明治四年の薄野の北

 明治四年が暮れようとしていた。小平太こへいたは店の外の暖簾を見つめている。燃えかすのような薪がぱちぱちと音を立て、真っ白に埋もれた街の片隅で命を繋がせる。

「こんなところにも、年神さまはいらっしゃるのだろうか」

「馬鹿なことを言っちゃあいけません」

安吉やすきちが返す。

「蝦夷が島だって、立派なところじゃありませんか。きっといらっしゃるに違いありません」

「そうかい」

小平太は煙管を拾い上げ、咥える。

「ああ、冷たくて、かなわねえ」

「じゃあお吸いにならなければいい。わたしは、そいつが苦手ですよ」

「苦手がなんだ、酒場の見習いなら、煙にくらい慣れておけ」

「そうは言っても、藻岩もいわの山にはそんなもくもくとするものはありませんでしたから」

彼は目をしばたかせる。

「それに、目に来る。なんだってそんなものがいいのか、見当も付きません」

小平太はこれ見よがしに天を仰ぐ。

「まあ、お前も大人になりゃあ、分かるかもなあ」

「そんなやつが分かるのが大人なら、わたしはならないでも結構です」

ひょこりと丸椅子から降りる。

「親父さん、もう暖簾下げましょうよ。大晦日の、それもこんな吹雪の日に出歩く奴なんか、おりませんって」

「分からないぜ。遭難した街のやつが捕まるかも」

「死んでいますよ、そんなのはとっくに」

ため息が漏れる。

「さっきから、とんでもない吹雪でしょう」

「そりゃあ、そうだが」

小平太は口を歪ませる。

「それなら安吉、お前のところはどうしてた」

「どう、と仰いますと」

「俺らがえっちらほっちらここまで来る前はよ、夏も冬も同じように、野っぱらに居を構えていたんだろう」

「ええ、まあ」

安吉は下がった目尻を一層垂れた。

「穴を探して、凌いでおりました」

「穴」

小平太が笑う。

「お前さん、穴と言って、そんなもんでどうにかなるのかい」

「へえ、動きませんので、冬は」

「ほお」

感心したような声が上がる。

「狸ってえのは、不思議なもんだな。腹は減らねえのか」

「減りますよ。そりゃあもう。でも食べられるものがございませんから」

がらり、と戸を開ける。暖簾を中へと取り込む安吉の手が、端から凍り付いていく。

「ああ、寒い。ひとって言うもんは、どうしてこんな寒いときにも動くんですかねえ」

「そりゃあ、冬だって腹が減るからさ」

かっかっか、と冷たい笑い声が上がる。

「それに、俺らは穴を探せないからな、狸と違って」

「なんです」

びしり、と戸を閉める。足元に小さく斜めに雪が積もっている。

「なんでも」

小平太は、口から煙を吐き出した。

「まあ、お互い独り身。今晩くらいは仲良くやろう」

狸はしばらく彼をにらんでいたが、やがてため息混じりに、「年神さまに来てもらわないといけませんからね」と言った。

 暖簾を店の内側に掛けるか掛けないか、どんどん、と店の戸を叩く音がした。

「おい」

小平太が笑う。

「ほら、言っただろう、客だ」

「吹雪ですよ、どうせ」

「開けてやれよ、人間だったらどうするんだい」

「どうするもこうするも、入れますけれど」

安吉はもう一度あの寒いつぶてを浴びるのが億劫で、いやいや扉を開いた。轟々と流れ込んでくる白い結晶。その向こうに、酒の匂いのする影が二つあった。

「やってるかい」

「ええ」

店主は急に愛想よくなり、「こちらへどうぞ」と声をあげる。

「良かった良かった、この年の暮れにやっている店なんていうのは、無いからねえ」

白髪混じりの男はぐちゃぐちゃと絡まる舌でこぼす。

「作三郎さくさぶろうさん、飲みすぎですよ」

「飲み過ぎがなんだい、今日は暮れ、明日は新年だ。飲まずには居られねえだろう」

妙に艶かしい着物姿の女が、男の羽織の肩に積もった雪を払いのける。

「お客さん、お家のほうはよろしくて」

「よろしいも何も、その『ほう』が無い」

はは、と軽く笑ったかと思うと、急に不機嫌そうに言った。

「悪いかい、そうでもなきゃあ、今日は出歩かねえだろう」

鼻の頭を紅く染め、黄色がかった眼球でぎょろりと小平太をにらみつけた。ただ、この小さな集落で柄の悪いのに慣れてしまった店主には、それもただの酒飲みの勢いであったらしい。どうとも答えることも無く、ひらりとかわして、彼は女に話かける。

