって……?」
「へへ、ひとり言。でもさ、心配なんだよね。お父さんがぜんぜんお母さんのこと気にかけないから。ごめんね。へんなこと言っちゃった。大丈夫、わたしがしっかりしないとね。じゃあ、舞ちゃん、帰るね」
「なんでもいいから連絡してね、有香里ちゃん」
「うん、ありがとう」」
 手を振ると有香里は駆けて行った。

「ただいま~。紀代子おばさん、こんにちは」
 舞は〔スーパーあけぼの〕もガラス戸を開けると、レジで母とハヤシ寝具店の紀代子が話をしていた。
「お帰り、舞ちゃん。うちも息子が帰ってくるわね。おいとまするわ。それじゃ、お世話さま」
 二階に上がると、まずは仏壇にお線香を上げ、通信簿を置いて報告する。
「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん。二学期が終わりました。ちょっとだけ算数が上がったよ」
 お鈴を鳴らし手を合わせると台所へ行った。ガスコンロに甘酒を作った鍋がある。少し温めて湯呑に注いで飲んだ。
「舞~、お願いがあるの。配達、手伝ってくれない? お父さん、ほかの配達に行ってて戻らないから」
「いいよ。どこ?」
「三丁目の〔ひさご食堂〕まで。大根をたのまれたの。あと、甘酒をサービスで持ってって」
「は~い」
 舞は自転車の前かごに大根と甘酒の入った瓶を入れた。
「行ってきます!」
 自転車をこいで三丁目まで走る。十二月間近の風は頬に冷たく当たる。〔ひさご食堂〕の前に自転車を止め、ガラス戸を開けようとしたが、鍵がかかっている。いつもなら店主の千代が仕込みをしている時間なのに。自転車を勝手口に押していき、木のドアを叩く。
「こんにちは、千代さん。〔スーパーあけぼの〕です。配達に来ました」
 この家は古くてインターホンがないため、こうして戸を叩き大きな声で呼ばなければならなし。しかし、千代が出てくる気配がない。心配になって戸を開けた。
「千代さん、いるの? 大丈夫なの?」
 部屋の奥まで聞こえるように叫ぶ。
「なんだい、どうしたって言うんだい? 大きな声でまぁ、みっともない。ここにいるよ。おちおちお便所に行けやしない」
 水音がして千代がトイレから出てきた。
「ああ、よかったぁ……」
 舞はその場に座り込んだ。
「なにがよかったんだい?」
 千代は亡くなった花枝よりみっつくらい年上で、夫婦で食堂を商いとしていたが旦那さんを亡くし、子どももいないたま、今は一人で暮らしていた。
「あたしがたのんだもの、持ってきてくれたのかい。ありがとう」
 きびききびと指示を出され、舞はあわてて自転車のカゴから大根を持ってきた。
「あと、これ、お母さんが作った甘酒です。サービスだって言ってました」
「そうかい、そりゃありがたい」
 にっこり笑って千代が甘酒の入った瓶を受け取る。代金を受け取り、領収書を渡して帰ろうとすると、千代が呼び止めた。
「おい、舞ちゃん。せっかくだから甘酒、いっしょに飲んでいかないか。一人で飲んでも楽しくないから」
 千代が店のドアのカギを開け、舞は中に入った。十人ほど座れば満席というカウンターだけの食堂だ。舞は席に座ると、千代が温めなおした甘酒をもらって飲んだ。
「ねえ、千代さん。一人でさびしくないの?」
「そうねぇ。あまりにも時間がたちすぎてさ、さびしいかどうかも、わからなくなちゃったよ。ただね、顔なじみがだんだんいなくなるのは、さびしいっちゃさびしいねぇ。あたしより若い花枝ちゃんもあっちに行ってしまったし。あたしも年を取りすぎた。まぁ、半分は棺桶に片足をつっこんでいるようなものなんだけどさ。まだ、ちょっとだけ踏ん張ってる」
「千代さんは、もっと長生きしてよね。元気でいてほしい」
「そうだね。あんたがお嫁に行くのを見届けたいよ」
「きっとだよ」
「そろそろ仕込みをするから、悪いね」
「あ、千代さん、また遊びに来てもいい? オムレツ、教えてほしい」
「あんたんとこの孝子ちゃんに教わればいいのに」
「千代さんのオムレツがおいしいから、作り方を教わりたい」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、また来るね」
 舞は自転車に乗るとペダルをこいだ。

「ただいま~、千代さんに届けてきた。これ、お金」
 舞はレジの母親に代金を渡す。
「お帰り。千代さん、元気だった? 二、三日前に風邪をひいたって聞いてたから」
「元気だったよ」
「そう、よかった。千代さんも高齢になったし、ちょっと心配よね。佐藤のおばあちゃんのこともあるから、気にかけてないと」
「わたし、千代さんにオムレツの作り方を教わる約束したの。様子も見る」
 舞は笑顔を見せた。

画像6

 クリスマスが過ぎ、御用納めが終わると、曙町商店街も年末セールのPOPやのぼりが目立つようになる。師走の風が町に吹き始め、だれもが気ぜわしくなっていく。
〔スーパーあけぼの〕の店頭にも、お正月用の食材が並び、いつもより忙しくなる。総菜コーナーにおせち料理の煮豆。栗きんとん、昆布巻き、伊達巻やらがおかれ、連日にぎわいを見せていた。舞も毎日、お店の手伝いをした。

 そして年の瀬を迎え、掃き清められた家々の前には門松や正月飾りに彩られる。〔スーパーあけぼの〕もようやく忙しさがゆるみ、ひと息つく。そんな中、大忙しなのは蕎麦屋〔松屋〕だった。曙町のほとんどの家から年越しそばの注文があるため、大旦那を始め家族総出で切り盛りしている。もちろん、舞の家も〔松屋〕に年越しそばをお願いしている。
 一段と冷え込んだ大晦日の夜。〔スーパーあけぼの〕も今年の仕事を終えてシャッターを下ろした。
「今年もいろいろあったな。こうして年末を迎えられてよかった」
 父がほっとしたように言う。
 歌番組を見ていると勝手口のベルが鳴った。
「こんばんは、〔松屋〕です。年越しそばをお持ちしました」
 母と舞がドアを開けると、大旦那の孫、信次が岡持を手に立っていた。
「こんばんは。信次さんも毎年大変ね」
「この時期、大学も休みだから手伝えることはやろうと思ってます」
「大学二年になるだっけ? 寮生活はどう、楽しい?」
「まあまあです。食事の心配がないのが助かります」
「はい、お代ね。お釣りはいいわ」
「毎度ありがとうございます。それじゃ、よいお年を。舞ちゃん、またね」
「よいお年を」
 信次はお金を受け取り店に戻っていく。
「さ、年越しそばを食べましょ」
 三人で年越しそばを食べながら、一年のことを思い出していた。
「除夜の鐘を聞いてから寝る」
 と言っていた舞だが、お風呂に入ったら眠気に勝てず、除夜の鐘を聞く前に布団にもぐりこんでしまった。

 明けて新年。
 朝早く目覚めた舞は、窓を開けて外を見た。きらきらと眩しい朝日に照らされた町。
「雪、雪だ!」
 急いで着替えて外に出た。
 あたり一面、雪が積もっていた。
「夜、寒かったはずだ」
 新雪に足跡をつけながら相生橋まで歩いた。誰かが雪かきをしてくれたのか、橋の上は雪が少ししかない。真ん中まで行くと川から湾を見た。真冬の空は怖いくらい澄んでいる。
 そこへ郵便配達の男性が、雪道に注意を払いながら、ゆっくりとバイクを走らせながら橋を渡ってきた。
「あけましておめでとうございます」
 舞に言われて郵便配達員が驚いてバイクを止めた。
「ああ、おめでとうございます。早いね」
「新年の、一番きれいな空気を味わってます」
「なるほど、たしかに、きれいな空気だ」
 舞にならって大きく深呼吸をした。
「さて、きれいな空気を吸ったから元気よく年賀状を配達してこよう。それじゃあ、失礼」
 にっこりしてバイクを走らせて行った。
 舞が家に帰ると
、母が驚いたように言う。
「寒い中、外に行ってたの? 顔が真っ赤よ。さ、あいさつして、おせち料理を食べましょ。それから、お年玉よ」
「は~い」
 急いで手を洗いに行った。