「お嬢さんも」

「お嬢さんだなんて、いやですわ」

ふわりとした高い声で、彼女は笑った。

「初はつと申します」

「お初さん、あんたも独り身か」

「独り身と言えば、独り身。今日は、作三郎さんのひとですけれど」

「ほお」

安吉は黙って、またもと居た端の席に座る。すっかりこの数分で冷え切った座面が、尻に不愉快だ。

「そいつあ、めでたい」

「めでたいだあ」

男がどかりと椅子に身体を落とす。

「そうさ、明日は、明治の五年。めでたいに違えねえ」

「そうじゃなくて」

彼は徳利を火に掛ける。

「ここにいるのが、全員独り身」

炭がぱちんと跳ねた。

「はあ、そう来たか」

作三郎は顎の前で指を組み、小平太を見る。

「お初」

「はい」

「お前も、飲みたいか」

「わたしは、お酒に強くないもので、そんなにはいただけません」

「いいだろう、今日くらい荒れたって」

彼は「猪口を二つ」と喚いた。

「こんな馬鹿みたいに寒いところにやって来た鬱憤でも何でも、ここで吐き出そうや。それでこそ、年神さまを迎えられるってもんだろう。な」

「肴は何にします」

「何がある」

小平太がちらりと安吉を見た。

「何があったかねえ、安吉」

「は、はいっ」

彼はびくりとして、それからきょろきょろ辺りを見回した。

「あの、昆布巻きと、黒豆と、膾と、あとは餅の巾着」

「昆布巻きに黒豆だ」

作三郎は鼻で笑う。

「御節ってのはな、正月に食うもんだろう。それを今日食っちまったら、明日は何を食べる」

「明日も御節を食えばいいじゃありませんか」

小平太が大して表情も変えないまま、徳利を見つめた。

「食えるものも、あんまりなくて。本土からの船が入ったのも、もう何日前だか」

「毎日こんな天気じゃ、仕方ねえか」

ため息をついた男の手がお初の腰に回る。

「こんな別嬪さんがいるだけ、ましと思わにゃ」

「別嬪だなんて」

彼女は艶っぽく笑ったが、目の奥が冷たい。安吉はそれを遠目に見て、人間の大人というものは、と口の内側で言った。少なくとも知っている人間の大人というものは、小平太が一番にまともで、そのあとは団栗の背比べ。皮の面の厚さでも競っているのかというくらいに上辺だけで、それでいて時に尊大で、他人を小馬鹿にする。もしかしたら、自分が狸であることが知られていて、それでそんな風な態度を取られて遊ばれているのか。彼はそうとさえ考え始めていた。いや、分かるはずがねえ。友人の間でも一番の変身名人だったのだ。これで駄目なら、何なら大丈夫だ。彼は襟を正して、また鉄面皮たちを見た。

「燗が出来ましたよ」

小平太が手拭いで首を掴む。そして網から下して、猪口に注ぐ。

「おお、いいねえ」

客はご満悦のようだ。

「こいつにも、それと、そこのあいつにも注いでやれ」

「あ、え」

彼は赤い鼻をこすったその手で、安吉を指差した。安吉は驚いて変な声をあげた。

「わたしは、その」

「お客さん、あいつはうちの小間使いでして」

「なんだい」

彼は目の前に置かれた盃に手を伸ばさない。

「大晦日だ。新年が来る。めでたいじゃねえか。小間使いだろうが、花売りだろうが、関係あるかい。おい、お前」

「はい」

安吉は立ち上がって、一つ席を詰める。まだ間には幾何もの距離とお初があるのに、どうしても狭い店の中、男の威圧的な、恫喝とも取れるような声調に、思わず身体が硬くなる。

「俺の酒だ、今夜は飲もう。お前も札幌がこんなへんぴな、何にもないところだとは思わなかっただろう。いわば、お国に騙されたようなもんだ」

「はあ」

真実を告げられるわけでもなく、安吉はただ相槌を打つ。

「この憂さ晴らさずに、年を明かして、いいものかね」

「飲みましょう、お客さん、安吉も、ほれ」

小平太は観念したらしく、まくしたてるようにそう言うと、それぞれの前に半量入った猪口を置く。

「そうだ、いいぞ。みんなで飲もう。燗酒で拓く、北の大沃野」

彼は陽気にそう言うと、大声で笑った。

「お初さん、でしたか」

「はい」

小平太が女を覗き込む。

「このひと、どれほど飲んできたんです」

「わたしがお声をかけるまでは分かりませんが、酒屋で四合を一本買って、持って歩いて飲み干して、それで見つけたのがこのお店でした」

ここに来るまでに飲んだ酒が今になって回ってきたのか。小平太はため息交じりに「はあ、それはそれは」と返した。お初はそれ以上何も言わず、しゃっくりなど始めた男を心配そうに見つめる。

「飲むぞ、おい、今夜は飲む、飲んで年を迎える」

そればかりを繰り返し、彼はようやく猪口に手を付けたかと思うと、驚くほどの傾きで一瞬にしてそれを身体に収めていった。

「かあっ」

悲鳴ともとれる声が上がって、彼は天を仰ぐ。

「いいなあ、燗だ、燗に限る。銚子、もう一本付けといてくれ」

「暮れだからって、踏み倒したらいけませんよ」

「分かってる、分かってる」

安吉は猪口の中を覗き込んだ。薄っすら黄色く濁って湯気を上げる液体。いつか見た煙を上げる登別の川の水を、そのままこの中に注ぎ込んだようにさえ思える。匂いが鼻に刺さって、思わず彼は顔をしかめた。どうしたって、苦手だ。舌が焼けるように熱くなるし、すぐに自分が自分でなくなって行ってしまうような感覚になる。小平太に昔それを言ったとき、「それがいいんだよ、それが酒だ」と返された。そんな危険なものを、ましてや瓶などというもっと危険なものに入れて、金を払って飲みたがるのだから、分からない。彼はちらりと横を見た。小平太は「いただきます」と言って、一気に煽っている。お初は、安吉と同じように猪口を見つめたまま、浮かない顔をしている。その奥で、作三郎が飲んでいない二人を見つめている。なんとも、脅迫的な目。

「安吉」

小平太の声がする。

「こういうときは、いただくのが礼儀だ」

「はあ」

進められるがまま、彼は杯を手にした。軽い。このあと、これを飲んでしまったあとのことが予想できるだけに、手の上の軽さが恐ろしい。飲む前から、心臓の拍動が上がっていく。