 一月三日は有香里と初詣の約束をしていた。相生橋で朝の九時に待ち合わせて、白鷺神社へ向かった。夜の間に降った雪が、妹背山と神社の周りにうっすらと雪化粧を施していた。
 石段を上り境内を歩きながら有香里は言った。
「なんか、ここだけ別の世界みたい。お祭りの時とは雰囲気変わるよね?」
 凛とした空気が二人を包むと、体の中がきれいになるような気がしてくる。拝殿に向かい、おさい銭を入れて手を合わせる。そのあとおみくじを引いて、二人とも大吉が出たと大喜びし、神社でふるまわれた甘酒を飲んだ。
 神社からの帰り道もたくさん話をした。
「もうすぐ、小学校を卒業するのかぁ。信じられないね」
「舞ちゃんは霞町中学?」
「うん、そうだよ。公立じゃないとむりだもん」
「わたしも霞町中学だからうれしい。ほんとはお父さんが私立に行かせたかったみたいだけど、いろいろとあって受験は間に合わなかった。でも、それでよかったんだ」
相生橋まで来て、ふっと有香里が笑った。
「じゃあね、舞ちゃん。始業式で」
「ばいばい、有香里ちゃん。またね」
 少しだけ有香里が大人びて見えた、舞の気持ちが焦りを覚えた。


 そして、春三月。
 小学校の卒業式を終えて、舞と有香里は校庭に出て家族や友だちと写真を撮っていた。
「卒業っていってもまだ実感がないね」
「ほんとだねー」
「ほとんど霞町中学だから、ほぼ同じ顔ぶれとか」
「確かにー」
「そういえば、お姉ちゃんに聞いたんだけど、霞町中って一年から職場体験があるんだって」
 それを聞いた有香里が舞に聞く。
「職場体験かぁ。楽しそう。舞ちゃんはどんな職業を選びたい? わたしは洋服とか好きだからそういうお店に行ってみたいな」
 その時、白いワゴン車が走ってきた。車体に〔デイサービスすずかぜ〕と書いてある。
(あ!)
 その車を見たとき舞の中で思いがはじけた。
「わたしは……介護関係、かな」
 走り去る白いワゴン車を目で追った。

※  ※

 カチ、とコーヒーカップをお皿に置き、菜摘がつぶやくように言う。
「佐藤花枝さんね……。おぼえてるわ。娘さんが霞町包括支援センターに相談に来てね。まず介護申請して、役所に提出したあと、認定調査が始まるからと説明した。認定まで時間がかかり、事態が変わってしまって。できればデイサービス〔すずかぜ〕にも来てもらいたかったけど。
 娘さんが他県にいるから大変だったようで。でも、ご近所の人にずいぶん助けられたって言ってたわ。その中に、あたなも入っていたのね。よくがんばったわね。その年で経験したこと、あとで生きてくると思う」
 菜摘に言われて舞の胸が熱くなった。
「明日も職業体験、よろしくお願いしますね。そうそう、三田さんね。昔、飼っていたマルチーズの名前が『ミミちゃん』なんですって。白いぬいぐるみをミミちゃんだと思ってるかもね」
「そうなんですね。ありがとうございます」
 菜摘と舞が〔ゆすら梅〕の店内に戻ると、藍子がカウンターから声をかける。
「お話、終わったの?」
「はい。ありがとうございました。ミルクティー、おいしかったです。お金」
「ああ、いいのよ。今日は菜摘のおごりだって言ってたから。また、よければいらっしゃい」
「ありがとうございます」
 店を出ると菜摘は相生橋のところまで送ってくれた。
「武田さん、ありがとうございました。明日もがんばります」

「それじゃ、内田さん。明日ね」
 笑顔を見せ菜摘は〔ゆすら梅〕に戻って行った。
「よし、わたしも笑顔でがんばるぞ!」
 右手を空に突き上げると、通りすがりのおじさんが驚いて振り返った。
「あ、すみません……」
 あわてて頭を下げると、相生橋を急いで渡った。
 それを追いかけるようにして、初夏の風が吹き、舞の背中を押し去った。
                  
                         〈 終わり 〉
2022年2月5日 (土)






記事が少しでも心に残ったものがあれば幸いです。サポートもありがとうございます。創作の支えとして大切に使わせて頂きます。