「あの」

つばを飲み込む。ごくりと音がして、胃に落ちた。

「いただきます」

猪口に口をつける。熱気が鼻を直撃する。目をつぶった。そして、ようやく安吉の口の中に、いつだか振りの酒が注ぎ込まれていく。

「ああっ」

無理に腹へと収めてしまって、彼は吠えた。

「ごちそうさまです」

「なんだい、いい飲みっぷりじゃねえか」

「いえ、あの、お酒はあんまり得意でなくて」

「まあまあ、もう一杯」

作三郎がふらふらと立ち上がった。熱いはずの徳利の首を素手で持ち、ゆらゆら揺らしながら安吉の盃めがけて歩いてくる。

「お初」

「は、はい」

突然呼びかけられて、彼女は顔を上げた。

「お前も飲め、今日くらいは乱れたって、構わねえさ」

美しく白い顔に、一瞬黒い影が現れて、それを彼女はすぐかき消した。

「ありがとうございます、それじゃ、おことばに甘えて」

安吉の杯に酒が注がれる。

「ああ、いいです、いいです、そんなには」

「大丈夫だ、おい主人、まだ酒はあるんだろう」

「四人が飲むには十分すぎるほどありますよ、お客さんが蛇でなきゃあね」

「俺が蛇」

作三郎ははっとしたように顔を上げた。

「そいつはいいや、俺が蛇か」

彼は、かっかっか、と甲高く笑って、お初にまた酒を注ぐ。

「そんな」

彼女も多くは飲めないと言っていた。だのに、安吉のところから見ても十分と思うほどになっている。

「俺が蛇なら、こいつはなんだい」

「安吉は、狸」

安吉の背筋がびんと張る。

「狸か」

作三郎が安吉の顔を遠くから覗き込んだ。

「確かに似てらあ」

杯が傾いて、小平太が注ぐ。

「それじゃあ、この娘は」

「そちらは、鶴でしょうかね。端正で、お美しい」

お初が頬を赤らめる。

「ほう、それじゃあ、あんたはなんだい」

「わたしは店主ですから、人間です」

作三郎は、また甲高く笑った。

「面白い、いい店だ」

そして、もう一度ごくりと喉を鳴らした。

「さあ、煮豆だ、昆布巻きだ。一日早い来年を祝おうじゃないか」

 それから、何杯か飲んだ。うまくはない。米は米のままで、適当に炊いて熱いうちに食うがいい。なんでまた、一度腐らせてどろどろにして、それを濾したりなんだりと。安吉は崩れ落ちそうな頭をふらつかせて、「うええ」と一声鳴いた。それから、ちかちかする眼をうつろにとろりと溶かして、ぼうっとお初を見た。綺麗だ。口少なく、また酒で頬を赤らめているのも、いい。人間の女に惚れることもあるのか。それもそうだ、あっておかしくはない。今は人間の男をやっているのだから。自然、杯に手が伸びた。喉が渇く。

「安吉、それくらいにしときな」

小平太がぼそりとつぶやいた。とうに作三郎は机に突っ伏して、があがあとやかましい寝息を立てている。

「耳が出てるぜ」

「耳?」

驚いて、彼は自分の頭を触った。

「あっ」

手に当たる、柔らかくて、それでいて跳ね返りのあるもの。「耳」。小平太は確かにそう言った。まさかと思った。なぜ、こんなことになっているのだ。変身は完璧だったはず。彼は何度もこころの中で反芻したが、頭の中の糸がぐちゃぐちゃに絡まって解けない。顔が熱い。

「ほんとうだあ」

彼はとうとうにやりと笑って、それだけ言った。解決するだけの考えがわいてこない。それならば、解決せずともいいじゃないか。その飛び出した耳を何度も撫でる。頭蓋に押し付けるとへたり込み、離せばぴょこりと飛び上がる。これはいい。安吉は視界の端を行ったり来たりする毛の生えたそれを見ていた。変身が、解けている。寝るとき以外は人間のつもりでいた。最近では朝起きても人間の姿のままだったのに。酒は恐ろしい。恐ろしいと思いながら、それでもなんだかおかしくて、何度も耳を跳ね上げる。

「およしなさいよ、みっともない」

お初が言った。

「お」

小平太はじっと腕を組む。

「お嬢さん、肝が据わっているねえ」

「札幌の女はこうでないといけませんから」

彼女はことりと首を傾ける。

「いやあ、まさに妖婦」

安吉の目に、また紫煙が溶け出した。

「ねえ、親父さん、やめてくださいよお、わたしはそれが、苦手なんですよお」

ふさふさのものに手を当てたまま、彼は煙管をにらむ。

「酒と言い、煙と言い、なんでそんなものがいいかなあ」

「狸の坊や」

お初が手招きをする。

「んん」

低く唸って、逡巡。取って食われるわけではなかろう。彼は椅子から飛び降りて、それまでに比べて随分と短くなった足を走らせた。

「なんです」

「まあまあ、立ってないで、お座り」

頬を紅に染めた彼女が自分の膝を叩く。

「ば、ばかを言っちゃあ、いけません」

それ以上に赤くなって、安吉は吠えた。

「そんなところに、座るなんて」

「あら、わたしの上は、そんなところかしら」

「そんなところでしょう」

そっぽを向いたまま、彼はお初の横の席に腰かけた。彼女を挟んで向こう側には、まだ大いびきをかく作三郎が見えた。だらしなく涎など垂らしている。あとであそこを拭く仕事が待っている。それを思って、急に酔いが醒めた。

「わたしもお酒は苦手なの。具合が悪くなっちゃうでしょう」

「なら、なんで飲んだんです」

「それは、わたしが今日はこの人のものだからよ」

あごで男を指した。

「わたしのことがお気に入りみたいでね、時々買ってくれるの」

彼女は頬に手を当てた。

「寝ちゃったけれどね」

「買われたら、いうことを聞かなきゃならないのですか」

「そうねえ、そういうお仕事だから。お花を売るっていうのは」

お初の前には、いつの間にか湯のみが置かれていた。小平太が気を利かせたのかもしれない。彼女はそれを傾けて、それからひょいと餅巾着を拾い上げた。

「それなら、わたしが買ったらどうなります」

「どう」

彼女は止まった。

「どう、というのは」

「嫌なことは、させません」

「んん」

お初は難しい顔をした。

「お名前は、なんと言ったかしら」

「安吉です」

「安吉さん」

彼女の目が、いたずらに笑う。

「お花を買ってもらうっていうのはね、夜のお相手もするってことなのよ」

安吉は驚いて、目を見開いた。

「夜」

「ここからちょっと南に行ったところに、背の高い塀があるでしょう」

小平太のにやついた顔が彼を見ている。事情を呑み込めていないのは、安吉ばかり。

「あれの中は薄野遊郭と言ってね、男の人のお相手をする遊び場なのよ。安吉さんは行ったことがないと思うけれど」

「そ、そういうのは、その、好きなもん同士が、番つがいになって、その、そういうことじゃあ、ないんですか」

安吉の声がおののく。

「そりゃあ、本当はそうよ。でも、ここに一人で来た男の人を慰めるのも、大事なことなの」

「お嬢さん」

小平太が空になった皿に、また餅巾着を乗せる。

「しっぽ」

「え」

彼女はびくりと身体を跳ね上がらせて後ろを見た。

「ああ」

「いやあ、珍しい」

安吉もつられてそこを見る。金色に光る、艶やかな毛並み。彼女は、しまった、という顔をしていたが、やがて彼がついさっきそうしたように、にへらとだらしなく笑った。

「狸と狐とが揃い踏みとは」

「お酒はほら、なんとか水って言うでしょう」

小平太は湯呑みをがしりと掴んでそこにまた湯気の立つ茶を注ぐ。

「巾着なら、まだありますから」

「どういたしまして。でも狐が油揚げばかり食べると思ったら、大間違い」

彼女は安吉の首をがしりと掴んで、膝の上に無理やり招き入れた。

「なっ」

驚いた彼は悲鳴をあげようとしたが、力任せにそこに置かれる。

「おうおう、大事にしてくれよ、うちの稼ぎ頭だ」

「いやいや、この子はわたしを買うと言いました。わたしの好きなようにさせてくれると」

「わたしは嫌なことはさせないと言ったまでで」

「おんなじこと」

彼女は笑って、安吉に杯を手渡した。

「わたしの代わりに、一杯行ってくださいますな、旦那様」

安吉は杯の中を覗き込んだ。水面に、茶の耳と金の耳がひょこひょこと揺れている。

「ああ」

ずるい。彼はそう思った。狐に化かされる狸があってたまるものか。そう思いながらも、ぐいと杯を傾ける。

「いい、飲みっぷりです、旦那様」

彼女の手が、柔らかく安吉の頭頂を撫でた。

 ぼうん、と鈍い鐘の音がした。視界は相変わらずぼんやりとしている。目の前には、まだ半分以上入ったままの盃がある。鼻には酒のにおいがこびりついて離れない。お初のももの温かさが、彼の身体をも温めていた。安吉は、いまだに耳の仕舞い方が分からないで、何度も手で押し込んでみては、引っ込まないそれを恨めしくさえ思っていた。今までこんなことは無かったのに。ぼうん、ともう一度鐘が鳴った。隣の大いびきが、はたと止まって、んん、と苦しそうにうめいた。

「ああ、寝ちまってたかあ」

「お早いお目覚めで」

小平太が「気付けにどうぞ」と何やら差し出した。

「茶か、いいな」

呂律の怪しい舌先がそれだけ言うと、作三郎は一気にそれを飲み干した。

「ん」

そして、異変に気付く。

「お初、お前、それはなんだい」

「それというのは、どれです」

「どれもこれもだ」

安吉はごろりと首をねじって、元の旦那のほうを見た。

「それに、小間使いのお前も、お初に何してやがる」

「作三郎さん、おやめください」

お初が笑った。

「この狸の坊やが、わたしを買うと言ったのです。おかしくて、ついここに乗せてしまいました。やましいことは、一つもありませんから」

「そうです」

安吉は先ほど目の前の彼がそうしていたように、汚く机にもたれかかりながら口を開いた。

「わたしは、お初さんに、なにも、その、しては、おりま、せん」

ぼうん。

「はは」

作三郎は楽しそうな声を上げた。

「まあいい、こんな年越しもあるだろう。さすがは魔の棲む北の国。夢か現か、狸と狐と、蛇と人間。おかしな四人で飲む酒も悪くは、ない。ほら、主人、酒だ、燗だ。今日は明けまで飲むぞ」

彼は大声で笑う。また、鐘が鳴った。

「薄野北には狸が小路、狐に抓まれ鐘が鳴る」

「はあ、よいよい」

作三郎の都都逸に小平太はそう応えながら、銚子を網に乗せた。安吉は目をつぶり、ただお初に撫でられるがまま、深い眠りに落ちていった。あと少しで、明治四年が終わろうとしていた。

よろしければサポートをお願いします。 いただいたご支援は活動費として使用させていただきます。